きみの破片が心臓に刺さる



「あ、ごめん起こしちゃった」
「……あ、れ、おかえり」
「うん、ただいま」


 数日後の夜のことだ。
 ワニをクッション代わりにしていたら、どうやらそのままソファでうたた寝をしてしまっていたようで、毛布を掛けられる感覚にふと意識が浮上した。重たい瞼を持ち上げると、仄暗い部屋を背景に悟の顔が間近にあった。

 むくりと上体を起こす。


「ん、寝ちゃってた……なんかアニーといると眠たくなっちゃって」
「アニー?」
「この子の名前。ワニじゃなんだかなーって思って付けたの。ワニとアニーでなんとなく韻を踏んだ感あるし」
「……ある?」


 名前の膝に乗っているアニーの頭をぽすぽすと撫でる。

 アニーは基本的には借りてきた猫のように大人しい。いや、この場合借りてきたワニ? ともかく、パンダと違って普通の呪骸であるからそれは当然の事ではあるのだが、大人しさに加え、とにかく名前にべったりと付きまとってくるフシがあった。そのべったり具合といったら幼子の後追いより酷いかもしれない。その近すぎる距離感に当初は戸惑ったが、慣れてくるとこれがまた可愛い。

 しかし可愛いからといって油断をしていると、名前に疲労の色が浮かんだ時や零時を跨いで起きていようとした時に、例の強制睡眠モードへと切り替わる。その強制力の威力たるや、名前が寝ずに起きていられたことはない。


「アニーに何か細工したでしょ」
「フフ、当然」


 あっけらかんと笑う悟にアニーを押し付け、名前はキッチンへと向かった。まだ意識は半分寝ているようなものだが、喉が乾いていた。


「そういえば今日になってようやく気づいたんだけど、この部屋のまわり結界張られすぎじゃない? 何重になってるの?」
「え〜〜? 五? 六? 十? 覚えてないな」
「あはっ、適当。大変だね」


 名前の“大変だね”は、“悟を狙う者は絶えないんだね”という意味合いであったが、この結界はすべて名前のために悟が張り巡らせたものである。
 故に悟は名前に見えぬ位置で唇の端を持ち上げ笑みを落とした。


 水を飲もうと戸棚の上段のカップへと手を伸ばす。しかし眠気の残る身体は予想以上に思うように動かず、


「あ、」


 ──ガシャン!

 名前の手から無情にもカップが滑り落ちてしまった。咄嗟に受け止めることもできず、フローリングに落ちたカップはか細いくせに重たい音を立てて割れた。


「大丈夫?」
「ごめんなさい、割っちゃった」
「あ、触んないで。僕がやるから」


 破片を拾おうと伸ばした手首を、悟の手が素早く掴んだ。

 その刹那、名前の心臓が痛いくらいに締まった。

 割れた硝子を片付けるだけだ。子どもでもあるまいし、怪我などせずに自分でできる。それでも悟の気遣いが、まるでそうするのが当たり前とでも言うような自然な気遣いが、身に沁みて。咄嗟のこととはいえ、あれだけ自制していたくせにしっかりと掴まれた腕が熱くて。


「……名前? 何か……え、どした? 怪我した?」
「ち、が……」
「でも泣いてんじゃん」
「違うの、ごめん」


 意図せず涙が溢れてしまって、名前は頬を拭った。ふるふるとかぶりを振る。

 最悪だ。こんなタイミングで、しかも悟の目の前で泣いてしまうなんて。
 掴まれた手首に、悟の優しさに、溢れ出してしまった。隠すつもりだった想いが、溢れてしまった。


「名前、言ってごらん」
「やだ」
「言ってくんなきゃわかんない」
「やだ」
「言わなきゃ抱きしめちゃうよ」
「……っやだ」


 首を横に振り続けると、悟から呆れたようなちいさな吐息が落ちた。

 次の瞬間には、悟の匂い。

 否応なくその胸に仕舞われ、涙が悟の胸元を濡らす。なんとか脱出しようとあちこち隙間を探してみるのだが、余計に強く抱きしめられてしまう。そのたび悟の匂いが強くなって、名前は目眩すら覚えて眉を寄せた。

 頭上から、穏やかな声が降る。


「……名前。どーした?」


 ──言わないつもりだった。

 記憶が戻れば万々歳。あのときは大変だったね、なんて思い出話にして、この気持ちはそのまま以前の名前のものとなる。
 もし戻らぬまま生涯を終えることになるのなら、墓場まで持っていこう。戻らぬ未来が確定した段階で──それを誰がどう見極めるのかはまだわからないが──、悟とのすべてを捨て誰も知らぬ地で生きていこう。

 そう、思っていたのに。

 一度溢れ出てしまったこの想いを留め置く術を、名前は知らなかった。自分でも気づかぬうちにそれほど大きく膨れ上がっていた。


「……好きに、なっちゃったの」
「は? 何を?」
「……悟を」

 悟が息を呑むのが直に触れた胸板から伝わった。

「好きになっちゃったの。悟が好きでいるのは、このわたしじゃないのに」


 嗚咽混じりに吐露した想いは、情けなく震えていた。

 悟はいま、どんな顔をしているのだろう。

 聞く限り、悟との関係は十年以上の長きに渡ったものだった。その間にどんな出来事があったか、いつから恋仲なのか。具には教えられていないが、悟が与えてくれる愛にはその年月を経てこその重みが確かにある。
 悟がくれるものはすべて、悟が想っていた名前に向けられたものだ。それを自分へのものと錯覚し、それに飽き足らずあろうことか悟への恋慕を自覚するまでになってしまった。

 なんて浅薄な女だ、と。今度こそ軽蔑されるだろうか。

 そう危惧した、その時だ。


「アハハハハハ!」
「……え? 全然笑うとこじゃないんだけど……」
「ごめんごめん、てっきり家を出たいとかなんなら誰も知る人のいない国に行きたいとか言われるかと思ったから、アハハハ」
「あ、また笑う」


 何が可笑しいのか、本当に何が可笑しいのか、悟は腹を抱える勢いで──腹には名前がいるから代わりに名前を抱える勢いだが──ヒーヒー言いながら笑っている。

 暫く無言で待っていたが一向に収まる気配はなく、だんだん腹さえ立ってくる始末だ。


「……真剣に話したわたしが馬鹿だった」
「ごめんごめん、フフ、いや〜なんでだろ、なんか安心したら笑い止まんなくなっちゃった」
「安心?」
「うん。僕ってやっぱイイ男なんだなーって」
「あは、自分で言った」


 軽口の割に、名前を抱く腕には離すまいとするような強い力が込められていた。


「名前はさ、あの日々がなくても僕を選んでくれるんだね。……あ、勿論記憶が不必要っていう意味合いじゃないけど。可能なんだったらそりゃ思い出してほしいし」
「……? 軽蔑しないの?」
「は? なんで」
「え、だってこんな短期間で、しかもわたしじゃないわたしに向けてもらってる気持ちをもらったつもりになって、それで、」
「はーいストップストップ。何言ってんの? 名前ってば馬鹿?」
「なっ、」


 ば、馬鹿って言った。
 そう抗議の声を上げたかったが、適わなかった。後頭部を撫でてくれる悟の指先がくるくると円を描くように遊び始め、そっちに気が行ってしまったせいだ。

 巫山戯ているのか無意識なのか、いや、巫山戯ているのか。この際どちらでもいいが、くるくるした動きは止まることがなく、とにかく気になる。


「今の名前も、記憶を失くす以前の名前も、どっちも僕にとっては最愛の人だよ」
「──…」
「そりゃ、まだしんどい時もあるさ。でもね、僕を忘れたってだけで、名前は何も変わってないんだよ。僕が好きな名前は名前のままだ。僕はさ、僕を好きでいてくれる名前を好きになったわけじゃないんだから」


 ──最愛に忘れられた。

 それが最も辛いことに違いないのだ。それを“忘れただけ”と言ってのけ、名前の後頭部を指先で弄びながら愛を説いてみせる。

 こう言っていても、その胸のうちは複雑なはずだ。どんなに言い聞かせても、どんなに気を強く持っても、その喪失感はいつになっても響くのだ。齟齬はちいさな日々の出来事にこそ生じる。

 同じ景色を見たとき。同じ香りを嗅いだとき。その過去を共有できないということは、その度に悟の心を痛ませる刃になってしまう。


「僕はね、名前。例えこのまま記憶が戻らなくて、名前が僕と生きない未来を選んだって、名前を想って生きていくよ」
「……っ、……ふ」


 ぼろぼろと。
 溢れる涙は止めどない。

 こんな世界があったのか。名前が一度、失くしてしまった世界。悟に満たされた空気の中で息をする世界。

 この世界で、生きていきたい。


「ほら、そんなに泣かない。当たり前のことしか言ってないんだから」
「ぶ、痛い……」


 ぐいぐい目元を拭われるが、その程度で止まるなら苦労はしないしそもそも泣いていない。

 悟を見上げる。きっと酷い顔だ。案の定、見返してくれた悟は「アハハ酷い顔じゃん」と笑った。

 親指に顎先を持ち上げられる。
 心の準備を整えるより先に、悟の唇が降ってきた。思いの外やわらかなその唇は、まるで名前との間に足りぬ“何か”を互いの吐息で埋めようとするように、息の出口を長く長く塞いだ。

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