あなたって暗闇ね


「悟様は、生きる理由って何かある?」


 晩夏だったように思う。
 茜色の夕焼けの中を蜻蛉が飛んでいた。藍を帯びはじめた雲を見上げたまま、名前は悟の方を見ずに呟いた。

 悟が高専に入学する前の年のことだった。


「何、突然」


 シャクリ。悟が楊枝に刺さった梨を食む。縁側に置かれた盆の上、小さな皿に乗った梨は名前が用意したもの。すっかり均等に切り分けられたそれらに、幼さや不器用さは微塵も感じられない。


「わたし、結構大人になったじゃない? 最近いろいろ考えるんだけど、」
「は? 全然ガキじゃん。ほれみろ胸なんてつるっつる」
「〜〜〜〜〜っ」


 顔を真っ赤にしてぷりぷりと頬を膨らませる名前は、「そんなこと言うなら梨あげないからね」とそっぽを向いた。


「や、もう食べ終わったし」
「はっや!」


 いつからか庭先に咲くようになった秋桜を、蜻蛉が揺らす。
 少しの沈黙を挟み、悟は「で、何だって?」とぶっきらぼうに問うた。


「……生きる理由をね、考えてみたの」


 名前の独白は、それはそれはちいさくぽつりとしたものだったが、悟の耳にははっきりと聞き取れた。


「わたしの中で、悟様が生きる理由になってたの。わたしが何かを頑張るときには、必ず“悟様のために”って気持ちがあった。悟様がいるから頑張れる、悟様がいるから絶えられる、って」


 幼少期の特殊──という言葉には語弊があるかもしれないが──な生育環境。そのまま五条家に引き取られた名前に、五条家、ひいては悟以外の生きる理由を与えてやれなかった。

 悟は、悟以外の生きる理由を。名前に与えてやれなかった。


「……他人を生きる理由にすることを、わたし個人は悪いことだとは思わないし、わたしは幸せ者だと思う」


 五条家に来たのが名前でなければ、もしくはこの言葉を吐いているのが名前以外の使用人であれば、何を世迷い言をと切り捨てていたかもしれない。

 他者に簡単に寄りかかるな。自分で立て。自分の人生を易々と他人に預けるな、と。

 そう言葉にせず名前の声に耳を傾けるあたりが、つまり悟にとっても名前が特別な存在であるということの証明でもあった。

 窮屈な世界の中で、いつだって。名前の待つところが、──悟の帰る場所だった。


「ただ、お仕えするはずの悟様におんぶに抱っこで生きてきた自分が、なんだか格好悪くて」
「……何言ってんの、馬鹿? それはオマエがどうこうできたことじゃねぇだろ、俺が多方面で手がつけらんないくらい最強なだけなんだから。だからさ、オマエは一生俺んとこにいればいいんだよ」


 どの口がこんなことを言うのだろう。来年には高専に入学するというのに。名前の傍にはもういられないというのに。

 しかし、だからといって「自分のために生きろ」だなんて反吐が出そうな綺麗事は言えなかった。何年も悟のためだけに生きさせて、今更、自分のために生きろと突き放すのはひどく酷な話な気がした。

 もっと早くに。こうなってしまう前に。悟は名前を開放してやらなければならなかった。それなのに「一生俺のところにいろ」などとまるで反対のことを言い、しかも来年には家を出るときている。

 勝手も勝手。甚だしい。

 悟は悟で、名前を手放したくないだけなのだ。


「生きる理由、ってさ……なくても生きていけるくせに、厄介だよね」


 茜色を瞳に映す名前は、寂しげにその瞳を揺らした。


「悟様はね。きっと、もう帰ってこないでしょ。高専にあるのか知らないけど、夏休みとか冬休みとか、悟様はもう戻ってこないと思う。帰ってくる理由がひとつもないもん。それでも、」


 ──いつまでも、お帰りをお待ちしております。


 睫毛を伏せそっと呟くその横顔を、悟は成す術なく無言で見つめた。

ContentsTop