あなたって暗闇ね


 蝉時雨が注ぐ夏の某日、五条家の門をくぐる悟の姿があった。
 家を離れてから、実に二年と数カ月が経っていた。

 実家に愛着などは微塵もないが、名前のことだけは忘れることがなかった。気掛かりだった。しかし多忙な生活にかまけて足を運ぶことはなく、気付けばこれだけの月日が流れてしまっていた。

 否、多忙さだけが理由ではない。
 どれだけ時間が経とうとも、名前は健気に悟を待っているだろうと自惚れていた面も、ある。大いにある。

 敷地内へと踏み込みながら、軽く息を吐く。高専に入学してから悟を取り巻く環境は目まぐるしく変わったが、この家を流れる空気は良くも悪くも変わらない。

 突然の悟の帰還に、五条家では軽く騒ぎが起こった。やれ旦那様にお知らせを、やれ坊ちゃんの好物を用意しろ、云々。慌てふためく彼らに「すぐ帰るから放っとけよ」と言い放ってから、悟は耳を澄ます。


「えっ、悟様? 帰ってきたの? 悟様ー! おかえりなさい!」


 そう聞こえてくるはずの声が、真っ先に駆け寄ってくるはずの声が、いつまで待っても聞こえない。痺れを切らした悟は眉根を寄せ、一番近くにいた使用人へ声を掛ける。


「オイ、名前は?」


 急に声を掛けられた彼女はびくりと全身を跳ねさせ、可哀想なくらいおどおどと声を発した。


「そ、その……名前ならおりません」
「何、買い出しでも行ってんの」
「いえ……“もう”ここにはおりません。五条家を離れました」
「……は? どういうことだよ」
「……っも、申し訳ありません、」


 意図せずとも、悟の声には非難の色が濃く混ざっていた。恐らく相当の圧力を放っていたのだろう。身を縮こめた彼女は、顔を青くして頭を下げた。

 更に問い詰めようとしたところで、彼女の後ろから早足で寄る姿を認め、悟はその言葉を飲み込んだ。


「坊ちゃん、お帰りなさいませ。これまた突然でございましたね。まあ……ご立派になられて」
「……千代」


 悟の目の前までやって来た千代は、束の間優しく目を細め悟を見つめた。そこに感じた慈愛に、擽ったさにも似た居心地の悪さを覚える。

 こういった愛には、慣れていない。


「さ、貴女はお行きなさい。坊ちゃんには私からお話ししますから」
「は、はい……っ」


 深々と礼をしてから急ぎ足で去っていく背中を一瞥し、千代へと視線を移す。悟を真っ直ぐに見上げる視線とぶつかった。


「アイツが家離れたって、どういうこと。有り得ねぇだろ」
「……ええ。あれは……坊ちゃんがこの家をお出になってから、一年ほどのことでしたでしょうか」


 千代は静かに語り始める。その瞳に、感情は見て取れなかった。


「古くからの付き合いの──ああ、そう、名前が始めて坊ちゃんと一緒に参加した会合をした家ですね。そこのご子息が、名前をお見初めになって」
「は?! そんな歳じゃねぇだろ」
「いいえ、そんなことございません。昔は皆こんなものでしたし、呪術界にもその風習はまだ根強いですから」


 地面が歪んだ気がした。ぐにゃりとかたちが変わり、平衡感覚が乱されるような心地だった。

 悟が理由だと言っていたではないか。生きる理由だと。いつまでも待っていると。

 胸を占めるこのどす黒い感情をなんと呼ぶのだろう。憤怒。喪失。恥辱。嫉妬。どれもが正しい気もするし、どれもが間違いな気もする。

 掌に鈍い痛みが走る。意識を向けると、自分の爪が深く深く食い込んでいた。


「……で、のこのこ嫁いだってわけ」
「それが……名前はその場ではっきりと御断りしたのです。いえ、お家的には御断りしてしまった、と言うのが正しいでしょうか。私達使用人には身分の差も甚だしく夢のような話ですし、家同士の関係性の観点からもまず御断りするなど……」


 千代の言葉は、五条家使用人としての立場と、名前の母としての立場との間で揺らいでいるようだった。


「……? じゃあなんでここにいねぇんだよ、断ったんだろ」
「ええ。名前の断り様といったら、それはそれはその場にいた者皆が思わず感心する程の潔さでした。堂々とした物言いに先方も暫く呆気に取られておりましたが、時間が経つにつれて羞恥や屈辱に見舞われたのだと思います。五条家より格式が下とはいえ、由緒ある家でお育ちですし、まさか一介の使用人に一瞬で無下にされるなどと予想もしていなかったでしょうから。そして名前も名前で全く悪びれた素振りがなかったものですから、先方もついには頭に血が上ってしまったようで、その……」
「……まさか手出したってのかよ」


 重たく伏せられた千代の瞼が答えだった。その場面を思い出しているのだろう。胸の前で固く組まれた千代の手は、まるでその当時に捧げられたであろう祈りのようだった。


「私は術式などのことは詳しく存じ上げませんが、気が付いた時には、名前は顔面から血を流し伏せっていました。あんなに、たくさんの血を……」


 千代の声が震える。
 千代がどれほど名前を可愛がってきたか、悟は間近で見てきた。最愛の娘の痛ましい姿は、さぞかし千代の胸を抉ったことだろう。


「……千代、」
「……ええ、大丈夫です、大丈夫。取り乱してしまって申し訳ありません。幸い命に別状はありませんでした。……視力は失ってしまいましたが」
「なんだって?」
「傷が目の高さだったのです。でも、でも、命があってよかった……っ」


 絞り出すような千代の声に、感情を表に出すまいとする必死の努力が痛いほど滲む。悟は唇を噛んだ。悟の前でまで、そんな振る舞いをしなくていいのに。


「この件を例えるならホワイトハウスのメイドが他国の王太子からの求婚を蹴り飛ばしその名誉を傷付けたようなもの(私もよく分かりませんが)です。旦那様も立場上、名前をここに置くことができませんでした」
「は?! なんでだよ置いとけよ意味分かんねぇ!! まさか目見えないまま追い出したってのか?!」


 一体いつの時代の話だ。立場とか名誉とか糞も糞でいいとこだ。というか、こんな事件が起こっていながら悟に一報もないとはどういうことだ。そして何故名前を傷付けた奴は、今ものうのうと生きている。命のひとつやふたつやみっつくらい奪ってやりたい。

 悟はついうっかり勢い余って本棟を破壊してしまいそうになった。なんとか寸前で踏み止まったのだが、なんせ勢いが余っていたので、悟が接地していた周囲の床面が数枚抜け落ちた。

 慌ててその場から逃げた千代は、泣き出しそうな顔で笑みを溢した。


「ふふ、坊ちゃん、怒ってくださるのですか? 名前のために」
「……うるせぇよ、たりめえだろ、分かりきったこと聞くな。なんでもっと早く知らせなかった? 俺が聞いてりゃ(硝子が)すぐに治してやれたのに」


 光を失くした世界で、ひとりきり。
 名前はどうやって生きているというのか。


「……名前が、そう申したのです。坊ちゃんが帰ってくるまでは知らせないでほしいと。自分が起こした不祥事だから、その代価はしっかりと受け止めたい、と」
「…………馬鹿じゃねぇの」
「ええ、本当に。本当に……っ、」


 千代の目から零れ落ちる涙には、悟が居なかった年月分の重みがぎっしりと詰まっているようだった。

 名前について行きたかったことだろう。生活さえ儘ならなくなる名前の傍にいてやりたかったことだろう。

 しかし千代は、縛りを結んでいる。
 使用人の中でも機密を知り得る地位にいる者には、縛りが結ばれるのだ。故に千代が五条家を離れることは叶わない。その身に何が起こるかわからないからだ。

 縛りを犯すリスクより、名前の傍にはいられなくても遠くから助けてやれる現状を、千代は選んだのだろう。

 何故、名前が、千代が、こんな想いをしなければならないのか。

 本当に、腐った世の中だ。


「……坊ちゃん。名前が何と申したか、お分かりになりますか?」
「?」


 疑問符を浮かべた悟に微笑みかけ、千代はやさしく言葉を紡いだ。


「“わたしがお仕えするのは、生涯悟様だけです。悟様以外の御方と生を共にすることなど有り得ませぬ”、と。そう申しておりました」


 ──坊ちゃん。どうか、あの子を。お願い致します。


 すべてを語らぬ千代の眼差しにその意図を読み取った悟は、その青の目に強い光を宿し、呟いた。


「……あとは任せろ」

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