流れる星の落つところ
満月が浮かぶ、その日の夜半のことである。
悟は名前の部屋の扉を、ノックもなしに勢いよく開いた。驚いた名前が振り返ったときには、悟はすでに部屋の中に入っていた。
暗い部屋の中。大きな窓の前で、名前はあの日と同じように小さく膝を抱え、まるで世界から隠れるかのように頭から薄布を被っていた。
「ちょ、っと、仮にもレディーの部屋にそんな急に入ってこないでよ」
「うっせ。ほれ来い、桃鉄すんぞ、付き合え」
「え、っわ」
半ば強制的に名前を脇に抱え、悟はあっという間に部屋を出た。脇で喚いている名前などまったくお構いなしである。そのあまりのお構いなさに、名前は途中で抵抗をやめ、大人しく宙ぶらりんになっていた。
悟の部屋に着くと、名前はテレビの前にぼてっと落とされた。その身そのまま誘拐されたため、薄布がまだ身体に巻き付いている。
「もう、急に何?」
「だから、桃鉄。付き合えっつってんの」
「……誘い方に色々問題ありと思いまーす」
仕方ないなあと笑う名前を、悟は気取られぬように見つめた。こんなふうに笑いながら、名前は、いったいどれだけの孤独を乗り越えてきたのだろう。
その幼気な心で、いったいどれだけ。
そう思うと、胸のあたりがつきんと痛んだ。その痛みに、悟は驚く。他人の痛みを直に感じた自分に、驚いたのだ。
そんな悟の胸中など露知らず。
勝手に戸棚と冷蔵庫とを覗いた名前が、喜々として言う。
「悟、この期間限定のお菓子あけてもいい?」
「いーよ」
「悟、悟っ、これも飲んでいい?」
「いーよ、お好きにどうぞ。つーかなんだよ、やる気満々じゃん」
「この間の借りを返さねば」
ゲームのスイッチを押し、名前は缶のタブを引いた。ぷしゅ、と小気味いい音が響く。こくこくと上下する喉元を、悟はゲームをするのに手頃なクッションを集めながら見ていた。喉が渇いていたのか、ぷはーっと一息に飲み終わった名前が、立ち上がる。
「おかわりおかわりっと……悟は何飲む?」
「俺は──」
言いかけた、その刹那だった。
名前の身体が、悟の目の前で傾ぐ。まるで意識を失ったかのように倒れるその身体を、ぎりぎり床につく直前で支える。
「え、っな、おい!」
何故、突然。
何が起こった。
名前が倒れたタイミングから、何者かに一服盛られた可能性までが脳裏をよぎる。慌てて顔を覗き込む。上気した頬。少し上がった息。目はとろんと朧気で力がない。
何だ。何の薬だ。
硝子はいない。他の術師で対処できるモノならいいが、未知の薬剤だったら。そもそも敵は誰だ。心当たりがありすぎる。そして狙われたのは悟か、名前か。いや、十中八九、悟か。あらゆる思考が脳を巡る。
ぺしぺしと頬を叩く。
「おい、名前!」
「なんかくらくらする〜〜〜悟のかお、ぐにゃぐにゃ〜〜、あはっ」
「…………」
頓狂な有様である。その際の呼気がゆっくりと漂う。加えて、呂律の回らぬこの口調。
悟は、露骨に顔を顰めた。
「オマエ酒くさっ! 何飲んだんだよ?!」
「ジュースだよお」
「んなワケあるか!」
名前の飲んだ空き缶へと視線を移す。一見ジュースのように見えるパッケージ。アルコール度数、実に九%。
悟は酒は飲まない。下戸だから。いや、口が滑った。そもそもまだ高校生である。
「誰だ人の冷蔵庫に勝手に酒なんか入れたの! 硝子か? 硝子だな?! しかも無駄に度数高え!」
気怠げに煙草を咥え、「そのうち私が飲もうと思ってたんだよ、細けえ男だなー」と白ける硝子の姿が脳裏に浮かぶ。
さらに顔を顰めたかったが、すでにこの上ないほどに顰められている悟の顔面では、これ以上の渋面を作ることは叶わなかった。
名前はといえば、悟の腕の中でうんうん唸っている。完全にノックアウトだった。
どうしたもんかな。
悟は名前を抱えたまま、しばし放心した。
本当は、完徹するつもりだったのだ。朝までゲームで粘るつもりだった。そうして二人で目の下に隈を作り、傑にでも笑われようと。それか、途中で活動限界がきたならそのまま寝落ちしようと。
そう、思っていた。
硝子ですら手をあぐねているのだ。真正面から提案したところで名前が悟に素直に甘えるとも思えなかったし、どんな言葉で誘えばいいかもわからなかった。
それに万が一、いや、億が一にもだ。
魔が差すようなことがあっては困る。名前に手を出したなんて事態になってしまえば、硝子に殺されるし。
なにより名前は悟たちにとって、闇にまみれたこの世界の、潔白のような存在なのだ。
だから、悟には。
こんな方法しか思いつかなかった。