地球との恋の紡ぎかた


 裏路地を何分か進んだ頃。首元に埋まるポニーテールがぎゅうと近づいた。柔髪にそっと口づけると、更にすり寄る。その頭に頬を乗せ、斜めに空を仰ぐ。

 青い。

 あの夏のように、突き抜ける青さではなく。寒さに忍ぶ生き物すべてを包み込むような、そんな淡さを滲ませた白縹。


「……なんか名前さん、前より甘えん坊になった?」
「ふふっ、徹の腕の中がね、あったかいのがいけないよ」
「またそれー?」


 耳元で、彼女が愉快げに笑った。少しえぐえぐしてるけど、さっきよりも随分と嬉しそうな声だ。


「徹、元気だった?」
「超元気! 名前さんも元気だった? 今日も絵描いてたの?」
「うん! いまね、毎日通いつめて描いてる教会があるの。さっきもそこ行ってたんだ」


 ぱっと顔を上げた彼女。白縹が反射する潤んだ瞳の中に、あの日に見つけた透度が灯る。

 すきだ。

 この瞳が。この瞳が、捉える世界が。

 名前さんがすきだ。

 今でもこんなに、一瞬で再びの恋に落ちてしまう。俺のこころの運命は、こうあるべきなんだと。そう言われてるみたいだ。

 ──すきだよ、名前さん。

 気持ちが零れ落ちてしまいそうで、ぐっと唇を噛んだ。それに気づかれちゃったかな。俺を見上げていた彼女の眉根が、一瞬だけ寄せられる。それは本当に一瞬のことだった。すぐにかき消されて、笑顔に変えられてしまったけど。

 だけどとても、……苦しそうな表情だった。


「ねえ名前さ──」
「徹」


 遮るように名前を呼ばれた。やけに凛とした声だった。耳に残る、あの夏に似た音だ。

 なんだか──嫌な予感がする。


「ありがとね。おろしてくれる? 涙も止まったし、もうだいじょうぶだから」
「……おろしたら、名前さんはどこに行っちゃうの?」


 やっと逢えたのに。また、いなくなっちゃうの?

 真意を探るように覗きこむと、一瞬だけ睫毛が伏せられて、それから全てを堪えたような笑顔が向けられる。


「おろすべき、なんだよ。わたしのことも、徹がずっと抱えてきてくれたものも」
「……なんでさ」
「……ここでおろさないと、今度こそわたしたちは、進めなくなっちゃう」


 もこもこの袖に覆われた小さな手に、顔を包まれる。いや、包むっていうか、両頬が潰されてる。「なにひゅんの」と、ただでさえ押し出されてとがった唇をさらにとがらせると、彼女の瞳が逡巡するように左右に揺れた。


「……わたしね、あんな別れに二回も耐えられるほど、強くないんだよ」


 絞りだされた声に。たった数度しか見せなかった、彼女の涙が脳裏を過る。

 ひと粒の重み。涙の質量。
 測り誤っていたのは、──俺だったのかもしれない。
 

「でもね、わたしも徹も、やめられないものがある」
「……うん」
「わたしたちは、ずっとそばにはいられない。……いられないんだよ」


 そっと手が外されて、途端に頬が冷える。

 あたたかさは、時に凶器だと思う。
 離れてしまえば寒さばかりが身に沁みて、なのに、包まれずにはいられない。寒いから求めるのか、求めるから寒いのか。よくわからない。

 俺たちもきっと、同じなんだ。

 求めてしまえば別ればかりが突きつけられて、けど、求めずにはいられない。求めずにこの生を終えるなんて、できないんだ。

 もう、それでいいじゃないか。


 くるりくるくる、くるりくる。


 だって、どうしたって俺たちは──出逢ってしまう巡りなんだから。


「だからお願い、もうおろし」
「やだ」
「え、即答! あのね、いまの全然断る雰囲気じゃなかったよ?」
「雰囲気なんか知らない、やだったらやだねー!」


 俺の幸せは、名前さんのまわりで動く空気の中にある。こうして出逢ってしまったんだ。離せるはずなんてない。離すもんか。

 ぎゅうと、苦しがるほどに抱きしめる。


「ちょっ、徹」
「嘘はダメだよ、名前さん」


 ぴくん、小さく揺れた肩。
 ほらね、やっぱり。優しいんだから。あの時だってそうだった。でもね、相手を想うが故の優しさが、いつだって正しい優しさだとは限らないんだよ。


「嘘なんてついてないよ?」
「ううん、嘘だよ。それは、俺を傷つけないための嘘」
「………」
「俺ね、もうあの頃とは違うんだよ。ちゃんと大人の男なの。だから、ほんとのこと教えて。ね?」


 いいじゃんか。全部、一緒に持って歩こうよ。一緒にいられない時間ごと、一緒に。

 ほら、と促すと、呆れたような、けれどどこかに柔い強かさを孕んだ声が返ってきた。


「もう、徹はずるいなあ」
「ずるくたってい──」


 ずるくたっていいよ。

 そう続くはずだった俺の言葉。それが途切れたのは、頬に感触がしたから。今度はもこもこの袖じゃなくって。彼女の唇だと気づくまで、三秒くらいかかったかもしれない。

 向けられるまっすぐな眼差し。穏やかなのに、どことなく捉えどころのないような。まるで、あらゆる事象そのものを貫くような。


「好きだよ、徹。だいすきなの。あの日からずっと」
「………っ」
「一緒にいたいよ……、徹、一緒にいたいです」
「ぷ、こんなときに笑わせないでよ、なんで敬語にしたの」
 

 こんな戯言を言い合わなければ。余裕ぶらなければ。壊れてしまいそうだったんだ。それ程までに俺たちはぎりぎりで、つまりそれくらい、──嬉しかったんだ。

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