風鈴


「おーい! そこの! おーいってば!」


 これが名前さんが俺にかけた最初のことば。まったく、酷いと思わない? 俺、女の子に「そこの!」なんて言われたの、生まれて初めてだったよ。


 いや、俺に限ってそんなことはない。そんな声の掛けられ方をするはずがない。近くの別人に声を掛けてるに違いない。

 そう気を取り持ち、あたりを素早く見回してみる。けど、誰もいない。おかしなことに、声の持ち主さえ見当たらない。


「そうそこの! きょろきょろしてる! 残念そうなイケメン!」
「ちょっとー?! 聞き捨てならない!」


 思わず盛大に声を上げてから、俺はやっと声の出どころらしき場所を知る。下だ。下から声がする。

 下、とは俺が今立ってる橋と道の繋ぎ目、の下だ。橋の上から覗き込む。河川敷になっているそこを下って、視線は川の中へと流れて行く。

 ん? ……川の中?


(エッ!この人川の中で何してんの!?)

「あ、今、こいつ何してんだって思ったでしょ」
「そりゃ思うでしょ」


 当然のように真顔で頷いてみせてから、欄干の端、親柱に手を掛ける。

 焦がしつける真夏の太陽。それを反射し、眩しく弾ける水面みなも。その輝きの中に浮かぶポニーテール。高い位置でくくられたそれは艶やかに濡れていて、半分透けたタンクトップとか、そこから伸びる細い腕とか──

 どくん、と。俺の真ん中が脈打った。
 要するに彼女はすごく、非常に──綺麗だったんだ。

 思わず息を呑んだ俺に、彼女が軽く手を振る。


「キミもね、飛び込んだ方がいいよ」
「はい? なんて?」


 細やかそうな肌によく映える、桃色の唇。そこから発せられた突拍子のない台詞に、俺は片耳に手を当て問う。

 まさか、ね。

 こんな綺麗な女の子が橋から飛び込んだなんてね。しかもその上、俺にも勧めてくるなんてね。そんなまさかね。


「いいから、キミも飛び込んだ方がいい」
「聞き間違えじゃなかったし意味わかんない!」


 思えば、名前さんはね。出逢った瞬間から自由だった。何にも囚われない、そんな時間の中で生きていた。
 

「あのね、いくら可愛い子に頼まれたからって、そんな簡単に飛び込むやつなんていないと思わない?」
「そうだね。でもね、キミは飛び込むべき」
「何でそんなふうに言うのさ」


 全くもって理解できない。服だって濡れちゃうし、格好よくセットした髪だってどうなるかわかったもんじゃないし、そもそもなんで俺が──


「キミね、今すっごく変な顔してる」
「へ、変なかお?!」
「そう、変な顔! せっかくのイケメンが台なし。そんな顔の時は、飛び込んじゃうといい。さいこーに気持ちいから!」


 ぱしゃんとあがる水飛沫。
 夏が似合うまぶしい笑顔。

 俺も、その快感を知ってる。小さい頃、この川でよく岩ちゃんと飛び込んで遊んだから。

 あの時代から、もう何年も経った。それでもまだ、遊びゴゴロが残っていたのか。あるいは、自然のなかに溶けてるみたいな彼女に、ある感情を抱いたからなのか。それはまるで、──羨望にも似た。

 そわそわ。うずうず。お腹の奥から、何かが這い上がってくる感触がする。気づけば俺は、橋から身を乗り出していた。


「うんうん、お財布と携帯はポッケから出しなね」
「わかってる、よッ!」


 何を思ったか、本当に何を思ったか俺は、久々にバレーのことも、チームのことも、岩ちゃんのことも忘れて、──欄干の縁にかけた足に力を込めた。

 身体が浮く。

 目の前に広がるのは、どこまでも青く続く空。ひこうき雲が真っすぐ伸びていて、それに沿うように名も知らぬ鳥が飛んでいる。

 近づく水面。浮力で浮いたタンクトップの裾から覗く彼女の肌が、水越しにやけに美しい。

 ほんの一瞬の、この景色を。

 俺は、生涯忘れない。


「ぷはっ!」
「ふふ、いい飛び込みっぷり!」


 真夏の川は、思っているより冷たい。それがひどく気持ちいい。懐かしい。でも、あの頃とは少し違う感覚だ。少しだけ大人になったからなのかもしれない。

 水面から顔を出し、髪をかき上げる。
 その仕草はきっと泣いて喜ぶ女の子がいるくらいには絵になってると思うんだけど、ね。

 近くまで泳いできた彼女は、そんな俺になど目もくれず、いかに俺の飛び込みがよかったかを力説している。

 そして力説が長い。


「…──え、ねえってば」
「へ? あ、ごめん、もしかしてキミって目が悪いのかなって思ったりして……いやでもさっき俺のことイケメンって言ったしな……」
「? 両眼裸眼で1.5だけどね。そんなことよりほら、浮ける?」
「浮くって?」
「力抜いてね、こう──」


 気づけば彼女のペースに巻き込まれっぱなしだ。

 でも、楽しい。

 お互い頭からずぶ濡れで。見てくれも何もあったもんじゃなくて。しかし、これがそのままの“自分”なんだと。余計なものなんて今は要らないのだと言われているみたいで。

 どくん、と。また、真ん中が脈打った。

 誘うように握ってきた手がすごく小さかったとか、その指が折れそうなくらい細かったとか、一直線に俺を見据える眼差しが強い光を湛えてたとか、桃みたいな匂いがしたとか──

 つまるところ俺はね。彼女に五感を、こころを、奪われてた。

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