風鈴


 彼女に倣ってぷかりと浮いた水の上。耳元で水と空気の境界が音を立てる。それに混ざり合うように届くのは、隣に浮かぶ彼女の声だ。
 

「何に悩んでたのかわかんないけどね、あんな顔、するもんじゃないぞイケメン君」
「ねえ、イケメン君って呼ばないで?」
「ん? 嫌だった? ごめんね」
「あ、いや……」


 嫌じゃないはずなのに。俺はいつも、そう呼ばれて喜んでたじゃないか。
 答えに詰まった俺を、さして気にしたふうもなく。彼女はあいている手を伸ばした。


 空に向かって、まっすぐに。

 
 ──ちなみに俺は浮くだけで精いっぱいで、彼女がどうして、何食わぬ顔でそんな行動ができるのかさっぱり分からないんだけど。

 彼女の手を辿っていった視線の先。高く、高く。手を伸ばしても届かない、晴れ渡った青空が広がる。
 

「おおきいでしょ? ちっぽけでしょ?」


 何が、とは言わなかった。でもね、言われなくたって分かるよ。おおきなおおきな世界の中で、俺たちはなんてちっぽけなんだろうね。


「笑っても泣いても、悩んでも、どんなに張り裂けそうでも、──この子たちはね、ちっとも変わらない」
「この子、たち……? ねえ、キミ、変わってるって言われない?」
「どうだろう。言われてるのかもしれないし、言われてないのかもしれない。変わってても変わってなくても、別にどっちでもいいもん」


 彼女の言葉は心地よくて、それでいて斬新だった。こんなに一方的に惹かれることが信じられなくて、だけど無性に離したくなくて。ちいさな手を、強く握りしめる。


「? だいじょぶだよ、別に手離したりしないし、離しても沈んだりしない。沈んだとしても、キミならおつりがくるほどの深さだよ」
「うん、でもね、握ってたいんだ」
「ふうん?」


 不思議そうに、くるんと向いた瞳。夏色が映えるその双眸に、俺はもう、どうしようもなくて。


「徹。俺ね、徹っていうの。イケメン君じゃなくて、名前で呼んで?」
「トオル、……徹?」


 そう、徹、と頷いた俺に、彼女は満足げに微笑む。


「ありがと、字はね、大事だからね」
「キミは?」
「名前。名前だよ」


 ふたつ、繰り返されたその名。たったそれだけで。その、愛おしそうに発した声だけで。自身の名に対する彼女の想いが、伝わってくるようだった。


「名前、ちゃん?」
「うーん、そこはなんでもいいけど、きっとね、徹よりは年上だよ」
「え! そなの?!」
「ふふ、見えない? まあ年齢なんて、外身の身体が生きてきた年数だからね、関係ないよ」


 ああ、そうか。そうなんだ。彼女はどうしようもないくらい、“うち”を見てるんだ。こころと、それを呼ぶべき名を。壊さないようにそっと、包んでるんだ。


「! あいたっ、徹、ちょっと握りすぎ、痛いよ」
「あ、ごめんね、つい……」
「ついってなあに」
「ついは、ついとしか言えないと思うのですけど、どうでしょう名前さん?」
「む、はぐらかすとはなかなか喰えぬ奴め」


 ころり、ころころ。水面を転がる彼女の笑い声が、ひどく胸をざわつかせる。ぴたりと肌に張り付いた入道雲みたいに真っ白なタンクトップ。濡れた髪の桃香。水で冷えたうなじ。

 俺とは違う生き物なんだと主張するぜんぶに、そしてそのこころに。

 俺は一瞬で恋に落ちた。

 俺は水底にやおら足をついて、浮かんだままの彼女を抱きしめる。


「っ……、手が早い子は、いろいろ説明するのが大変だね」
「てことは、名前さんには説明しなくていい?」
「しなくていい、けど……当事者になってみると、みんなの気持ちもわからなくはない、かな」


 浮いてて軽くなってる彼女の身体を、俺よりわずかに高い目線まで抱き上げる。ぺちゃんこになった俺の頭を、彼女は慈しむように撫でていく。


「でも、ほんとなんでしょ?」


 小さく呟いた、その瞳に。不安げな色が浮かんだ刹那の瞬きの間を、俺は見逃さなかった。


「名前さん」
「ん……っ、ん、う」


 堪らずにその唇を奪う。

 文字通り、奪う。
 
 ぷるりと濡れる唇を性急に求めて、そのまま割る。ほんのり冷たい唇と対照的に、熱い口内。それを絡め取り、吸い、軽く食んではまた吸う。

 漏れる甘い吐息は確かに彼女から出ているもので、いつの間にか俺の頬に添えられていた彼女の指先が、す、と首筋を伝って首後ろに回る。

 込められた力が、俺を求めてる。それが嬉しかった。このキスで、全部伝わればいいのに。本気でそう思った。


 どれだけの時間、唇を重ねていたんだろう。彼女の手が俺の背中をとんとん、と軽く二回叩く。目を開けると、寄せられた眉間と色づいた目元が目に入った。


「っはあ、……ごめん、も、苦しい」


 切なげに零れた言葉が胸に刺さる。上気した彼女の頬が、眩し過ぎて目に痛い。肩で息をする名前さんがとても儚く見えて、このまま景色の中に消えてしまいそうで。

 俺はもう一度、強く抱きしめた。

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