例えばきみが天使なら
松川くんもそこそこに、クラスメイトとハイタッチする彼を見ていると、不意に顔がこちらに向いた。ばちんと目が合って、わたしが声をかけるより先に、握った拳が掲げられる。
キリッとした顔で。ぐっと拳を掲げて。だけどちょっとだけ照れくさそうに。バレーの試合中には絶対に見せない姿だ。
やられた、と思う。ずるい。
「……わたしもう今日だめかもしれない、ちょっと、ドキドキし過ぎて、心臓が」
「わたしもダメ、幸せそう過ぎてお腹いっぱい、吐きそう」
「吐きそう?大変、さすってあげるね」
「誰のせい」
だなんて茶番を楽しくしていた時だ。「岩泉くん、カッコよかった」と、ぽつりと控え目な、しかし静かな熱を宿した囁きが聞こえたのは。
──…どくん。
心臓のあたりが嫌な音を立てる。
声の方を振り返りたかったのに、顔を確認してしまうのが怖くて結局動けなかった。
はじめとお付き合いするようになって早一年。暢気に幸せボケしながら過ごしてきたけれど、これは、もしかして、もしかしなくても。
「……ねえ、もしかしてはじめのこと気にしてる女の子って、結構いる?」
「えっ、今更」
「えっ、やっぱり」
うわ、なんてこった。
なんで今まで気付かなかったんだろう。「キャー!及川サーーン!」の賑やさの影に、わたしの想像以上の感情が隠れている事に。
突としてお腹の中にズクズクとしたものが巣くい始める。不安。嫉妬。独占欲。こんなおどろおどろしい気持ち、嫌だ。嫌なのに。
自分の思いに反し、一度芽生えた不安は物凄い勢いで身体中に浸潤していく。
たくさんの女の子がいるなかで。わたしははじめに、何かをあげられているのだろうか。わたし以外の女の子とじゃなくって、わたしと一緒にいたいと思ってもらえるような、──何かを。
「おーい!名前ちゃーん!もしもーし!……こりゃ重症だね。……こうなったら、こうだ!」
「……ふえ?……あれ?徹クン、いつの間にこんなところに」
「とっくに試合終わったのに、名前ちゃんが変な顔したまま固まっちゃったって聞いたから」
気付くと徹クンの端正なお顔に近距離で覗き込まれていた。両のほっぺまで摘まれている。ぱちくりぱちくり。びっくりした。
友人に向かって「わたし、そんなだった?」と首を傾げると、「少なくとも、通りかかった及川に声かけるくらいにはね」と、困ってたのか困ってなかったのかよく分からない答えが戻ってきた。
わたし達のクラスは次にサッカーの審判が当たっていたので、得点板係をしながらお話することになった。ちなみにサッカーは決勝戦で、【松川くんクラス VS 花巻くんクラス】だ。
「わたしね、今まで待ってるだけだったの。隣にいられるだけでよかったから」
さっきの囁きが、いつまでも消えない。
あんな気持ちを秘めた女の子が、今もどこかではじめのことを想っているの?
「でも、それじゃダメだったんだ。じゃないと、他の女の子に」
揺らいでしまう日が来るのかもしれない。わたしばっかりが、幸せな気持ちをもらったまま。
「ね、やっぱりはじめもしたいのかな?その、……えっちなこと」
「「っぶ?!」」
「あら大変、二人とも色々吹き出たよ?」
ゲホゲホ咳込んでしまった友人の背を、今度こそ本当に擦る。
「わたし今日からどうしたらいいかな? 色仕掛け?」
「お願いだから名前はそのままでいて」
「だってこの間、徹クン言ってくれたでしょ? 男の子っていうものを知った方がいいって。じゃないとはじめがしんどいって」
「あー、あの時俺が意図してたのは、違うよ。そういうしんどさじゃない。もー、なんでそっちの方向に行っちゃったかなー」
額すら押さえて天を仰ぐ姿がなんだか可笑しくて笑ってしまう。「いや笑ってる場合じゃないから!」と間髪入れず突っ込まれた。
「……けど悔しいな。俺がこんなに近くにいても、ほっぺに触ったって、顔色ひとつ変えないのにさ」
「ん? ごめん、歓声がおっきくて」
「ううん、何でもないよ」
徹クンは緩く首を振ってから、たった今ゴールを決めた花巻くんに声援を送っている。聞こえていたらしい友人が切なそうに眉を寄せて、「……及川もそんな顔、するんだね」と呟いた。
その表情は、わたしからは見えない。
ただ、伏せた睫毛の影だけが色濃い。
「それはそうと! ねえ及川、今度松川のこと紹介して?」
「まっつん? ああそれでか、さっきから目で追っかけてるもんね」
「うわ、よく見てる。それでね、」
楽しげに相談を始めた二人。
得点板の、少し錆びた匂いがする。舞い上がる砂けむり。翻るビブス。きっともう二度とはない風景が、眼前に広がっている。