例えばきみが天使なら
それは、あまりにも唐突だった。
「俺、苗字の事、ずっと好きだった」
──得点板を第二体育倉庫に運び込んだ直後のことだ。
倉庫の入り口から「苗字、片す場所分かった? 平気か?」と声がして、振り返る。逆光で顔ははっきりしないけれど、馴染みのある声、シルエット。出席番号がひとつ後ろの級友だ。彼とは三年間、同じクラスだった。よく似た名字で、ずっと隣り合わせの出席番号だったものだから、仲は良い。と思っている。
「よかった、普段入んないからよく分かんなくて、適当に片付けちゃうとこだった。ここであってる?」
「第二倉庫なんて滅多に使わないもんな。こっちなんだ、かして」
「ありがと」
ガラガラガラ、カシャン。
得点板の走る音が止んで、さあみんなのところへ戻りましょう、というまさにその瞬間。
目の前で、倉庫の重い扉が突如として閉まっていく。差し込んでいた太陽の光が細くなって、終いにはぷつんと消えてしまう。申し訳程度に設けられた小窓から、頼りない明かりだけが漏れ込む。
「……? どしたの?」
振り返った彼の瞳が、薄暗い倉庫の中で怪しげに光った。見たことのない眼光に真っ直ぐ射止められて、思わず後ずさる。
しばしの沈黙ののち、彼は意を決したように口を開いた。
「……俺、苗字の事、ずっと好きだった」
「………え?」
「急にごめんな。けどこんなチャンス、もうないだろうから」
ずり、彼がゆっくり歩み寄ってくる。
声はいつも通りの、明るくて芯の通ったものなのに。なんでこんなに、怖いんだろう。
誰? このひとは一体、……だれ?
「お前はさ、きっと俺の事、仲の良い男友達くらいにしか思ってないだろ。岩泉といる時のお前の顔、やっぱり俺のとは違うもんな」
「あ、のね」
「俺に向けてくれる笑顔見るたびに、勘違いしそうになるの何回も堪えたよ。何回も諦めようとした。……諦めようとしたのに、」
固く握られた拳が物語る。彼の葛藤。徹クンの言葉がフラッシュバックする。拳がぱっと開かれる。じりじりと詰まっていた距離。刹那、手首を強く掴まれて引き寄せられた。
耳朶に、生熱い吐息がかかる。
「──…キスもまだだって言うじゃん」
顰められた低音が、外耳に直接滑り込む。
「俺ならお前を、そんなふうに放っておかない」
違う。違うの。放っておかれてるとかじゃない。彼だって分かってるはずなのに。
少なくともわたしが知っている目の前の人物は、こんな湾曲した考えを押しつけるような子じゃない。
なんで、突然。
「離し、……っ!」
腕を振り解こうとじたばたしている最中、近くに置かれていたマットに躓く。恐らく高跳びなんかに使われるものだ。弾力の中に身体が沈み込む。
直後、腰のあたりにずしりと重みがかかった。ねじり上げられる手首。背けようとした顔は、顎を片手で掴まれて正面を向かされた。
痛い。
手首が、腹部が、顎が。
胸の奥が。
どんなに力を振り絞ってみても、わたしを組み敷いた彼の身体をぴくりとも動かすことは出来なかった。
これが、男のひとなのか。
突きつけられる現実に、自分の甘さに、愕然とする。
これが、──男のひと。
「俺が、キスとか、もっときもちいこと教えてやるから。な?」
「──…っ」
その声音が、眼力が物語る。
冗談なんかではないのだと。
ついさっきも、考えてた。
ホームランを放ったあの太い腕とか、がっちりとした胸板とかで、一体どんなふうに抱きしめてくれるんだろうって。キスは、どんなふうにするの。その時には、触れそうな距離で見つめてくれるの?
妄想を繰り広げてはひとりニヤけて、友人にからかわれて笑っていたのに。
なのに、こんな。
知らない。
知らない。
こんなに荒々しくて凶暴な男のひとの力、知らない。
「やだ……っ、なんでこんなこと」
ぐっと掴まれた頭に、あの日、はじめが触ってくれた感触が重なる。教室で。お昼ご飯の時間に。
あんなにあたたかかったのに。
「なんでって……苗字はほんと、平和だよな。そこがまた好きだけど、さすがに俺ももうしんどいんだわ」