例えばきみが天使なら


 唇と唇が触れそうになって、咄嗟に顔を背けた。彼は構いもせずにそのまま首筋へと口付ける。軽いリップ音が、鼓膜にへばりつく。

 Tシャツが捲くり上げられて、下着が露になる。少し汗ばんだ肌が、倉庫内のくすんだ空気に曝される。

 羞恥、嫌悪、困惑、懺悔。

 あらゆる感情が綯交ぜになって襲いかかる。


「やだっ、やめ──」


 抵抗にならない抵抗の声を上げた、その時だった。



「名前ー?いるー?」



 外から聞こえてきた声に、わたしも、そして彼も。ぴたりと動きを止めた。呼吸すら止まったような気がする。

 馴染んだ声に、視界が滲んだ。
 きっと、戻ってくるのが遅いわたしを探しに来てくれたんだ。

 ──よかった、もう大丈夫だ。

 そう思ったのも束の間だった。

 カチャン、と扉の動く音はしたのに。開かないのだ。「あ、閉まってる」と、友人が確認するように二度ほど扉を揺らした。重たい金属音が虚しい。

 助けて、と声を上げようとしたけれど、口元を強く覆われる方が速かった。


「むぐ……!」
「静かにしててくれよな。じゃないと優しくできねえから」
「っ、んん!」


 胸をぎゅうと鷲掴みにされ、鈍い痛みが走る。何度か強く揉まれたあと、下着越しに突起を爪先で引っ掛かれて、やはり、知らない感覚がお腹の中をぞわぞわ駆ける。

 気持ち悪い。

 どうしよう。何とかしないと。

 すぐそこまで友人が来てくれているのに。声さえ出せれば。鍵さえ掛かっていなければ。


(……あれ?……鍵?)


 こんな倉庫に、内側から鍵なんて掛けられるのだろうか。疑問が過る。それが顔に出たのか、視線に出たのか。彼が答える。


「ああ、鍵じゃなくてアレ、な」

 
 彼の顎が示した方を見ると、グラウンドレーキがつっかえ棒のように置かれているのが、視界の隅に入った。全く気付かなかった。きっと彼にとっても咄嗟の事だったのだろう。ガッチリ嵌まっている訳ではなさそうに見える。

 絶望、って、こういう時に使うのかな。

 この言葉を実感を伴って感じた事は、これまでなかったように思う。あったとしたら、それは紛い物だ。

 外からは明るい声が聞こえてくる。友人と、そして徹クンと。


「おーい、そっちにいたー?」
「ううん。鍵もかかってるし、もう片付け終わってるみたい。どこ行っちゃったんだろ」
「名前ちゃんのことだから、帰り道に迷子にでもなってんじゃない?」
「んははあり得る!」


 どんだけアホだと思われてるんだろう。三年生にもなって学校内で迷子になるほどアホじゃないです。

 ここ。ここにいるの。

 すぐ傍にいるのに。


「悪ィ、遅くなった」
「あっ! 岩ちゃんやっと来た!」
「もー! 岩泉がいつまでも優勝の余韻に浸ってるから、名前とすれ違っちゃったじゃん」
「しゃあねェだろ、やれ胴上げだ打ち上げだなんだって盛り上っちまったんだから」


(……はじめ、だ)

 声を聞いただけで、涙が止まらない。ぽろぽろ、ぽろぽろ。眦から落ちていく。愛しさと、そして、悔悛が込み上げる。


「で? アイツどこ行った?」
「それをこれから探すんです。鍵でも返しに行ったかなー」
「鍵?」
「鍵掛かってんだってさ、名前ちゃんがお片付けした倉庫」


 このままだと彼らは行ってしまう。どうしよう。どうしよう。焦りばかりが先立ってしまって、考える事が出来ない。

 行かないで。お願い。

(はじめ……!)


 彼の指がブラジャーの肩紐を辿って、膨らみを覆っている縁にかかった、──その時だった。


「? 岩ちゃん?何して……」


 バゴオオオオォン!!

 凄まじい音に徹クンの声が途切れる。視野の隅っこを、グラウンドレーキが飛んでいく。


「……マジか、どんな馬鹿力だよ」


 彼は観念したような溜め息を吐いて、わたしの口を押さえていた手を離す。ぽつり、「苗字、悪かった」と呟いて、捲れていたTシャツを下ろした。 


 倉庫の中に、明るい光が注ぐ。

 光を背に立つその姿は、紛れもなく。


「……っ、はじ、め」


 次の瞬間には、はじめの腕の中にいた。
 頬に硬い胸板が当たってる。がっちりしてて、なのにどこか柔らかくて、あったかい。

 これが、はじめ。

 初めて知る彼の体温。彼のぬくもり。息が詰まるほど強く抱きすくめられているのに、とても心地よい。

 先程とはまったく違う。
 
 これが、はじめなんだ。

 この腕の中にいれば、腕の外側の世界で例え何が起こっていても、大丈夫。そう信じられる感覚だ。


「名前」
「……っ、」
「大丈夫。もう、大丈夫だ」


 安心したせいか、抑えていたものが一気に溢れ出してくる。ガタガタと身体が震える。カチカチ、歯列が音を立てて上手く喋れない。


 ……怖かった。
 でも、わたしが悪かったの。

 ごめんね。ごめんなさい。

 来てくれてありがとう。どうしてここにいるって分かったの?


 伝えたいことが、聞きたいことがたくさんあるのに。焦るほど、どれも言葉になってくれない。

 この状況を、何からどう話せばいいのだろう。どんな顔ではじめを見たらいい? はじめには、今のわたしがどんなふうに映ってるの。友人や徹クンは? 倉庫の中にまだいるはずの彼とは、このあと、そしてこれから先、どうしたらいいの。

 自分の行いが招いた現状なのに、混乱して、狼狽して、途方にくれて、結局何もできずに。

 縋ってしまう。
 わたしをくるんでくれている、この体温に。


 そんな折だった。

 ──ぴくっ。
 はじめの腕が微かに強張るのを感じて、恐る恐る顔を上げる。鋭い視線の先。そこには、深々と頭を下げて立っている彼の姿があった。

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