さよならの指先
*
酷く居心地のいい場所ではあったけれど、でも、自由が欲しかった。早く大人になりたいと思っていた。
そう思っていた、はずなのに。
これまでの日々は、やはりどこかが「特別」だったのだと。今になってようやく分かる。
過ぎてしまった日々を、とやかく言いたいのではない。ただ、その大切さを忘れたくないのだと、名前はそう言っていた。
校舎に入ってから、ひとつ、またひとつと。思い出を辿るたびに、彼女はそっと触れていく。
靴箱に、手すりに、ドアに、黒板に、机に。水飲み場の蛇口。部室の椅子。体育館の照明スイッチ。片付けられたポール。
ちょこん、と。指先だけで。
きっと彼女なりの別れの告げ方なのだろう。
「貴大、つきあってくれてありがと、もういいよ」
「いいんか?」
「うん」
ぱっと踵を返して、しかしその敏捷さとは反対に、ゆっくりと廊下を戻る彼女。そのスピードに合わせてしばらく後ろを歩いてから、隣に並ぶ。
彼女は一度も振り返らなかった。
相変わらず強がりだね、心中で呟いて隣を見遣る。
楽しかったね、とか。
でも寂しいね、とか。
そんなことは絶対に口にしない。
ただ、「ばいばい」と。
俯きがちな唇が動くのが、月明かりに照らされる髪の隙間から見えただけだった。
帰り道に月が浮かんでいる。真っ二つの、斜めに構えた上弦の月だ。俺たちの青くさい懐かしみ遊山を、馬鹿にもせずに照らしてくれた。
ほい、と手を差しだす。やっぱり夜は寒い。名前の手はすぐ、冷えちまうから。重なった指先を握ると、彼女の方から指を絡めてきた。
思い出すのはいつぞやの。
『名前それ買い出し?』
『そ、テーピングとかドリンクとかなくなる』
『かして、持っちゃる』
『……ありがと、じゃあわたしは空いてる方の手握ったげるね!』
『ははっ、なんだよそれ』
デートらしいものはしたことがない。部活漬けだった俺たちの思い出は、ほんとうに平凡な毎日の中の、そのひと部分だ。
『貴大大変今日月曜日!』
『すげー、お前今の全部漢字』
『え、ほんとだすごい、よく気づいたね、じゃなくって今日部活休みだよ!』
『よし、ちょい自主練したら俺んちで本誌だな』
『わあい! おやつ買ってくー!』
『食べんの好きね』
『成長期なの!』
目尻んとこが下がる、名前の笑顔が好きだ。見ているだけで俺もつい、口元が緩む。
「このあと寄ってくべ?」
「うん、寄っていきたいな」
「……今日は親、どっちも帰ってくんの遅いから、甘やかしたろーか?」
言いながら、彼女の手の甲をくすぐる。絡まったままの指先が、ぴくりと反応した。
とたとたとた。
俺の先を駆けあがる。途中、思い出したように「おじゃましまーす!」と声が聞こえて、俺は、太腿で揺れるスカートを見ながら「ういー」と返した。
鞄を置いて上着を脱いだ彼女は、ぼわふん! とベッドにダイブした。反動で二度ほど身体が上下に揺れる。
ここが、名前の定位置だ。
漫画を読むのもここ。アプリでわやわや遊ぶのも、ただ寝転がって話すのも。俺に甘えるのも、俺が甘えるのも、ここ。
「ほい、どーぞ」
ベッドの上、彼女の隣に胡座をかく。よじよじ、俺の太腿に乗る頭。膝にかかって緩やかなカーブを作る柔髪に指を通すと、彼女の頬がすり寄った。
これが俺たちの甘やかし方だった。
膝枕は、するのもされるのも好きだ。いつまででも乗っていられる気がするし、乗せていられる気がする。
(あ、でも、そういや……)
一度だけ、もうマジで勘弁、と思ったことがあった。
名前が腿に乗ったまま寝てしまった時だ。可愛かったからそのまましばらく眺めてたら、小指の先まで痺れて痺れて、そして痺れた。ひとり悶絶していた時に、彼女が「んん……」と掠れ気味に喉を鳴らして、寝返ったものだから。
『名前タンマ!』
『……ふえ?』
『動くな、っ、ギブギブギブ!』
と、涙目な俺の絶叫が響いたことは言うまでもない。その時は、もう膝枕はするまい、と思ったものだ。