紅葉畑の紅梟
*
「あれー、今日も来た」
「ヘイヘイ、名前ちゃん!」
「授業中だいじょうぶなの、眠くない?」
「寝るから平気! 問題ナシ!」
「あははっ、だめじゃん」
あれから光太郎は、毎朝この場所に来るようになった。寝坊しても、「名前ちゃんおはよー! 行ってくる!」とだけ、叫んで走り抜けていく。
もう、迷子になることもない。
朝練に向かうまでの、僅かな時間。
積み重なる時間。積み重なる会話。
随分と、たくさんのことを話した。
『名前ちゃん寒くねーの?』
『そーだね、最近は朝、冷えてきたね』
『だと思った! これあげんね』
ぐるぐると巻かれたマフラーは、その日からわたしの首元をそっとあたためてくれている。
これが光太郎の匂いなのだと、覚えるまでに時間はかからなかった。
『お腹減るでしょ、これ食べてく?』
『肉巻きおにぎり! まだあったけえの!』
『ふふ、こーたろはおいしそうに食べるね』
『だってうめえもん、名前ちゃんも一口食う?』
また? と笑って。それから一口もらうのは、もうお決まりだ。
『名前ちゃん助けて! 小テスト!』
『んえ?! なんで当日に言うのー?!』
わたわたと広げられるノートを覗きこむ。触れる肩。近づく頬。マフラーと同じ、おひさまの香り。
胸が、苦しくなる。
『? どした?』
『あっ、……と、えっと、ごめんこれわたしもわかんない』
『……名前ちゃんそれやべーよ、一緒に勉強すっか?』
『うー……』
光太郎の隣は、ひどく心地がよかった。
光太郎の隣は、息をすることができた。
「なー、名前ちゃんはなんでこの場所なの」
「んー、出版社が東京だから?」
「違くって、ここ!」
ああ、と口の中で吐息を漏らす。
光太郎の質問は、だんだんと深いところに沈んでくるようになった。
でも、光太郎が耳を傾けてくれると、話してもいいかな、と思うのだ。いや、違う、かな。話したいなと、そう思うのかもしれない。
「東京じゃない、みたいでしょ?」
都会の喧騒が遠くなる。酸素の足りない街中。この都心にも、息つける場所があるのだと教えてくれた。
生きるための仕事。
それが出版社。
生きたいための仕事。
それが、ここ。
世界の呼吸に合わせて、その息遣いを壊すことなく残したいと。誰かに届けたいと。
素朴な世界の中に、よぎる一抹の懐かしさを。誰しもがもっている、名のつけがたい郷愁を。
探して必死に、駆け回った。
求めて遠く、耳を澄ました。
その末に見つけた場所が、ここ。
その時から、毎年この時期は紅葉を追いかけている。細やかな仕事の合間の、朝から晩まで。
息をするために。
バレーという世界で生きる彼には、これからも生きていくのであろう彼には、関係のない話だ。何言ってんの、と笑われてしまうかもしれない。
「でもね、撮れなくなっちゃったの」
ある日を境に、画が息をしなくなった。
ぷつりと、その糸が断たれてしまった。
『苗字……これ、どうしたんだよ』
『っ、自分でもわかん、ないの』
わからなかった。ぽんと頭に乗った同期の手の反動で、堪えていた涙が、一粒落ちただけだった。