はんぶんこした世界のなかで

*

「ふいー! もうダメだあ、溶けちゃう、焦げちゃう! ねえ名前、買い物の前にここらでいっかい、涼みませんか?」
「溶けたり焦げたり大忙し! でもねとっても大賛成」


 夏空に吸い込まれていく笑い声。

 せっかくの夏休みだというのに、何が楽しいのかわからないけれど、しかしやはり受けずにはいられずに受けてしまった夏期講習。その帰り道。

 お願い、浴衣選ぶのつきあって!

 という友人とともに買い物へ繰り出そうとしていたわたしたちは、真夏の太陽に行く手を阻まれていた。

 女子高校生の駆けこみ陽射し宿り。
 冷房が嬉し過ぎる某全国チェーン店。

 ドーナツがライオン化した可愛らしいぬいぐるみを横目に、わたしは冷たいオレンジジュースを一気に飲み干した。

 
「ふはー、生き返る……」
「んもー! ほんと夏! まじで夏!」
「ね、夏だね」


 隣に腰かけ、行き場のない怒りを季節に向けた友人は、きんきんに冷えたコーラを一気に飲──もうとして盛大に咳こんだ。


「っげほ、う、げほげほ」
「あのね、炭酸の一気飲みは無理だよ?」
「けほ、……ありがと、ていうか冷静!」


 背中を擦って覗きこむと、若干涙目で、しかし楽しげに口元を綻ばせる友人と目が合う。

 それもそうだ。
 だって彼女はこれから、やっとの思いで実った恋のお相手、先月できた彼氏との初デートに着ていく浴衣を選びに行くのだから。


「うんうん、楽しみだね?」
「うへ、へへ、なんかそんなふうに言われると恥ずかしい」
「任せて! とびっきり似合う浴衣、探してみせるから!」


 片手を強く握りしめたわたしを見て、友人はまた一段と頬を染める。その様を微笑ましく見つめて、ドーナツをはむ、と食んだ。





「ううーん……迷う、なあ」


 夏祭り控えた浴衣売り場。
 これからの、それぞれの。夏の思い出に想いを馳せる女の子たちの中。

 わたしは右手に紺碧、左手に浅緋の浴衣を持って、唸っていた。

 対を成す色違いの浴衣。

 まるで今日のような夏空を思わせる紺碧。ラピスラズリ。息を呑む深い美しさ。

 花火の前の、きっと濃いであろう夏の茜。それに決して負けないくらい鮮やかで、しかしどこか優しい雰囲気を纏った浅緋。

 どちらの色の中でも優美に泳いでいるのは、控え目で小さな、可愛らしい金魚たちだ。


「ぜえ、ぜえ……名前、こんな真剣に悩んでくれてありがとう」


 散々試着して(試着させられて、ともいう)息も切れ切れな友人が試着室から顔を出す。


「どっちもすっごく似合うよ、どっちがすき?」


 右手と左手を何度か交互に見た彼女。その口から返って来たのは、質問の答えではなく、質問そのものだった。


「ねえ、名前は行かないの?」
「うん? そうだね、ひとりで行ってもアレだしね」
「……好きなひと、は?」

 
 いないよ、とすかさず答えようとしたわたしの口に、彼女は人差し指をぴたりとあてる。


「だーめ! 騙されません! 小学校からの付き合いだよ?」
「う、……相変わらず、鋭いことで」
「ね、どんなひと? 聞いてもいい?」


 決して無理に踏み込んでこようとはしない、この友人が好きだ。小さい時からいつも一緒にいてくれる、わたしの大切な。


「内緒にすることなんてないんだ。ただ、教えてあげれないの。教えられることがないの」
「ん?」


 困ったように笑ってみる。ほんとに、教えてあげられないの。だってね──


「わたし、名前も、声も、顔も、年齢も、ひょっとしたら性別もわからないひとに……恋してるんだ」

 束の間、沈黙が流れた。

「それはまた、……難儀な恋、だね」
「でしょ?」
「名前、買いなよ」


 真っ直ぐにわたしを見据え、唐突に彼女は告げた。その真意がわからず、首を傾げてみせる。


「その右手の、……あ、名前からすると左手? の赤のやつ。それ、買いなよ」
「へ、なんで?」
「それ、名前にすごくよく似合う。それに──……」


 ぱち、くり。

 続いた彼女の言葉に、わたしは何度も、ゆっくり瞬いた。


「なにその失礼な顔!」
「う、あ、や、その、珍しいなと思って」
「なにが!」
「何がって、そんなこと言うのが……ふふっ、恋する乙女はこの上なく可愛いなあってはなし」
「んもう! 名前の馬鹿!」


 ぺちりと肩を叩いてくる彼女。
 ころころと転がるのはわたしたちの笑い声だ。

 なんか、くすぐったい。

 夏休み、講習のあとに気の置けない友達と。恋の話なんかをしながら、こんなに可愛い浴衣と笑顔に囲まれて。
 

「ね、買いたくなってきた?」
「……なってきちゃった」
「あははっ、名前のそういうとこ、ほんと好き!」


 帯も、草履も、巾着も、簪も。
 とめどなく沸き起こる笑みを零し続けながら、お互いで選びあう。


「名前、きっとね、そのひとと上手くいくよ」
「なん、で?」


 自信ありげにごちた彼女を見つめる。
 適当に言ってるんじゃない。それはくらいはわかる。でも、なんで──?

 こんなにあてどない恋、なのに。



「わたしにもわかんない。でもね、そう思うんだ」
「ふふ、ありがとう。そうだといいな」
「きっとそうだよ。さて、これ買ったらもう一杯どうですか?」

 くいと飲む仕草をする彼女に、また笑いがこみ上げる。

「もう、おじさんなんだから! でも魅力的! ノンアルコールで、ぜひお供させていただきマス」


 揺れる、彩り鮮やかな買い物かご。
 その中で金魚が静かに、揺蕩っている。

ContentsTop