月のおもて


 いまだ掴まれたままの手。それが、大きさを比べるように木兎の掌と合わさっている。


「ちっちぇ」
「木兎と比べたら、みんなちっちゃいから」
「へー! 俺の名前、知ってんの」
「有名人ですからね。木兎光太郎クン?」


 若干の嫌味を込めて言ったつもりだったのだが。木兎は嬉しそうに、「そーかそーか! うん、そーだろうな!」とふんぞり返り、わははと笑った。

 なんとなく、拍子抜けだ。名前は自分から毒気が抜かれていくのを感じた。嫌な感情が退いていく。


「全国で六本だか七本だか八本だかの指に入る、すごいひと、なんでしょ」
「五本な! 五本!」
「ああ、三本にはぎりぎり入れないんだったね」
「くっそ誰だ! そんなこと言ったや……、つ」


 木兎の知らない音をたてて、揺れた空気。
 眼前の笑顔に、木兎は目をまん丸くした。


「なに、急にだんまりして」
「……っ、なんでもねえ!」
「ふうん、変なひと」


 そう告げて視線をピアノに戻した名前の視界の外で、木兎はきょとんとしていた。


(?、??、????)


 ひとことで言うと、混乱していた。
 木兎はこの数分で、自分の知らない、言葉にできない感情を、世界を知り過ぎた。それがもどかしかった。


「なあ、お前、名前なんつーの」
「……苗字」
「フルネームで!」
「え、やだよなんで、個人情報」
「は?! 個人情報?! 名前は個人情報じゃねーだろ! いいから!」


 意味不明な木兎の剣幕に圧され、名前は自身の名を告げた。


「へえ、名前、か……いつもここで弾いてんの?」
「弾いてる。いつも」


 毎日弾いている。
 木兎が毎日、球に触れるように。毎日、ピアノに触れている。
 

「わかった。じゃ、またな!」


 唐突に身を翻した木兎。残された名前。
 知らぬ間にテンポを上げていた心拍のリズムを取り戻そうと、名前はそっと息を吐いた。

  
 ──これが、「あの日」のできごと。

 ぱちり。消えるあかり。

 窓から漏れていた光が、一転。
 空から月明かり惹きこむ部屋の暗がり。視界の隅で銀色が動いて、名前は無意識にその行きつく先に目を遣った。

 窓辺に立ち、大きく腕を広げるその背中。
 月明かりに輝く、銀色のミミズクヘッド。

 月光を浴び、浮かび上がるそのシルエットに、名前の睫毛が一度揺れる。

 なんて、眩しいんだろう。


「名前! すげえ、今日満月だぞ!」
「まだでしょ、ちょっと欠けてる」
「ほとんど満月じゃねーか、細けえの」


 木兎が大雑把すぎ、とちいさく呟いた名前は、常々抱えていた疑問を口にする。


「……ねえ、木兎は月が出てる日を狙って、赤葦くんとひと悶着起こしてここに来るの?」
「は? んなわけないじゃん、なんで?」
「木兎来るとき、いつも月出てるから」


 綺麗な、綺麗な月が。
 まるで木兎が電気を消したがることを、月が知っているようだ。
 
 たまたまだ! たまたま! と笑いながら、木兎は再度名前の隣りに座った。


「よっしゃ、準備オッケー! 名前は?いける? アーユーオーケー?」
「木兎にはちょっと難しいかもしんないけど、その英語、使い方間違ってる」
「む?!」
「木兎らしくて安心するけど。ほら、弾くから静かにして」
「おうよ!」


 細い指が、ぽろん、と奏でる。
 流れるのは、酷く美しい旋律。
 
 木兎は目を閉じ、満足げに笑んだ。
 難しいことはわからない。英語も、音楽のことも、「あの日」の感情も、「今日」の想いもわからない。

 ただ、名前がここにいて、名前の音を聴いていられる。それが全てだった。


 最後の一音が、宵闇に溶ける。

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