追憶

*

 病院の、中庭だった。

 名前の隣、ベンチに腰掛け、会う度にひとつ。万華鏡を覗かせてもらう。京治はひとつ。名前に強請られ、自分の話をする。

 この数十分を、何時しか京治は心待ちにするようになっていた。名前の挙動ひとつひとつに、京治の心は穏やかな漣を立てる。

 これまでの日常から隔たれた、何の保証も名前もない不安定なこの関係が、京治には酷く心地良かった。

 名前は万華鏡の他に、必ずお土産を持って来た。それは飴玉ひと粒だったり、チョコレートひと粒だったり──チョコレートは一瞬で溶けてしまって以来、現れることはなかったが──、小さな紙パックジュースだったり。

 そう、まるで。
 子どもに与えるご褒美のような。

 その日も名前は、クッキーを手にやって来た。雲ひとつない良く晴れた昼下がりで、青空が夏らし過ぎて苦しかった。

 そんな、綺麗な日だった。

 ふと思い立った京治は、名前に言う。


「いつも俺の話ばかりだから、たまには名前さんの話もして下さい」
「えー? だってなに話せばいいの?」
「何って……そう聞かれると俺も困りますけど。好きな物……は知ってるか。じゃあ、ベタに初恋の話とか」


 咄嗟に恋愛の話題を振ってしまったのは、名前に対する京治の気持ちが、今やその類のものだからかもしれない。

 この提起に名前は思案顔を見せ、「あれは違うし」「これも違う」などとブツブツ呟いてから答えた。


「うーん、わたしね、恋ってしたことないんだ。たぶん」
「多分」
「よくわかんなくって。学校もあんまり行けなかったし。男の子って、入院中のお友達か、先生か看護師さんか、あとはお父さんくらいしか知らない。みんなのことは、すきだけど」


 名前は殆ど自身の境遇を話さなかったし、京治も聞かなかった。その距離感こそが、今日までの居心地の良さを作っていたのかもしれない。

 だから、このまま。
 このままでいれば良かったんだ。


「憧れてた時期もあるんだけどね。小説とか漫画とか読みまくってたせいか、お腹もいっぱいになっちゃった。耳年増なの」
「その若さで何言ってんですか」
「ふふ。……どんな気持ちなんだろう。物語の方々はみんな、しあわせだったり苦しかったり、大変そうだったけど。ほんとうなのかな」
「……さあ」
「京治は知ってる? 誰かを想って生きる日々の、愛おしさ」


 なんだ。
 もう、知ってるんじゃないですか?

 知らなきゃ、その日々を愛おしいとは表現出来ないんじゃないですか。

 だって俺は、その愛おしさをまだ知らない。

 苦しいんです。
 貴女を想う日々は、──苦しい。

 幸せなのに、苦しいんです。

 俺のこんな気持ち、名前さんは知らないでしょう。


「名前さん」
「はあい」


 伝えたら困らせてしまうだろうか。
 伝えたら終わってしまうだろうか。

 伝えたら、もう。

 笑顔を見れなくなってしまうだろうか。


「俺と、しませんか。いつか貴女が憧れた、恋」
「…………へ、」
「俺に下さい。幸せで、苦しくて、……愛おしい日々」


 名前が目を丸くし、瞬きを止める。
 次に瞬きがされるまでの時間が、京治には果てしなく長く感じられた。


「……わあ。わたし、自分の心臓がこんなふうにドキドキするの初めて」


 名前は頬を赤らめ、確かめるように目を閉じ胸に手を当てる。「うれしいな」と極々小さな声が聞こえた。


「ありがとう、京治。うれしくって涙出そう。……でもね。そのお願いは、叶えてあげられない。だめなの」
「何が……」


 京治の横で、そよ風のように言葉が吹く。


「わたしはそのうち、壊れちゃうから」



 京治は暫く言葉を発する事が出来なかった。空を見上げる名前の横顔を、ただ、見詰める。

 俺は、貴女の。
 
 笑顔に、笑い声に、眩しさに、遠い横顔に、恋をしました。力及ばずとも、貴女の瞳が翳る時に傍に居られる存在になりたかった。


「……ごめんね」


 ──なんて、残酷なんだろう。


 固まる京治の隣で、名前は風にふわりと髪を靡かせている。

 思わず名前の手を握りそうになって、ぐっと堪えた。堪えてしまってから、堪えずに握れたならどんなに良かっただろう、と後悔する。

 名前に出逢った時に感じた違和感の正体は、これだったのだ。

 京治とて、生まれた意味や生きる意義、将来への漠然とした不安のような、誰しもがいつか直面する空虚を経験してきたし、その機会はこれからも幾度となく訪れるのだろう。

 しかし、これは。
 京治のそれとは、あまりにも違う。

 終わりなどないその渦の底、辿り着く境地。それが、違和感という形で纏われる。

 いや、境地という言葉は適切ではないかもしれない。

 そう想う事しか出来なかった。そう想う事でしか、自分を保てなかった。立てなかった。笑えなかった。泣けなかった。

 そんな、──境地。

 京治では届かない場所。どんなに寄り添おうとも、どんなに理解したくとも、決して手の届かない心奥。

 その片鱗が、ちかちか、きらきらと。

 乱反射して、目に刺さるのだ。


「……謝らないで下さい。……名前さんの"ごめん"は、俺を振る為のものじゃないんでしょう?」


 名前の"ごめんね"は、二人の関わりを生み出してしまった事へのものだ。

 いずれ別れが訪れると分かっていて、それでも京治と共に過ごす事を選んだのは名前だ。京治の恋慕までは予想しなかったにしろ、どんな形であれ関わりを持てば、別れには必ず心が動く。

 だから名前は謝罪しているのだ。
 わたしが我儘したせいで、哀しみを背負わせる事になってしまってごめんね、と。
 
 京治は思う。

 優しく、強く、そして──酷い人だ。


「謝ったりなんて……しないで下さい」

「だって、京治」


 ──泣いてるよ。

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