しゃぼん玉


 南側の階段。木曜日の朝。

 今日も今日とて視線がぶつかる。あの春の日の邂逅以降、夜久も名前もお互いを意識せずにはいられなかった。

 だって、好きなんだ。

 これだけ月日が流れた今でも、こんなに好きなのだと。嫌ってほどに自覚している。
 
 でも、一歩が踏み出せなかった。



 目は合うのに。訴えているのに。

 なあ、俺のこと、覚えてるか? お前のこと、ずっとずっと好きだったんだぞ。

 ねえ、わたしのこと、まだ覚えてる? すきなんだよ。夜久くんのことが、あの日からずっと。
 


 探っているのに。

 なあ、俺のこと、どう見えてる? お前の中の俺は、あの頃の俺から何も変わってないのか?

 ねえ、わたしのこと、どう見える? 幼きあの日々に一緒に遊んだだけの、友達のまま? なにも変わってない?
 


 手繰っているのに。
 
 なあ、苗字。
 ねえ、夜久くん。



 瞳の奥の深遠を覗き込み、見えぬこころを求めている。激しく希求している。

 なのに一歩が、どうしても踏み出せない。

 そんなふたりの背を文字通り押してくれたのは、夜久お抱えとも言える獅子だった。そう、あの、やたら背が高くてやたら手足が長くてやたら瞳色が美しくてやたら騒がしい、やたら尽くしの獅子である。


 すれ違う瞬間、結局今日も何も行動できないのか、と互いの口から切なげな溜め息が零れ──ようした、その刹那のことだった。


 ドンッ!

「ん、わ?!」


 名前の背に重たい衝撃が走った。
 ちょうど次の段へ降りようと、片足が浮いていた。両手は教科書やらノートやらを大事に抱えている。

 つまり、階段での予期せぬ事態に対応するには、非常に不利な体勢だ。必死に着地した足だったが、しかし段を踏みちがえる。

 悪いことは重なるものだ。

 名前の右手の手すり側を夜久が歩いていて、左手の手すり側は、今まさに名前にぶつかった誰かが駆け下りて行くところだ。咄嗟につかまる場所がない。


(あれ、これ、落ちる……?)


 ──タキサイキア現象。

 周囲の流れがゆっくりと見える。やけに思考がクリアになる。名前の目に映る周囲の映像はゆっくり動くのに、名前の身体は思うように動かない。

 わあ、ほんとにスローモーションみたい。

 呑気なことを考える。妙にスローな時間の中で、名前は夜久の目が見開かれるのを見た。彼の口が「苗字」と動く。

 ……落ちる? 落ちるの?

 頭のどこか隅で、思索が廻る。
 
 そっか、それはしょうがない。ここ、地球だもんね。重力あるもんね。でも痛そう。すごく痛そうだ。

 怖い、と、やっと思う。

 ダメだとわかっていても、ぎゅっと瞼を閉じてしまった。衝撃に備え、身体が強張る。


(……あ、れ?)


 名前は恐る恐る目をあける。来るべき衝撃がいつまでたっても来ないのだ。代わりに何かに支えられている。支えられているというか、ほぼ抱きしめられている。

 鳩尾に回った腕が熱い。耳朶にかかる、彼の安堵の息が熱い。

 名前は視線を右へと動かした。自分をすっぽりと抱え込んでくれていた夜久と、信じられないくらいの近距離で、ばちん! と目が合う。


「──っ、………っ!」


 声なんて出なかった。

 だって、夜久くん。夜久くんが目の前にいて、わたしをだ、抱き、いや、支えてくれている。

 いつのまに、こんなに太い腕になったの? 女の子ひとり簡単に抱えられるくらいに力強くて。ねえ、こんなに胸板厚かった?

 あの日、小さな体育館で覚えた鼓動が、忙しなく身体中を叩いていく。鼓膜も叩かれ、彼の胸にぴたりと密着していた耳が、がんがんと鳴るようだ。

 頬が熱い。

 心臓と化した全身が、夜久の身体をも叩いてしまいそうだ。


「──…か? ……い、おい、苗字!大丈夫か?!」
「はっ!」
「いや、はっ! じゃなくて、大丈夫か? 頭とか打ってねえ?」


 つい、我に返るに最適な言葉を口から放ってしまった。名前は無言でこくんと頷く。

 これでも頭は全然打ってません。夜久くんのおかげですごく無事ですありがとう。

 それを見て、夜久は優しく目を細めた。先ほど耳朶にかかったのと同様の溜め息が、今度は名前の前髪にかかる。
 
 抱える腕の力を緩め、それから夜久はぎろっと睨みあげた。言わずもがな、──リエーフを。

ContentsTop