しゃぼん玉
「リエーフ! 危ねえだろうが! そのでかい図体で走り回んなって何回も言ってんだろ! つーか謝れ!」
「そんなの初めて言われましたよ! いつもはもっと走れだなんだって言ってるじゃないすか! しかももう謝ってますってば!」
いろんなことに惚けていた名前は、謝られたかどうかなんて覚えていなかった。
思い返すように斜め上を見やった名前の頭上で、リエーフはわたわたと両手を動かしている。
「や、でもほんとスンマセンした。怪我とかしてないッすか? 俺、急いでて……でもセンパイ軽いんすね、簡単にふっ飛んじゃっ」
「セクハラ!」
リエーフからしたら、大抵の女の子は「軽い」に分類されるだろう。セクハラではない。しかし夜久は、リエーフを例の如く叱ろうと立ち上がった。
体温が離れる。
夜久の制服の裾を引っ張って引き止めた名前は、遠くなってしまった体温を名残惜しく想っていた。
「だいじょーぶだから」
だから、夜久くんのお小言が増える前に早く離脱したほうがいいよ少年、急いでるんでしょ?
ぷんぷん丸の夜久を宥めつつ視線で促すと、リエーフは一瞬きょとんとした顔をして、ぱあと笑って、それから脱兎のごとく駆けだした。
「あっこらリエーフ!」
「あははっ、大丈夫だってば」
こんな形とはいえ、思いがけず話せていることが嬉しくて、笑みが零れる。いつもは名前が姿を消す手すりの向こうに、銀髪が溶けていく。
その姿を見送って、変わらないなあと思う。夜久くんのこういうところ、変わってない。
「………大丈夫じゃないだろ、ほら、乗れよ」
呆れたような声音で、夜久が呟いた。名前は首を傾げて夜久を見る。乗れ、って、誰がどこになんのために?
目の前には、夜久の背中が見える。いつの間にか広くなっていた背中。もうすっかり、男のひとの背中。
夜久は通り過ぎる生徒の視線と、互いの友の心配や困惑、一片の興味を含んだ視線を気にしたふうもなく、名前に背を向け、肩越しに振り返り、背に乗るようにと促している。
図らずとも間抜けた声が出る。
「……は、……え?」
「足、そこ、押さえてるとこ。痛くしたんだろ」
「っ、ううん、全然痛くない」
できるだけ、けろりと答えてみた。目敏いところも変わっていない。気持ちの落ち着きに伴ってアドレナリンがひっこみ、途端に足首が疼き出していたのだ。
そういえば盛大に階段を踏み外していた。その時に、これまた盛大に捻っていたのだろう。
痛む足首を無意識に押さえていた手を、ぱっと離す。肩のあたりで「違うの、違うんだよ」と手首を左右にぱたぱたさせた。
「ふーん、じゃあこれも平気か?」
捻った足首を、夜久の指先が軽くつついた。それだけなのに、ずきんと激痛が走る。完全に捻っている。もう、見目にもわかるほど腫れてきていた。
「…──っ! ごめん、ごめんなさい! 嘘なの! 痛かった、痛くしてた!」
「ったく、こういうの言わないとこは、なんも変わってねえんだな」
何も変わってない。
その言葉は、嬉しいようで同時に寂しくもあった。
俺たちは、わたしたちは、この数年の間でどこが変わって、どこが変わってないのだろう。
変わることがいいことなのか。
変わらないことがいいことなのか。
どちらが正解なのだろう。どちらが間違いなのだろう。それとも、──どちらも正解なのだろうか。
夜久は再度前を向く。
その頬は、ぽわわと赤く染まっている。周囲の視線が気にならないわけがない。恥ずかしいに決まっている。
抱きとめた彼女の感触が、今でもリアルに残っている。いつの間に、こんなに柔らかくなった? いつからこんな、甘い匂いがするようになっていた?
教科書を拾っていた夜久の級友と、筆箱を拾っていた名前の級友は、真っ赤に染まった双方の顔とそれぞれの行動とに、ぴんと何かを悟った。互いに顔を見合わせたあと、楽しげに口元を緩める。
「名前、保健室で冷やしてもらったほうがいいよ? 先生には、ちゃんと言っておくから」
「そうそう、酷くなっちゃあとが大変だし! それに夜久、こう見えてもまっちょだし安心だから!」
「こう見えてもってなんだよ、聞こえてんぞ!」
素早い反応を見せた夜久を横目で見て、そうだろうな、と名前は思う。
周りの男子と比べれば、夜久は小柄なほうだ。でも、幼いころから知っている名前には、夜久はとても大きく見える。
おおきくて、おおきくて、おおきいんだ。
今なら、聞けるだろうか。
あの日から繋がるようになった視線の意味を。階段の上と下、振り返るあの意味を。そこに隠された真意を、聞けるだろうか。
今なら、聞いてもらえるだろうか。
ずっとずっと秘めていた、この気持ちを。流された末に伝えることのできなかった、この、淡くてあたたかくて苦しい気持ちを。伝えられるだろうか。
ふと名前の脳裏をしゃぼんがよぎった。
あの日のしゃぼんだ。春風に舞う、桜色の。