しゃぼん玉


 名前はしゃぼん玉が好きだった。
 

『ねえ、もりすけ! 夜ごはんの時間まで、しゃぼんだましよー?』
『また? 名前はほんと、しゃぼん玉好きだよなー。なんかおもしろいか?』
『わかんない、でも、きれいだよ』


 消えゆくしゃぼんが世の常のようだと。
 今ならそう思う。割れないしゃぼんを作っても、いつかはぱちんと弾けて消える。

 変わらないものなどないのだと。
 終わらないものなどないのだと。

 今こうしている時ですら、移ろっている。確実に一瞬ずつ、未来へと進んでいる。いつかの終わりへと近付いている。そう言われている気がするのだ。そうして、上を向こうとおもう。

 煌めく珠を見ていると、気持ちが上を向いてくれるのだ。

 この時間にも、いつか終わりは来るのだろう。だからこそ限られた時間の中で、後悔しない道を選んだほうがいい。この数年で学んできた。数々を乗り越えてきた。


 名前は意を決して、夜久の肩にそっと手をかけた。がっちりとした背中に体重を預けてみる。ふわっと身体が浮く。懐かしい感覚だ。

 小さい頃にも、こんなことがあった。いつかの夕暮れを思い出す。蜻蛉が飛んでいた。濃い、濃い茜色だった。高い空。薄い雲。秋だったのだろうか。縁石から落ち、今日のように足首を捻って泣いていた名前を、夜久が家までおぶってくれた。

 本当に、変わっていない。



 懐かしい。
 昔も名前をおぶった。名前のほうが背が高くて、体重も同じくらいだった。歩き慣れた帰路が、随分と長く感じられたものだ。

 しかし今は、こんなにも軽い。
 リエーフに飛ばされたのも納得だ。ちゃんと食べてんのか? なんかよくわかんねえダイエットとか、してないか?つーか、そんなふうにしがみつくなよ。……胸、あたってるから。

 しかしそれを指摘するほどには、夜久も紳士ではない。彼も男子高校生なのだ。

 不慮の事故だ。不慮の事故。不可抗力。俺のせいじゃない。

 首筋をくすぐる彼女の髪が香る。「じゃ、連れてくなー」と友に目線で手を振り、背中の様子を窺う。髪の隙間から見える耳が、真っ赤に染まっている。


「苗字」
「ん? 重い? ごめんね」
「や、それは全然、むしろもっと太った方がいいっつーか」


 ああ、こうじゃない。こんなことを言いたいんじゃない。その赤い耳の、意味を問いたいのだ。

 
「ねえ夜久くん」
「おー?」
「……ん、やっぱなんでもなかった」
「そっか」
 

 ああ、どうして言えないんだろう。たくさんたくさん、伝えたいことがあるのに。せっかくこうして一緒にいられるのに。

 互いに肝心な部分に触れられぬまま、保健室に到着した。夜久がお行儀の悪いことに、器用に足でドアを開ける。

 いつもは静かで穏やかな時間が流れている保健室。が、珍しくばたばたとしていた。

 どうやらどこかのクラスの一限の体育で、怪我をした生徒がいたようだ。左眼を厚手のタオルで押さえている。

 そんな慌しい最中さなかでも、夜久たちに気づいた妙齢の養護教諭が声をかける。


「あらあら、どうしたの」
「こいつ階段で足捻っちゃったみたいで」


 空いているベッドの縁に名前をそっと下ろす。僅かにベッドが軋む音がした。シーツが少しだけ皺になる。


「あら、結構腫れちゃったわね」


 名前の靴下を脱がせ、足首の状態を診終わった先生は、困ったように眉を寄せた。


「あなたも病院に行った方がいいけど、でもそうね、急ぎはしないわ。放課後で大丈夫。……それでね、本当に申し訳ないんだけれど、」
「大丈夫です、とりあえず冷やしておけばいいですよね? 先生はあの子の病院、行ってやってください」


 夜久が答えた。これまでにも捻挫をする部員は結構いた。対処には慣れている。

 先生は安堵の表情を見せた。教諭というのも大変だな、他人事のようにそう思う。

 急ぎ足で保健室を出て行く数人分の足音を聞きながら、夜久は氷嚢を作る。氷を詰めながら、室内を見回してみる。

 以前はよく、お世話になったものだ。擦り傷を作っては、豆を潰しては、よく来ていた。成長とともに足は遠のいた。高校生になってから保健室に来たのは、ほぼ初めてに等しい。

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