しゃぼん玉


 ふたりぽっちの室内。空気清浄機の音だけがする。


「苗字、痛いか?」
「う、……んん、だいじょうぶ」


 強がる名前に苦笑し、夜久は赤く腫れあがってしまった足首に氷嚢をあてた。逆の手で患部にそっと触れてみる。指先が微かに震えた。

 緊張、している。

 いやしかし、この怪我がリエーフのせいだと思うと非常に申し訳ない。あのやろ、まじリエーフ!

 悶々と後輩に不満を募らせる夜久のつむじを見ながら、名前は張り裂けそうに痛む胸と戦っていた。

 ねえ、夜久くんは、ふたりきりのこの状況で、どうしてそんなに冷静でいられるの? わたしの心臓、もう壊れちゃいそうだよ。

 女の子、として見てほしい。
 異性として認識してほしい。

 そんな感情を抱えた名前は、堪らず夜久のつむじをぐりっと押した。


「?! な、なに? 苗字」
「つむじ、変わってないなーって思って」


 氷嚢を持っていない方の手で、頭頂部と、まだそこに置かれていた名前の指を一緒に抑えた夜久が、ぱっと顔を上げる。目元がほんのり赤らんでいる。


「ねえ夜久くん」


 触れた夜久の手に、心臓が逸る。それを必死に抑え込みながら、名前は苦しそうに言葉を繋いだ。


「夜久くんにとって、わたしはあの頃のまま? ずっと子どもで、ずっと友達で……もう、変わらない?」

 ──変われ、ない?


 ぽつん、名前の頬を涙が伝う。
 その光景に、名前の言葉に、夜久は息を詰めた。なん、だって? 今、苗字はなんて言った?


「今の、どういう」
「ばか! ばか! ……っ、衛輔のばか!」
「なっ」


 どういうこと、だなんて聞かないでほしい。自分の気持についていけなくて、思わずあたってしまった。バカ、だなんて。

 もう嫌なの。

 何もできないで時が過ぎゆくのを、ただ見送るのは。どうしようもなかったとわかっている。多くのひとが通る道だったと。

 でももう、嫌なんだ。

 名前の目から、ぽろぽろと粒が落ちていく。

 夜久は目を見開いた。馬鹿と言われたからではない。今の馬鹿は馬鹿という意味じゃないことくらい分かる。

 でも、じゃあ、今のは? その涙は?

 ……俺と同じ、なのか?

 名前の細い手首を掴む。真っ直ぐに彼女を見上げた。今にも溢れそうな涙が、眼球を潤ませている。


「や、だ、離して」
「離さねえ」
「離してってば」


 名前が身を捩る。こいつ、意固地になってる。それが可愛くもあり、煩わしくもあった。今は煩わしいほうに比重が多いかもしれない。

 
「──…名前、聞けって」


 名前、と。何年振りかわからない音が、夜久の声帯を揺らした。久方ぶりに空気を伝った記憶の中よりも低い音が、名前の鼓膜を震わせる。鼓膜に合わせるかのように。名前の身体も微かに震えた。

 名前の手首を掴んだまま、夜久は立ちあがる。見下ろされて、名前は思わず身を引いた。

 引いたかと思ったら、背中がぽすんと音を立てた。世界が回る。ぎし、先ほどよりも重くベッドが軋む。

 夜久が名前に覆いかぶさったからだ。

 押し倒したともいう。

 名前の両腕は顔の横で、夜久の手に縫いとめられている。そこまで強く押さえられているわけではないのに、ぴくりとも動かない。


「えっ、な、なにし……っ、ん」


 言いかけた言葉は、夜久の口内に呑みこまれた。唇に触れているものが唇だと理解するまでに、些か時間がかかった。


「んっ! ……っ、……んぅ」


 抗議の言葉など発せさせてももらえない。呼吸すら儘ならない。まるで今日までの数年間を、埋めるようなキスだった。

 唇がとろけて、痺れてくる。

 その一瞬の隙を逃さずに押し込まれた舌が、歯列をなぞり、口蓋を撫で、名前の舌を絡め取る。

 名前の身体はあっという間に力が抜けた。夜久は縫い止めていた腕を解き、名前の頬をなで、髪を梳く。背中に腕を回し、少し抱き上げるように抱きしめた。

 びくん、名前の身体が跳ねる。
 与えられる快感に、這い上がってくるもどかしさに、縋りたくなる衝動に。

 名前は耐えるようにシーツを握った。

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