しゃぼん玉


(なあ、……ちゃんと伝わる?)


 名前を抱きしめる夜久の力が強くなる。詰めた、行き場のない吐息を分け合いながら、名前はシーツを掴んでいた手を夜久の首に回した。


(……伝わるよ、すっごく伝わるから、だからもう許して? 息、苦しいの)
(だめ、ばかとか言うお前が悪い!)
(だって衛輔がにぶちんなんだもん!)
(にぶちんはお互い様だろ?)
(あははっ、ね、……もう1回名前呼んで?)
(ん、もうちょいだめ)


 ひとときも、僅かの隙間も離れない唇の間。音にならない会話が織りなされる。何度も何度も角度を変え、深さを変えて繋がる。

 夜久が名前の毛束を掬う。
 名前が夜久の襟首に縋る。

 そうしてどれだけ経ったのだろう。

 名前の息が本当に限界を迎え、やっと唇が解放される。意識はとうの昔に朦朧としていた。


「っふ、……はぁ」


 焦点の定まらないとろんとしたまなこに、もう涙は見えない。見えないが、今度は違う理由で潤んでいる。火照った身体に潤んでいる。

 ベッドを仕切るカーテンレール。
 晩夏の光。夏の残り香。虫の声。

 カーテンの隙間から溢れた光が名前の瞳にかかる。潤った茶眸が透ける。なんて、美しいんだろう。引き寄せられるように、夜久は瞼に口づける。



「………名前、好きだよ」



 名前が望んだ名を、強く優しく。愛おしい宝物のようにそっと囁く。


(……っ、やっと呼んでくれた)


 名前は力の入らない腕を持ち上げた。切なげに目を細め、名前の頭を撫でていた夜久を手招く。


「……ん? どした?」


 名前の頭の両脇を腕で囲っていた夜久が、首を傾げる。すっかり染まった彼女の頬がなんとも煽情的で、深い吐息を吐いた。

 
「衛輔」
「……おう」


 幼いころは、あんなに無意識に呼び合っていた名前。それがどうして、これ程までに響くのだろう。

 
「ふふっ」
「なんだよ」
「へへ、聞きたい?」
「うん」


 名前はもう一度、へへと微笑む。より一層頬を染め、手で口元を隠した。

 夜久が今までに見た、どんな笑顔よりも愛らしい。

 どうやったらそんな可愛い顔できんだよ、と思わず問うてしまいそうになった。問わなければ、心臓がおかしくなりそうだったのだ。


「すきだなあ、って思って」


 照れくさそうに顔を綻ばせてそう告げた名前に、堪らずもう一度深いキスをする。それから、ベッドの縁にかかったままだった名前のひざ裏を抱える。


「?」


 軽く身体を持ち上げ、ぽけえと見上げてくる瞳を枕の上に乗せる。

 乱れた制服。乱れた髪。
 覗く側腹部。覗く大腿。

 真下に広がる光景に、こくん、夜久の喉が上下する。いや、ダメだダメだ。おんぶの時とは違う。

 こんな時こそ紳士であれ、だ。

 そう、紳士。ジェントルマン。

 なけなしの理性を総動員し、意地悪な顔で笑っている誘惑を押しこむ。押しこんで、押しやって、せめて今だけは出てこないでくれと懇願する。


 頭をぶんぶん、ぶんぶんと。
 何ものかを追いやる夜久を微笑ましく見守っていた名前だったが、彼女は彼女で自身の欲求と闘っていた。

 抱きしめられただけ。

 キスをされただけ。

 頭を撫でられただけ。

 そんな積み重ねだけなのに、制服やシーツが擦れる刺激にすら反応してしまうほど、肌が敏感になっている。

 身体の奥が夜久を待っているのがわかる。どうしようもなく疼いている。すっかり熱を持った身体を持て余す。

 名前も頭をぶんぶんしてみた。

 頭を振る夜久。
 やはり同様に頭を振る名前。

 その異様な光景に気づいたふたりは、同時に吹き出した。「ははっ、どうしようもねえな」と笑った夜久が、名前の隣にころんと横になる。

 片腕は自分の枕に。もう片腕は名前の背に。ゆるく回して抱き寄せる。名前も夜久の首元に擦り寄る。ころころ甘える猫のようだ。


「名前、そいえば足、平気?」
「うん、キスしてたら治っちゃった」
「いやそれ全然気のせいだから、ちゃんと冷やせよ」
「んー、やっぱだめかあ」


 足元に転がっていた氷嚢を足首に乗せ、名前は再度、夜久に凭れる。


「あったかいね」
「なー」
「眠くなってきちゃったね」
「なー」



 消えゆくしゃぼんが世の常のようだと。

 今でもそう思う。変わらない。
 
 でも、俺たちを、わたしたちを包むこのあたたかい陽光が。しゃぼん玉のように煌めく珠が。消えるのがどうか、命の最期の瞬間でありますようにと。

 そう願った。

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