週末は四半期終わりの部署の飲み会だった。大所帯で居酒屋の大きめの個室を占拠する。いつもはなかなか話せない人とも話せるいい機会だった。上司と軽く話しをして、会が後半になるとそれぞれのテーブルを回る。
「そういえば、最近、苗字さん髪下ろしてますよね。」
少し離れた所から話し声が聞こえてきた。
「あ、はい。この前寝癖が酷くてアイロン使ったときにちょっと火傷しちゃって。みっともないから治るまでは下ろしてるんです。」
「あー、アレ痛いよね。火傷だから絆創膏貼ると水膨れ潰れて跡になっちゃうしさ。」
他の女性に同感され、ほっと安心した表情と目が合ってしまう。慌てて笑い掛けると会釈され、気まずそうに目を逸らされた。飲み放題の時間が終わり会がお開きになる。一本締めの後、二次会に向かう人、駅に向かう人、バス停に向かう人、それぞれ散り散りになる。その中で人目を盗んだように寄ってきたその人に、主任、と声を掛けられた。
「あの、この前のこと、黙ってて下さってありがとうございます。」
「ん。言って歩くようなことでもないからね。上手い言い訳考えたね?」
「やっぱり、聞こえてましたよね。納得してくれたみたいで、安心しました。」
ぺこりとお辞儀をしてそそくさと離れていった。必要最低限。ブレない。ふと私用携帯が鳴った。連れからの電話だ。
「どうした?」
「お、カカシ?名前ちゃんと会ってる?」
「いや。」
「そっか。なんか先週お前と抜けてから連絡取れねーらしいんだよな。今さゆりと会ってて聞いてみてって言われたから。急に悪いな。」
「全然。そういえば、彼女って何て名前なの?」
「名前ちゃん?」
なー、名前ちゃんって上の名前何、と聞いている声が電話越しに聞こえる。
「知らねーって。なんかああいう場所行くときぐらいしか連んでねーらしい。」
何か喋る女の声が聞こえて電話口の男が黙る。
「あ、前回のメンツで連絡先グループ作るっぽいけど、お前も入れていい?」
「あぁ。」
いいってー、と伝えている。
「そこに一応名前ちゃんのも入ってるらしいから、連絡してみれば?」
「あぁ。ありがと。」
おう、と言って電話が切れ即座にグループに招待された。名前、とだけ書かれたアカウントがあってこれが彼女だろうとメッセージ画面を開く。文字を打って送信ボタンを押す。既読マークはつかない。友達にも連絡してないぐらいだ。そもそも俺の名前すら知らないかもしれない。返信は望めないかな、と駅の改札をくぐりながら思う。電車の時刻を確認してプラットフォームへ向かう。その時ケータイが短く鳴った。慌てて開くと彼女から返信が来ていた。会いたい、と送った返事に、私も、と簡潔に。急いで文字を入力する。入力中マークが表示されて程なく返信が来る。
『今どこ』
『電車。また家行ってもいい?』
『もちろん』
『日付が変わるくらいに着くと思うけど、いい?』
家までの到着予定時刻を急いで確認する。
『いいよ。電車?迎えに行くよ。』
『大丈夫。道覚えてる。』
呆気なく取り付けられた約束に心が躍る。最寄り駅の近くのコンビニで適当に飲み物とつまみを買い足して家に帰る。簡単に部屋を片付け終わってスーツを着替えようか迷っている時にケータイが鳴る。
『部屋番号何だっけ?』
そのメッセージを見て鍵とケータイだけ持ってエレベーターに乗り込む。
『着いた?』
『ついた』
1階に着くとオートロックの前で待ってる姿が見えた。
「ごめんなさい、今帰ったとこでした?」
「ん。大丈夫。飲み会だったから。」
エレベーターに乗り込んでさり気なく手を繋ぐ。
「道覚えてたんだ?暗いから迎えに行こうと思ったのに。」
「タクシーで帰ってる途中だったんですけど、見覚えがあったから記憶を頼りに。」
「結構前に着いてた?」
タイミングよくエレベーターが開く。俺の質問には答えない彼女の手を引いて部屋に向かう。お邪魔します、と言ってあがった彼女に何か飲まない?、と冷蔵庫から先ほど買ってきた飲み物を取り出す。
「んーじゃあお言葉に甘えて。あ、これ。」
好きな缶酎ハイがあったらしい。手に取ってプルタブを開けた彼女を見て、自分も適当に手に取って開け乾杯する。鈍い音が鳴った。
「もう会えないかと思った。」
呟いた俺に申し訳なさそうに笑う。
「勝手に帰っちゃってすみません。」
「友達とも連絡取ってないの?心配してたよ。」
グイッと缶を傾けて喉を鳴らす姿を見つめる。
「あの、前回あんな事になっちゃって、ちょっと、気まずくて。」
「でもよく途中で抜けてるんでしょ?」
「そうですけど。今回はまた別だったというか。」
言葉を濁してまた缶に口を付ける。確かに友達の前であんな押し倒すようなことをされたら恥ずかしいかもしれない。逆にゲンマの女が平気な方が不思議なくらいだ。
「何で俺とは会ってくれる気になったの?」
「前回、帰ってシャワー浴びて、ビックリしました。」
何も言わず目を合わせながら酒を飲んだ俺を見つめて、顔を赤らめて俯く。悔しい事に可愛かった。
「届いた?愛の深さ。」
「それとなく。」
「それとなく、ね。じゃあしっかり教え込まないとね。」
素直に押し倒されている彼女の服を脱がすとまだ自分が付けた所有印が残っている。上から重ねるように付け直す。お互い快感を貪る最中にも何度も何度も。四つん這いになった彼女が刺激に気を取られている間に首の後ろにも。行為がひと段落して放心している隙に左手の薬指にも。
「俺たち、お互いの事、全然知らないよね。」
ベッドに二人寝転がってそう話しかけた。
「そうかも。」
胸に手が置かれ擦り寄ってくるのをそっと抱き締める。
「家、ここから近いの?」
「車で5分くらい。電車は2駅。」
「そう。意外と近いんだね。普段は何してんの?OL?」
「そうですね。」
「名前、なんて言うの?」
返事が返って来なくて其方を見ると穏やかな顔で眠っていた。布団を上まで掛けてやり、抱き締めた手に力を入れる。今度は勝手には帰さないと言わんばかりにギュッと。朝起きると隣で寝息がしてひどく安心した。そっと体勢を変えおでこにキスを落とす。なんでこんなに好きなんだろう。まだ会ってそんなに経っていないのに。所謂一目惚れだった。自分は一目惚れするタイプじゃないと思っていたけど、思い返せば立派に一目惚れだったと思う。今まで遊んで来た女と状況的には何も変わらないのに、何が違ったんだろう。目に入った昨夜自分で付けた所有印を手でなぞる。こんな事したのも初めてだった。こういう関係なのに、好きだと自分から口にしたのも初めてだった。
「ん、おはよ。」
まだ寝惚けた様子の彼女が挨拶をした。それだけで胸を掻き乱される。
「おはよ。眠そう。」
答える代わりに胸に擦り寄ってくる。チュッと頭にキスを落とすと、驚いたように此方を見てきた。
「俺、好きな人はとことん甘やかすみたい。」
「みたい、って何ですか?」
また胸に*を寄せた彼女が恥ずかしそうに訊ねる。
「さぁ。今までこういうこと無かったから。自分でも分かんない。」
俺の腹に乗せられていた彼女の左手がぱっと広げられる。昨夜は気付かなかったらしいマークに気付いたようだった。
「いつの間に。」
「器用でしょ?」
「隠せないんですけど。こんなとこ。」
不機嫌そうに、焦ったように言われてその左手を手に取る。もう一度口付けてマークを重ねて戻す。見えている横顔がかぁっと赤くなる。
「じゃあ隠せるアクセサリー買ってあげるからさ、俺と付き合ってよ。」
自分でもキザだなと思った。彼女に笑われるかも、と思ったけど反応がなかった。
「聞いてた?」
「聞いてました。遊びの付き合いに、そういうの匂わせるのは、ズルいです。」
悲しそうな声が聞こえる。左手を広げて眺めるその表情はこちらからは見えない。
「遊びのつもりじゃ無かったんだけどな。そういう関係ならまた会ってくれるの?」
ガバッと上半身を起こして此方を見られる。
「え、付き合うって、本当に?」
「うん。」
「アクセサリーって左手の薬指に?」
「うん。」
「意味分かって言ってます?」
「分かってるよ。結婚前提に付き合わない?」
何で「結婚前提」なんて言葉が自分の口から出たのか、自分でもよくわからなかった。そういう堅苦しく縛られるのが嫌でクラブにも行ってたんじゃなかったのか。特定の彼女も作らなかったんじゃなかったのか。彼女も驚いたようで目を丸くさせている。何も着けていない事を忘れているのか、彼女が勢いよく起こした上半身はいい眺めだった。
「わ、たしで良ければ。」
その言葉を聞いて笑顔を向けて、気になっていた胸元に手を伸ばす。幸せを噛みしめるように二人休日の朝を過ごした。もうだいぶ日も登った時間帯にやっと交代でシャワーを浴びて買い物に出かける。約束したアクセサリーを物色しにと何軒か連れ回す。遠慮してるのか、まだ疑ってるのか、それとも急過ぎて心の準備が出来ていないのか。強請られたのはお手頃なファッションブランドの指輪だった。
「俺、本気だったんだけど。」
「知ってます。でも後で私に感謝するかもしれませんよ?」
「ちゃんと選んでおけばよかったって後悔するかもよ?」
そう言いながら買い与えた、如何にもファッションリングな可愛らしい指輪を付ける姿を眺める。それじゃあ付ける指は合っていても抑止力にはならないかもしれないな、とぼんやり思った。