何ヶ月かに一度行う部署のランチミーティング。「コーヒーマシンに違うフレーバーを足して欲しい」みたいな些細な要望から「人員不足が深刻なのでスキル保有者を増やしてください」といったシリアスな相談まで、何でも話す気軽な集まりだ。自分が主任に就任してから、こうやってたまに大きめの会議室を使い、その日オフィスにいた人で昼飯を持ち寄りだらだら話すのが定番になりつつあった。要望のある奴は自然と俺の近くに座るし、そうじゃなれば自然と遠くへ座る。少し離れた所からプロジェクトの情報交換をしたり愚痴を言い合ったりしているのが聞こえてくる。わいわい他愛なく話す声に混じって女性社員の声が耳に届いた。
「指どうかしたの?」
「久し振りに料理してたら包丁で切っちゃいまして。珍しい所だから変な縁まで切ってないといいですけどね。」
声の主を探すと若手エースで、遠目で分かりづらいが左手を怪我したらしい。冗談を言いながら中堅社員と談笑している。自分が指摘してから下ろしだした髪は今もそのままで、気持ち長さが短くなっているような気がする。昼休みが終わる20分前くらいから流れ解散になって、ポツポツと人が減っていく。若手社員がコーヒーの片付けをしてくれている姿を見てお礼を言う。
「あとは俺がやるから。」
半ば強制的に受け取る際に左の薬指に絆創膏が貼られている手が見えた。慌てて顔を上げると本人がパッと手を引っ込めてお先失礼します、と立ち去ろうとする。
「苗字はちょっと残って。」
気付けば呼び止めていた。何か話があると踏んだのか、帰りにくそうにしていた他の社員たちがそそくさと会議室を出て行く。
「あの、何か。」
気まずそうに目も合わせず、呼び止めた理由を問われる。もう自分の中で確信に似た感情が生まれていた。
「指どうしたの?」
「あ、えっと、料理した時に包丁が当たってしまって。」
隠すように右手で包む様子を眺める。
「髪、ずっと下ろしてるね。」
「っ、下ろしてみると、案外皆さん褒めてくださって。嬉しくてそのままでもいいかなと最近はずっとこのままに。」
動揺しているのが一目見てわかるくらいだ。それなのに、半分本当なのか、彼女からはサラサラと言葉が出てくる。
「そ。纏めてたのも清潔感あって良いと思ってたけどね。」
固まる彼女の後ろに何気なく移動し、髪をそっと手で束ねるようにして上げてやる。やはり。すぐさま首の後ろを隠すように伸びて来た手に隠されたけど、見覚えのある印が確認できた。わざとつけた頸に並ぶ3つのキスマーク。手を離して髪が落ちたのを見送って無防備になっていた左手を掬い取る。自分の手にすっぽりと隠れるような手を包み絆創膏を外そうと試みる。慌てて俺の手を止めようと遠慮がちに手を押さえられる。勘違いなら訴えられるかもしれないな、なんて他人事みたいに思う。
「こんな付け方する人、なかなかいないよね?」
確信を持って確認した薬指にはしっかりとキスマークが付いている。バツが悪いと体全体で表現する彼女とは一度も目が合わない。身長だって彼女よりは随分低いように感じる。香水も変えたのか、彼女とは違う香りだ。手を離すとパッと右手で隠すように包んでいる。その隙にいつも掛けているメガネをゆっくりと外してみる。
「ね?名前ちゃん。」
化粧が薄いから幼く見えるけど、その顔は彼女を彷彿とさせるものだった。薄暗い空間だけでしか会ったことがなかった頃と違い、もう昼間の明るい店内でも顔を確認済みだった。
「買ってあげたのに着けてくれないんだ?」
「主任、何を、」
「名前、教えてくれなかったのも、一度も呼んでくれなかったのも、ボロが出ないように?」
一歩近づけば一歩後ろに下がられる。また一歩近づくと怯えたように一歩下がる。
「たしか俺ん家の2駅隣、うちの職場の奴に人気だよね。アクセスいいから。」
彼女の背が壁に当たる。会議室の薄い壁に逃げられないよう追い詰めた。
「いい加減、教えてくれてもいいんじゃない?名前ちゃん。」
*に手をあててそっと上を向かせる。涙ぐんだ目をじっと見つめる。言葉を発さない彼女に痺れを切らし、スカートに入れ込まれていたブラウスの裾を引っ張り上げる。お腹が空気に触れたのがわかったのか、慌てて俺の手を止めようと押さえつけられる。さっと記憶にある印をつけた場所を探すと案の定見つかる跡。親指で優しく撫でてやるとビクッと体が強張った。
「教えてくれないと全部確認することになるけど。」
もう少し上に付けたところを肌は出さないように気を付けながら手でなぞる。その行動に自分でも思い当たりがあるのか、目の前の顔がかぁっと赤くなる。
「あとどこだっけ。」
そう言って背中につーっと指を滑らせて、記憶を頼りにとんと指で叩く。腰を通ってスカートの中に入って行くのを感じ取ったのか、胸元に手を置かれる。
「ごめんなさい、騙すつもりはなくて。」
ゆっくりと顔を上げた彼女と視線が絡む。潤んだ目で上目遣いに見てくる姿は普段職場で見る姿からは想像できなかった。スカートから手を引き抜いて細い腰に両手を置いた。
「最初に、友達が連れてきた時に、気付いて、関わらないようにしようと思ったんです。でも、あの、気に掛けてくださって、あんまり邪険にもできず。」
俺を見るなりそそくさと席を立っていたことを思い出す。それを追い掛けてしつこく纏わり付いたのは確かに自分だった。
「もともと尊敬してた人が、そんな、自分だと気付いてなくても、相手にしてくれるのが、あの、嬉しくて。もし、私だと分かったらショック受けるかもと思って、極力隠そうとしたんですけど。」
「キスマーク、あんなとこまで付けられてると思ってなかったんだ?」
一度赤みが引いていた*に再度熱が集まっているようだった。もともと尊敬してた、というのはあの事務的に淡々としていた姿からは意外だった。静かにコクリと頷いたかと思うと俯いた。
「俺が気付かなかったら、言わないつもりだった?」
沈黙を肯定だと受け取る。はぁとひとつ溜息を吐いて距離を取ってテーブルに浅く腰かけた。思い出したかのように乱れた服装を直すのが目に入る。
「職場の私から言い寄られても、相手にはしなかったですよね。」
項垂れる姿を見てか口を開いた彼女は痛いところを突いてくる。男ばかりの飲み会で話題に上がった時に、なんか違う、と思った自分を決まり悪く思い出す。
「それは、私も分かっててやってたから、当たり前なんですけど。」
そう言って自嘲する笑みはちゃんと一目惚れしたあの彼女の表情だった。
「ね?早まらなくてよかったでしょ?」
俺の手からメガネを抜き取っていつも通り装着して言い放つ。指輪を選ぶ時に、後で感謝するかもしれませんよ、と言った彼女を思い出す。タイミングがいいのか悪いのか、次の会議室予約の人が来たようでコンコンとノックされる。
「お疲れ様です。」
何に対してなのかそう言った彼女は、会議室のドアを開けて次の使用者を招き入れ仕事に戻っていった。