それから何度か彼女にメッセージを送るも返事は返ってこなかった。俺の家に訪ねてくることもなかった。相変わらずゲンマの女も連絡が取れないようで、もう諦めているようだった。いつか言われた、なんかああいう場所行くときぐらいしか連んでねーらしい、という言葉を思い出す。今も「ああいう場所」に行ってるんだろうか。最初会った時のように「友達」を待ちながら。職場では職場で、いつもと変わらず淡々と接してくる。向こうも俺が気軽に職場でそんな話をしてくるとは思っていないようだった。ただ以前と明らかに違うのは二人きりになれそうな時間帯を明らかに避けるようになったこと。定時ピッタリに退社して、たまのランチミーティングも参加しない。職場の飲み会にも欠席することが多くなった。今までは緊急の連絡や重要な報告は電話か直接会ってされていたのに、メールや他の中堅社員を通して伝えられることが増えた。そこまで徹底されるとこちらも安易に近づけない。
「苗字、最近どうだ?」
終いには管理職の飲み会で心配される始末。何でも、最近あっさりと帰宅したり職場の交流の場に顔を出さない姿を見て転職を考えているんじゃないかと噂になっていたらしい。中堅社員と肩を並べて仕事できる若手。貴重な人材の流出の可能性に危機感を覚えているようだった。
「最近は前までのようにがむしゃらで献身的、とまではいきませんが、相変わらず部署の売り上げに貢献してくれています。」
「結婚間近か転職を考えているんじゃないかって噂になっていたぞ。」
「そう、ですか。」
「今抜けられたら、替えは効かないだろう。こういうのは向こうから切り出される前に解消しないと手遅れになるからな。頼むよ、はたけくん。」
ただ俺のことを避けているだけだろうと軽く考えていたが、その言葉を聞き酷く動揺する自分がいた。上からの要望があったから、という言い訳もできた。定時にオフィスを出ようとする姿を追いかけ、幸いにも誰もいないエレベーターホールで話しかける。
「いつにも増して仕事が早いね。」
「、ありがとうございます。」
「最近あんまり話せてなかったからさ、飲みにでもいかない?」
「あ、と、今日は、すみません。用事があって。」
「そう。気まずかったら仲良い同僚誘っていいからさ、今週来週くらいで、どこか時間作ってくれない?」
「承知しました。追って連絡します。」
エレベーターが到着して俺に挨拶をして乗り込んだ彼女を見送る。手遅れになる、か。二人の関係という意味では手遅れなのかもしれない。でも上司としてはなるべく間に合わせたいと密かに思った。翌日には彼女からメールが届いて、俺が上司として話したいという意図を汲んだのか、特に連れは誘わず今週の木曜か来週で如何ですか、とお伺いが来た。善は急げと木曜を指定して、二人だから店の予約はいいよ、と先に伝えた。男女の関係でも、上司としても、こういうことをするのは初めてだった。空いた時間に何から話せばいいか、ふんわりと思考を整理しておく。あっという間に木曜が来て、例によって定時でオフィスを出た彼女を追いかける。
「近くの居酒屋でいい?和食なんだけど、結構料理が美味しくて。」
「はい。私和食好きなので楽しみです。」
「そ?よかった。」
久しぶりに並んで歩く。先日の会議室での出来事はなかったかのように、あの日彼女と出会う前と同じように接してくる。前はそれが楽で心地いいと思っていたのに、今は胸が痛むような気がした。店に着いて2人と店員に告げると、気を使われたのか何なのか、半個室みたいなカウンター席に通された。顔が見えなくて済むのはありがたかった。
「出版会社のプロジェクトはその後どう?」
「主任に来ていただいてから安心されたようで、ここまで順調に進められていると思います。コンセプトも目新しくて面白い、と褒めていただいて、一緒に良くして行きましょう、と凄く協力してくださいます。」
「よかったね。コンセプト、どの案になったの?」
彼女から飲み会中に呼び出された日、机の上に散らばっていた資料を思い出す。
「B案になりました。って、B案って言われてもって感じですよね。ちょっと待ってくださいね。」
盗み見た案をいくつか思い出す。結構奇抜だと思ったけど、それが受けたらしい。
「これです。完成予想をデザイナーの吉田さんに作ってもらって。」
そう言ってケータイを取り出してこちらに見せてくる。覗き込むときに自然と肩が触れた。ちょうど頼んでいた飲み物と軽食が来てパッと距離を取る。
「あぁ、いいじゃない。ラフ案見たときはちょっと奇抜かなと思ったけど、こうやって見るとしっくりくるね。」
「あり、がとう、ございます。あれ、私、その話も相談してしまってましたっけ?」
すみません、と小さく謝られて、決まり悪く*を掻く。ビールで喉を潤すと隣で彼女もグラスに口を付けているのが見えた。
「あー、違う、この前、堀江のプロジェクト手伝った時に、作成中の書類ちらっと見ちゃって。ごめんね。」
「そうだったんですね。私、またつい相談してしまったのかと。主任、部署で走ってるプロジェクトほとんど把握してくださってますよね?何相談してもすぐ答えくださるので、ダメだなと思いながら色々聞いてしまうんですよね。」
ふふ、と恥ずかしそうに微笑んでお通しに箸を運んでいる。そんな風に思われているとは意外だった。
「そう?苗字は自分の中でいくつか解答用意してから来るから、答え合わせしたいだけだと思ってたけど。」
「その答え合わせが、主任以外だと案外出来なかったり、します。」
「意外と役に立ってるようで安心したよ。」
あっという間にグラスを空にした彼女が少しアルコール度数の強目のお酒を注文する。なかなかいける口らしい。そういえばお酒が強いのかどうかすら知らなかった事に気づく。職場の飲み会でも潰れてるのは見たことないし、クラブで会った時もそんなに弱い風には見えなかった気がする。
「じゃあ今は特に心配なことはない?」
「…それは仕事で、ですよね?」
「他もあれば、俺でよければ聞くけど。」
「今は、ないですね。やっと要領もペースも掴めて来ましたし、よく言われる社会人3年目の壁をやっと乗り越えたって感じです。」
「キツイんだよね、その時が。また苗字は仕事もできる方だから、他の同期より早めにその時期が来たと思うんだよね。やっと動けるようになったと思ったら求められる役割が急に変わって。そんな中よくやってくれてるなと思うよ。」
「ありがとうございます。」
届いたお酒をチビチビと飲みながらお礼を言われる。
「主任、部署変わるんですか?」
「え?」
「転職、とか、ですか?なんか、最後みたいな口調ですよね。」
寂しそうに目を伏せてグラスを手に持っている。その中身が思ったより減っている。
「いや、そんな風に聞こえちゃったかな。はは。」
「私が、異動、ですか?」
取って付けたような乾いた笑いに余計に不安を煽られたのか、こちらを見ずにそう問われる。なんだ、やっぱり心配いらなかったじゃないか。彼女が最近変わったように見えた、というのはやっぱりプライベートの自分との事なんじゃないか、と。もちろん、それはそれで解消しなくてはいけない事だけど。
「いや。最近、ぴったり定時で上がったり、職場の付き合いに顔出さなくなったり、取れるクレジット人に譲っちゃったりしてるから、何か悩んでるのかな、と思ってちょっと心配だった。」
「あ、そんな心配かけてしまってましたか。すみません。至って平気です。今までの働き方は確かに自分の成長には繋がりましたけど、今後10年20年続けることは無理だなって思い知って、シフトチェンジしただけなんです。クレジットの事は、主任がご存知だとは知らなかったですけど、ちょっと私に集中した仕事が他にも散ってくれればいいなっていう願望もあって。」
「ん。そっか。」
一旦言葉が途切れて、お互いにあまり手の付けていなかった料理に箸を運ぶ。
「正直さ、この前の事で、気まずくさせちゃってんのかなって思ってたんだよね。だから、嘘でも、その言葉を聞いて安心した。」
彼女の方を向いて目を合わせる。彼女の目から涙が溢れた。
「え、あれ?ごめん、そっちは触れちゃいけなかった?かな。」
急いで予備で置かれていたおしぼりを渡すと、ふふ、と声が聞こえて泣き笑いしているのが見える。
「やっぱり格好いいですね。」
目元を押さえて、もう一度お酒を飲んでそう言った言葉を反芻する。やっぱり?
「私、主任のこと、憧れてて。関わったプロジェクトがメディアに取り上げられてるの、就活中に見て、この人と働きたいと思って入社したんです。」
「そ、れは知らなかったな。」
「配属された部署が全然違うところで凹んでたんですけど、人の倍量仕事こなして実力つけて、実績を作って、やっと今の部署に。」
確かに彼女の希望で移動して来たのは記憶に新しい。自分が関わったプロジェクトを覚えていたのは偶然ではなかったらしい。
「現場では一緒にならないですけど、やっぱり判断力とかマネジメントの仕方とか思ってた以上に凄くて。早く認められたくて、がむしゃらに仕事してました。」
「がむしゃら、ね。ここまでピッタリな人いないんじゃない?体調崩さないか心配してたよ。」
「知ってたんです。主任が若い女の子には愛想振りまいて何とか仕事させようとしてるの。だから自分はちゃんと仕事で認めて欲しかった、です。」
自分で言って恥ずかしかったのか、グラスに残っていた中身を一気に飲み干した。店員を呼んで、もう一度同じものを注文すると、照れ臭そうに笑いかけて来た。
「なかなか肝据わってたんだ?気づかなかったな。仕事がやりやすくて助かるな、とは思ってたけど。」
注文した飲み物が届いた彼女は、一口飲んで続ける。
「そのがむしゃらでできたストレスを発散したくて、週末は別人になりたかったんです。まさか、そこで憧れの人に会うとは思ってなかったですけど。」
だいぶ首元が赤くなっているのを見て、見た目はあまり変わらないけど、結構酔ってるんじゃないかな、と思った。
「これ、嬉しかったです。」
そういって差し出されたのは自分がプレゼントした指輪で、ご丁寧に箱に入れ直されていた。ちらりと彼女の左手を見るともう絆創膏はされていなくて、跡も残っていなかった。きっと、頸にも、身体にも、もう残っていない。脳裏に他の男の腕を取って歩いていく後ろ姿が映る。
「がむしゃらを辞めたってことは、ストレスも減ったんじゃないの?」
箱を開きながら問いかける。メガネの奥の長い睫毛が揺れた。
「もう、あんなとこ、行かないでよ。」
「そう、ですね。年ももういい年ですし。止めようかな、と思ってました。」
箱から中身を取り出して、机の上に置かれていた手を強引に取って嵌める。
「俺、言ったよね?本気だって。それでも、だめ?」
その手を見てボロボロと泣き出した彼女はそれでもずっと左手に光るリングを見つめている。
「自分から告白したことないから躍起になってるとか、逃げるから追いかけたいとか、そういう次元じゃないんだよ。」
顔を上げて涙を流したまま見てくる。何で気づかなかったんだろう。メガネの奥で、化粧っ気がない綺麗な目が光っている。
「会えないのも、メッセージが返ってこないのも、会うのに他人行儀にされるのも、全部辛い。一緒にいたい。」
本格的に泣き出した顔をそっと持ち上げて、軽く口付ける。メガネが邪魔で外してからもう一度口付ける。いつかのように首に腕が回ってきて深く。半個室でよかったなと心の隅で思う。顔を離すと名残惜しそうな目が見えて苦笑する。
「メガネ、度入ってないんだね。」
「あれ、バレちゃいましたか。」
「そんな物欲しそうに見られると、さすがに、ね。」
自分の唇を押さえて冗談を言うと、また目の前の顔が赤くなる。
「ね、どっちの姿が本当なの?」
「派手なのと地味なのですか?学生時代は派手な時間の方が長かったですかね。」
「結構モテた?」
「それ主任が聞くんですね。」
「今も、いるの?その、友達。」
「え、私も友達くらいいますよ。地味だからってそこまで寂しい子だと思われてたんですか?」
「違くて。夜待ってたじゃない。友達。俺が話しかけた時。」
怒ったようにしてたのに、言葉の意図するところがわかったのか気まずそうに背けられた。
「今はいないです。」
「やっぱりあの時は居たんだ。何人くらい?」
「き、聞いてどうするんですか。主任だって結構慣れてましたけど、一夜限りとか多そうですよね?」
「俺も今はないけどね。...そんな睨まないでよ。」
くすくすと笑う姿が一目惚れした彼女そのものだった。
「職場では今の格好のままでしょ?」
「そうですね。もう慣れちゃったので、このまま。」
「ん。」
「嬉しそうですね?」
「ん?自分だけが知ってるってなんかいいじゃない。あんな肌出されてたら仕事にならないしね。」
「そうですか。」
「それはこれからは着けてくれるんでしょ?」
手を握って薬指に嵌った指輪を親指で転がしながら問いかける。
「はい。」
「だからちゃんと選んでおけばよかったのに。」
「ふふ、これ可愛くて気に入ってるんですけどね。」
「職場には、内緒、かな?」
「そうですね。落ち着くまでは。」
「何が?」
「関係が。1年経っても気持ちが変わらなかったら、もう一回聞いてください。」
「それまでに報告せざるを得ない状況になることも考え得るけどねー。」
「本当、どこまで本気かわからないです。」
嬉しそうに*を緩ませて酒を飲んだ彼女の顔を見て、今度こそ本当の彼女を垣間見た気がした。