10.さようならの時間だね

「じゃあ、そろそろ。」

5分前になって玄関まで送る。私が彼をこうやって見送ったことは初めてで、もう終わりなんだとひしひしと実感してきた。

「あの、やっぱり、最後に1つだけ、お願いしていい?」

靴を履き終わると彼はくるりと振り返った。不思議そうな顔をしていたが快く頷いてくれる。

「キス、して、いってきます、って出て行って欲しい。」

恐る恐るそちらを見ると嬉しそうに笑っていた。

「やっとお前自身の要望聞けたか。依頼成功みたいだな。安心した。」

先程言われた、淡白だな、という言葉が頭をよぎった。彼自身はきっとこの仕事に誇りを持っていて、しっかりと依頼主を幸せにしたいと思っているのだろう。誇らしそうな顔が玄関の段差で目線とほぼ同じ所にある。ゆっくり近づいてきて軽く唇が重なった。すぐ離れていった唇を思わず目で追う。寂しかった。目線を上げると彼が私の方を見ていて目が合った。少し強引に後頭部を手で抱き寄せられ、先程よりも深く口付けられた。急で目を閉じるのを忘れていた。彼の伏せた目が見える。長い睫毛が下を向いていて私も目を閉じた。長いようなあっという間のような時間が過ぎて、綺麗にリップ音を立てて彼の顔が離れていく。彼のケータイのアラームが鳴った。

「名前。」

名前を呼ばれて瞼をあげる。

「行ってくる。」

目を見てそう言った彼に、いってらっしゃい、と声を掛けるとひとつ微笑んで玄関から出て行った。バタンとドアが閉まって鍵を掛けた。リビングに戻って広くなった空間に圧倒されながら腰掛ける。ケータイのロックを外すと先程見ようとしていた写真の画面のままだった。綺麗に加工された写真をスクロールしていく。

「こんな笑ってたんだ、私。」

最後の一枚は見覚えがなかった。幸せそうに眠っている私の頭にキスする彼。目頭が熱くなる。

「こんなの、いつの間に。」

涙で声が震えた。


夜ご飯の支度をしながら、当たり前のように二人分用意しようとしていて苦笑する。もう彼の分を作る必要はないのか。さすがに寂しくなった。ポケットでケータイが鳴って手を止める。確認すると今日登録したばかりの彼からの通話だった。

「はい。」

自分でも分かるほど緊張した声だった。

「俺。今大丈夫か?」
「うん。どうしたの?」
「写真、見た?」
「見たよ。ありがとう、あれならバレないね。」
「最後まで見た?」

そう聞かれて一瞬間が空く。

「うん。なーに?あれ。いつの間に撮ったの?きづか、なかった、」

最後まで言い終わる前に涙で声が震えて慌てて電話口を話して深呼吸する。

「飯もう食った?」
「ううん、今作ろうとしてたとこ。」
「…食いに行っていい?」
「え?あ、うん、いいよ。」

ピーンポーン、とチャイムが鳴る。

「あ、ちょっと待って。誰か来たみたい。」

一言断ってモニターホンを見ると見慣れた彼の姿があった。

「いい?」

モニターホンと電話口、両方から聞こえてくる。遅れて笑いが溢れる。

「早くない?まだ作り始めてもないんだけど。」

可愛くない事を言いながらオートロックの解除ボタンを押す。彼の姿がモニターホンから消えていく。

「じゃあ食べに出てもいいから。」

会いたいと思ってくれているらしい。依頼に不備があったとかじゃないよね、と一度疑う。

「何かあった?」

解答が来る前に電話越しにエレベーターが開く音が聞こえる。

「ちょっとな。」

ピンポーン、と玄関が鳴る。鍵を開けてドアを開くとケータイを耳に当てたまま待つ姿があった。通話を終了すると彼も切って中に入ってくる。どうぞ、と声を掛けるとすっぽり覆うように抱き締められた。

「本当淡白だな。」
「え?」

体を離した彼に見つめられる。もう会えないと思っていた彼が目の前にいる。目を離せなかった。

「ただいま。」

自分が最後に頼んだ事を思い出して涙で視界が歪んだ。

「お、かえり、」

微笑んだかと思うと彼の顔が近づいてきて優しくキスされた。ゆっくりと名残惜しむように離れていく。

「何だよあれ。」
「あれって?何かした?」
「最後の。不意打ち過ぎだろ。」

そこまで言われて彼が出て行く前のキスの話だとわかる。

「あ、ごめん。なんかもう会えないと思うと、つい。」

今更恥ずかしくなって顔を俯ける。はぁと溜息をついたかと思うといつものように部屋に上がっていった。慣れたようにソファに座って隣に座るよう促される。それがなんだか嬉しくて、大人しく従い隣に座る。

「見てみろ。」

彼のケータイを渡された。遠慮がちに覗くと二人で撮った写真が映っていた。

「そっか、こっちでも撮ってたっけ?」

スワイプしていくと、だんだん私の知らない写真が出てくる。旅行先で笑ってる私、レストランでケータイを弄ってる私、キッチンに立つ後ろ姿、幸せそうに寝る寝顔。そう言えば寝てる私にキスする写真もあったな、と思い出す。

「これ、」
「なんか撮ってた。」

いつもの女慣れした余裕そうな姿は鳴りを潜め耳まで真っ赤にしている。

「最後の写真も、」

私がそう口にすると頭をガシガシと掻く。

「あの派遣サービス辞めてきた。」
「え?あ、そうなんだ。」
「あんな、ぼったくりなクソ高いサービスに金払うんなら、仲介なしで俺に払え。」
「?」
「結婚生活、続けたくないか?」

随分遠回しに言われたけど、それはまた一緒に住まないかというお誘いらしかった。

「つ、続けたい。」

安心したように笑って抱き寄せられた。

「俺と結婚してください。」
「ふふ、はい。」
「何だよ、ふふって。」
「いや、結婚式あげてからプロポーズされたから、なんか。」
「まぁ、そうだな。」
「理由とか、聞いてもいい?」
「理由ってか決め手は、最後のだな。お前俺に全然興味なさそうだったのに、帰ってきて欲しいって思ってくれてたのか、って。」
「そっか。」

抱き寄せられた腕が離れていったのが寂しい。いつだったか、隣に眠る彼に触れたくても触れられなくて涙した事を思い出す。

「私、何も知らない人と結婚式挙げて、同棲して、プロポーズされて、養うとか。友達に男運ないって心配されるの分かった気がする。」
「これから知ってけばいいだろ。」

不機嫌そうに言われて、そうかもしれないな、と素直に思った。

「あと、別に養えとは言ってない。」
「あ、そうだったんだ?」
「俺に払えっていうのは比喩というか、例えというか、」
「わかりづら。」

肩で私の肩を押してくる。私が笑って彼も笑った。いつからか意識して自制しなきゃいけないくらいには彼のこと好きになっていたのも気付いてた。変な始まり方だったけど、こんなにずっと一緒にいたいと思えるくらいに愛するようになっていたみたいだ。最初は騙してしまったけど、きっと、皆こんな幸せそうに笑いかけてくれる彼を見たら祝福してくれるんじゃないかと思った。

愛したのが彼でよかった。