心の奥に、言葉にできない感情が広がる。
好きでもない人と、結ばれることがあるのか。
人間とは、愛する者と添い遂げるために生まれてくるものではないのか。そう信じていたのに、彼女はあまりにも簡単にその考えを否定した。
――――あなた、おそろしく純粋ね
その言葉を告げた彼女は、私に対して嘲笑めいたものも含まれていた、何も知らない私にわかるはずもないだろうという、そんな表情だ。私は言葉を知らないからどういった意図で言われているのかたまにわからないことがある、それでも、表情の一つ一つでそれがきっといい意味ではないということを察して、どこか居心地悪くさせるのだ。
「政略結婚だから」「決められたことだから」
そんな理由で、愛のない相手と生涯を共にすることがあるのだと、彼女は何の迷いもなく語った。
私には、そんな器用な生き方はできない。
誰かを好きになったら、その人だけを想い続ける。ただそれだけのことが、人間にはできないのか。その生き方は許されないというような、諦めたような彼女の目が焼き付いて離れない。
そういえば、火の鳥は言っていた。
「人間になれば、信じられないような恐ろしいことも起こる」
もしかすると、これもその一つなのだろうか。
愛がなくても、一緒にいられるものなのか。
私にはわからない。虫だったから、そういうものを知らないのかもしれない。
そして、ふと考える。——若君も、いつか別の誰かと結ばれるのだろうか。
その考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥が痛んだ。あの人が、誰か別の人を見つめ、寄り添い、手を取り合う姿。笑顔を向けるのは、自分ではない誰か。
——そんな未来が、来るのだろうか。
ただ若君に会うことができたらいいとそれだけ願っていたはずなのに。いつの間にかそれ以上を求めていたのだろう。
自分ではない誰かを若君が選ぶ。私は、ただそれだけが、どうしようもなく恐ろしかった。
夕暮れの空が赤く染まり、影が長く伸びる頃、私は山本さんのもとを訪れた。背中越しに私の近づく気配を感じ取ると、手を止めてゆっくりと振り向いた。
彼女に会った時から私はずっと考えていた。結婚とは何なのだろうか。人と人が添い遂げるということが、私にはまだよくわからなかった。好きでもない人と生涯を共にすることができるのだろうか。愛がなくても、支え合うことはできるのだろうか。
答えを知るために、私は山本さんのもとを訪れた。彼は木陰で腰を下ろし、手入れされた刀を静かに研いでいたようだ。
「どうかしたのか?」
「……山本さん、結婚とは、どんなものなのでしょうか?」
問いかけると、山本は手を止め、こちらをじっと見た。その目はやさしげだが鋭く、それでいてどこか探るような色を帯びていた。
「もしかすると——、小頭とのことを知っているのか?」
心臓が跳ねる音が聞こえた気がした。私は息を詰まらせ、言葉を飲み込む。——知らないふりをするべきなのか?けれど、その考えはすぐに意味をなさなくなった。私の沈黙を見て、彼はすでに悟っていたからだ。
彼はゆっくりと刀を置き、まっすぐに私を見つめる。白状するように、顔を俯かせて苦し紛れに発言をした。
「……私ではなくてもいいのでは?」
そう言うと、山本は眉をわずかに寄せる。
「おまえでなくてはならない」
静かで、それでいて揺るぎのない口調だった。
「どうして……?」
私は、思わず問い返した。彼はしばらく黙っていたが、やがて、小さく息を吐くと、低く静かな声で言った。
「それは、小頭に聞いてみればいい」
彼の言葉の意味がわからなかった。
「……何もわかりません」
私は、心の中にある疑問をそのまま口にした。結婚とは何なのか、好きではなくても添い遂げるというのはどういうことなのか、なぜ私でなければならないのか——何一つ、理解できていなかったのだ。
「少しずつ分かっていけばいい」
山本さんはそう言いながら、私の目を見つめた。
「だから、どうか、小頭と話をすることをやめないでほしい」
それは、まるで何かを託すような言葉だった。山本さんの視線は、どこか遠くを見ているようでもあり、何かを見極めようとしているようにも思えた。
私は、何かを言おうとして、結局何も言えないまま、その言葉の意味を考えながら、沈みゆく夕陽を見つめた。
夏の風が、ぬるいまま頬を撫でる。昼間の熱が地面にこもり、夜になっても涼しさは訪れない。虫の声が遠くで鳴き、闇の奥へと消えていく。
私は一人、縁側に座って空を見上げた。月は半分ほど欠けていて、ぼんやりとした光を落としている。
人間になって、若君のことだけを考えてきた。
それが、私のすべてだったからだ。生き返ったのも、走り続けたのも、すべて若君に会うためだった。けれど、今——私は、こんなにも複雑なことを考えている。
若君以外の人に出会って、このタソガレドキでいろんなことを知ったせいだ。
火の鳥に与えられた新しい命は、ただ一途にひとりの人を想うためにあると思っていた。
でも、人間という生き物は、虫よりもずっと多くのことを考えて生きなければならないらしい。
愛だけでは生きていけないのか。
それとも、愛とはもっと違う形で存在するものなのか。
私は、考えの違いを知り、不思議な気持ちになった。人間になってから、私は前向きに生き続けてきた。
若君に会うために。そのためだけに。
初めて、行き詰まりを感じていた。
どうすればいいのかわからない。結婚というものが、何を意味するのかも、まだよくわからない。山本さんは幸せそうに奥さんの話をしているから、きっと好きなのだろう。でも私に会いにきた婚約者だったと言った彼女の目はひどく冷めきっていて、明かりのない夜のようだ。人生を大きく変えるものなんだろうか。
もしそれが決まってしまえば——若君には、もう会えないのだろうか。
そう思った瞬間、鼻の奥がつんとした。涙が出るほどの痛みではない。けれど、胸の奥が、どうしようもなく苦しくなる。これはなんだろう。
私は、自分の手をぎゅっと握りしめて隅っこでしゃがみ込む。今の自分を誰にも見てほしくなかった。
夜の空気は湿り気を帯び、静かに流れていた。遠くで虫の声が響き、どこかで揺れた木の葉が小さな音を立てる。
私は縁側の隅でしゃがみ込み、じっと膝を抱えていた。心の奥に渦巻く感情の正体がわからず、ただ静かに身を縮めていれば小さくなって隠れられる気がしたのだ。足元の地面に落ちる月明かりをぼんやりと眺めていると、ふと背後から声がした。
「……何してるんだ?」
驚いて顔をあげると、そこには尊奈門が立っていた。薄暗い中でも、彼の表情がはっきりと見えた。眉をわずかに寄せ、心配そうにこちらを見ている。
「もしかして……泣いていたのか?」
彼はそう言いながら、少し身をかがめた。私はその言葉に、目を瞬かせる。
「泣く?」
自分の声がひどく平坦に聞こえた。尊奈門は戸惑ったように、私の顔をじっと見つめる。
「……違うのか?」
ほっとしつつもまるで確認するような問いかけだった。私は自分の手のひらをじっと見つめる。涙が流れているわけではない。目元が濡れている感覚もない。ただ、胸の奥がひどく苦しい。それが「泣く」ということなのだろうか。
「……泣いたことがないから、わからない」
ぽつりと呟くと、尊奈門は少し驚いたように目を見開いた。
「どんな時に、泣くの?」
私がわからず、問いかけると、彼はしばらく黙った後、少し息を吐いた。
「悲しい時だ」
短く、はっきりとした答えだった。
——私は悲しい、のだろうか。
確かに、心の奥がぎゅっと締めつけられるように痛む。何かが手の届かない場所へ行ってしまいそうで、不安で仕方がない。これは、悲しさなのだろうか。
私は顔を上げ、尊奈門を見つめた。
「尊奈門は、私よりずっといろんなことを知っているね」
そう言うと、彼は一瞬驚いたような顔をして、それから苦笑した。
「お前が何も知らなすぎるんだ」
彼の言葉に、私はそっと目を伏せた。
——本当に、そうなのかもしれない。
私はまだ、人間のことを何も知らない。この気持ちの正体すら、理解できていなかった。夜の風がそっと頬を撫でる。月明かりがぼんやりと庭を照らし、草木の影が揺れている。尊奈門は私をじっと見つめたまま、少し目を細めた。柔らかな表情、私は彼のこの顔が好きだ。
「……あの頃から、お前は何も知らず、すぐに『どうして?』『なんで?』って尋ねてきたな」
少し呆れたような声だった。私は彼の言葉を反芻する。確かに、私はいつも何も知らず、わからないことがあればすぐに尋ねていた。気がつけば、私はいつも尊奈門に質問を投げかけていた。
「そのたびに、尊奈門は時に怒りながらも教えてくれるね」
そう言うと、彼は一瞬むっとしたような顔をする。
「……ほんとにお前は世間知らずだ、どうやって生きてこれたんだか!何でもかんでも聞いて、私はお前の先生か!」
ぶっきらぼうな声だったが、どこか照れくさそうにも聞こえた。私は彼の顔を見つめる。
尊奈門は、頼られることが嫌ではないのだろう。むしろ、どこか誇らしげにも見えた。気づけば、彼とはこうしてずっと共に過ごしてきた。——友人として。気の置けない関係として。私が人間として生きてきた中で、尊奈門と出会ったのは偶然だが、友人として関係を築くことができた。それは、とてもありがたく、嬉しいことだった。
けれど——もし私が、結婚を、昆奈門を拒んだら?この関係は、どうなってしまうのだろう。もともと彼と出会ったのは、昆奈門がきっかけだ。
彼とも、気まずくなってしまうのだろうか。
そう思うと、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みが広がる。尊奈門の横顔を見ながら、私はただ静かに、答えの出ない思考を巡らせていた。
昆奈門に確かめなくてはいけない。
夜の帳が静かに村を包んでいた。風が障子を揺らし、ろうそくの火が小さく揺れる。部屋の中は静まり返っていたが、心の内は荒波のように騒いでいた。私のもとに今日も彼はやってくる。遠くから聞こえてくる梟の声がやけに不気味なほどに響くような夜だった。闇の中からすっと現れたと思えば目の前に座る昆奈門をじっと見つめながら、私は喉の奥に溜まる言葉を押し出した。
「……私を娶りたいと頼んだというのは、本当?」
自分の声がひどく遠くに聞こえる。願わくば、嘘だと言ってほしかった。軽い噂話か、誤解か、あるいは冗談だったのだと、彼が首を振ってくれればよかった。しかし、昆奈門は私の視線を正面から受け止め、ゆっくりと頷いた。
「本当だ。殿にお願いした」
淡々とした口調だった。その一言が、私の中で音を立てて何かを崩していく。ぎゅっと手を握り、片方の手を抑え込む。
「わたし、聞いてない」
「言わなかったからね」
「っ……身元も知らない女と結婚なんて、そんなことはできません」
声が震えた。反論しなければと思った。しかし、昆奈門は迷いもなく言い切った。
「できるよ」
その強い言葉に、息を呑む。迷いのない言葉。決まっているというような彼の態度。そんなはずはない。私は誰でもない。何者でもない。ただの、かつて蝉だった女だ。それなのに、どうして彼が私を娶るなどという話が現実になるのか。
「どうして?私と契りを結ぼうとしているの……?」
ろうそくの炎が揺れている。部屋の空気は静かに沈み、夜の冷たさだけがじわりと肌に馴染んでいた。昆奈門はじっと私を見つめていた。
「……好きだから、愛しているからといえば、君は私を選んでくれるのかな」
低く囁くような声だった。次の瞬間、彼の手が私の手を強く掴んだ。思わず息を呑む。その指先には力がこもっていて、逃がさないと言わんばかりだった。彼はほんの少し身を乗り出し、迫るように問いかける。
「……」
私は何も言えない。目の前の昆奈門が、知らない男のように思えて、いつもの穏やかな笑みはなく、そこにあるのは別の何かだというような。
それは、そう、執着じみたもの。どこかで見たことがある。そうだ、あの夜、私を手放したくないと縋るように抱きしめてきた時——あの時と、同じ顔をしている。
少し怖い顔。けれど、あの時とは違う。今の彼は、もっと深く暗い何かを孕んでいるような気がした。この昆奈門は、少し怖ろしくて、私は——好きではない。心臓の鼓動が静かに高鳴る。私は、掴まれた手をそっと引こうとする。しかし、彼の指はなおも強く、私を離そうとはしなかった。
拒まなくてはいけない。頭の中で警鐘をならす。
わからないなりに、何かがいけないのだと叫んでる。
「私は……別の人が好きです。だから、結婚はできません」
やっとの思いでそう告げる。喉が渇いているかのようにからからとした。こんなにも緊張したのは初めてで、自分でもうまく言葉を発せているかわからなかった。けれど、伝えなくてはいけないと、私は必死に言葉を絞り出した。それでも昆奈門の表情は変わらなかった。むしろ、その目がさらに深く暗い影を帯びるのを感じた。
「愛がなくても、形だけでも結ばれることはできる」
そう静かに言われた瞬間、私は言葉を失った。形だけの結婚。そんなものが、本当に存在するのか。私には理解できなかった。いや、理解したくなかった。結婚とは、愛する者と結ばれるものではないのか? そうでなければ、ただの形に何の意味があるのか?
——いや、そもそも、彼はどうして私と結婚しようとしているのか?動揺している私の目が震える、昆奈門はただ静かに私を見ていた。
「……わ、私、……は………………」
何か言葉を探そうとした。しかし、次に彼が放った言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
「お前はもう、男を知っているんだよ。初物ではないお前を、若君はきっと愛してはくれないだろう」
思考が止まる。何を言われたのか、理解できなかった。けれど、なんだかとてもひどいことを言われているような気がする。昆奈門の目を見た瞬間、その言葉が私に向けられた確かなものだとわかった。胸の奥がひどく痛んだ。
どういうことなのかは知らない、それでももう若君と道が交わることはないのだと、彼はそういっているのだろう。そうはならないと彼は言っているのだ。
そんなことはない。
否定しようとした。けれど、言葉にならなかった。昆奈門の目には、確信めいた光が宿っていた。それが、ただの嫉妬や嫌がらせではなく、彼自身が本当にそう思っているのだと伝わってくる。私は、声を失ったまま、ただ彼を見つめることしかできなかった。
「わたし、わたしは………………」
「私に気に入られたばかりに、かわいそうな奴」
昆奈門はそう言いながら、憐れむように微笑んだ。その目はどこか冷たく、それでいてどこか愉しげでもあった。彼はゆっくりと身を寄せてくる。囁くような声が耳元に落ちた。
「哀れに思って情けをかけて、その男によって、お前はもう望む場所には帰れなくなったんだ」
ぞくりとするような声だ。
「羽がもがれた虫は飛べない。もうどこにもいけないよ」
うっすらと笑う彼の顔が、揺れる灯火の影にぼやける。
「そんなことない!」
思わず叫ぶように言い、彼の胸を突き飛ばそうとした。けれど、昆奈門はびくともしなかった。強く掴まれた手は、痛いほどに食い込んでいた。
「痛っ……!」
そう訴えても、彼は離そうとはしない。その指の力は、まるで私をこの場所に縫い止めようとするかのように固く、逃げる余地すら与えなかった。
「——体をつなげて、情で繋ぎ止めようとしたけれど、無垢なお前は何もわからないままだった。”形ばかりなら何度でも愛し合った”だろう?それでもお前の心は動かない。それなら、もっと単純に……腕を、足を折れば、君はどこにも行けなくなるかな」
ふっと口角が上がる。恐ろしい笑みだった。彼が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。ただ、言葉の端々に潜む何かが、背筋を冷たくしていく。唇が震えて体が震えるも、私を見る昆奈門の目は淡々としていた。
「こ、 こん な……こんなもん……昆奈門…………昆奈門……?」
目の前の人は誰?
「嘘だよ、そんなことしないよ」
彼はそう言って笑った。笑っている顔を見るといつもうれしくて、笑ってほしいと思っていたのに。人が笑う顔はこのように恐怖を感じるものだっただろうか?その笑みはひどく恐ろしく、優しく触れてくるもう片方の手が、なぜかひどく、ひどく怖かった。
「おいで」
一見優しく招き入れるような声色と表情で私を誘う男は、もののけに思える。私の知らない人になってしまった。きっと夜に見る悪い夢なのだ。朝が来ればきっと去っていく。私は咄嗟に身をひるがえして逃げようと駆けだした。扉を開いて尊奈門に助けを求めれば、きっと彼は驚きながらも助けてくれるだろう。だから必死に逃げなくてはならない。混乱したまま私は駆けだそうとするが転ぶ。彼は逃げようとする私の足を払い、あっけなくバランスを崩して私は倒れ込んだ。
勢いよく床に倒れ大きな音が鳴る。それでも誰もここに来る様子はない。どうして、と私が地面に倒れたまま疑問に思いながらも立ち上がろうとするも、足をつかまれてそのまま引きずられる。逃げようとしても足をもがれた虫のようにじたばたとすることしかできない。とても強い力で彼はそのまま私を引きずって寝所に引き戻す。
彼と眠り夜を超えるのはもう何度も行ったことだ。それでも、もしかすると今まで私が彼に求められてきたことは恐ろしいことだったのではないか。それは何かの儀式のようなものだったのではないか。
「ようやく気が付いたの」
嬉しそうに、それでいてかわいそうなものを見る目で彼は私を見下ろす。包帯の下に隠れた表情は初めて見るものだ。
「何も思われないくらいなら、お前に消えないくらいに深い傷を刻み込んでやりたい」
男はそういって恨めしそうな声で、私に告げた。
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