11

気がつけば、私は眠っていた。いつ、どのように眠りに落ちたのか覚えていない。ただ、ぷつりと記憶が途切れ、次に目を開いた時には夜が明けていた。身体は重く、喉が乾いていた。昨夜、何があったのかを思い出そうとすると、頭の奥に靄がかかったようにぼんやりとしていて、どうしてもはっきりと思い出すことができなかった。ただ、冷たい汗が背中を伝っているのを感じた。胸の奥が妙にざわつく。なぜかはわからない。

それから、昆奈門が恐ろしいものに思えてしまった。
——いや、本当にあれは昆奈門だったのだろうか。

彼は変わってしまった。私の知る昆奈門ではなくなった。いつぞやの彼の瞳は、確かに優しさを持っていたはずなのに、今の彼の瞳には暗い淀みがある。まるで深い水底に沈んだかのような光のない目。それを思い出すたび、身体の奥がひやりと冷えていく。


それでも、彼は毎晩、部屋にやってきた。



扉が開く音がしたとおもえばゆっくりとしたほとんど聞こえないくらいの足音が近づく。そのたびに、私は身体が強ばるのを感じる。目を閉じて眠ったふりをしても、彼はすぐそばに座り込み、私の顔をじっと覗き込むようにしていた。

——目を開けてはいけない。

そう思いながらも、閉じたまぶたの裏側で、私は彼の視線を確かに感じていた。私に彼の手が這う。よくわからないまま、恐ろしい夜を何度も過ごした。


昆奈門は、私の知る昆奈門ではないのかもしれない。
——もののけが、昆奈門と入れ替わってしまったのではないか。
そう考えずにはいられなかった。

あの夜、ぷつりと記憶が途切れた時、何かが起こったのではないか。彼は、もう別の何かに変わってしまったのではないか。朝になって、彼が姿を消した後も、部屋の空気にはどこか彼の気配が残っているようだった。私が知っているはずの彼の温もりとは違う、冷たく、ねばりつくような感触が。



夜が来るたび、私は息を殺した。
眠りに落ちることが怖くなった。それでも、夜は容赦なく訪れ、昆奈門は必ずやってくる。

扉が、また静かに開く音がした。








夜の静けさの中で、私はいつの間にか眠りに落ちていた。疲れているはずなのに、眠ることに安堵はなかった。ただ、夢と現実の境界が曖昧になり、思考が深く沈んでいく。身体は重く、意識は霞んでいる。

「…………すまない」

ぼんやりとした意識の中で、その声が耳に届いた。低く、静かで、ひどく弱々しい声だった。眠る私に向かって、彼は謝っている。
——どうして?

彼の言葉の意味を考える間もなく、意識は再び暗闇に沈んでいたとき再び浮上すれば、苦しげな声が聞こえた。

「……あつい……あつ……いやだ……」

夢の中で誰かが呻いているようだった。耳を澄ませると、それは隣にいる昆奈門の声だった。彼の身体は汗でぐっしょりと濡れ、額には無数の汗が浮かんでいた。

「……いやだ……燃える…………た すけ………………」

苦しげなうわごと。焼かれている——そう思った瞬間、私は悟った。彼はあの時のことを夢に見ているのだ。燃え盛る炎。焼け落ちる屋敷。体を蝕む灼熱の苦痛。


あの日、昆奈門が経験したすべてが、今も彼の中で生々しく息づいているのだろう。彼の手が、彷徨うように宙を掻くものだから、助けを求めるように、誰かを求めるように、その手が彷徨うから、だから——私は、その手を握った。

昆奈門の指が、ぎゅっと私の手を握り返す。
強く、まるで沈んでいく何かにしがみつくように。

「大丈夫だよ」

小さく囁くと、昆奈門の荒い呼吸が少しだけ落ち着いたように思えた。それでも、彼の顔にはまだ苦痛の影が色濃く残っていた。私は、彼の手を握ったまま、もう一度静かに囁いた。

「大丈夫だから」

今はただ、彼の悪夢が少しでも和らぐようにと願うしかなかった。

焼かれるのは苦しい、燃えるのは痛い、息ができず、何もできないまま灼熱を浴びて燃え続ける。手足は自分の意思とは異なる動きをしてすべてを蝕んでいく。恐ろしい体験を、きっとこの男は眠るたびに繰り返され、何度も意識が炎の中に引き戻されているのだ。


かわいそうな男だと思った。









夜の闇が、静かに村を包み込んでいた。風はほとんどなく、湿った空気が肌にまとわりつく。遠くで虫の声が響き、木々の葉が微かに揺れている。

私は、屋敷の軒下でひっそりと座りながら物思いにふけっていた。

最近の昆奈門は、どこかおかしくなっている。
——いや、もしかすると、初めから少しずつ変わっていたのかもしれない。私が他の男と話すだけで、彼の目は薄暗い影を帯びるようになった。

「お前は私だけを見ていればいいよ」

そう言わんばかりの視線。部下たちも気づいていた。彼らは心配そうに私を見つめ、時折、気遣うように声をかけてきた。
「小頭の様子が変だ」
「一人の娘に執着しすぎている」
そんな囁きが、屋敷のあちこちで聞こえるようになっていた。私は、そのたびに曖昧に笑って誤魔化したが、こんな日々が続くはずがないと思う。



別に私はこの状況は不幸だとは思わない。それはきっと小さなかわいい小鳥をかごに入れて飼うように、美しい音色で鳴く虫を箱にしまうような行為なのだろう。私は虫だから。きっとそんな一生を送ることもあるでしょう。けれど、彼がちっとも幸せそうではないことが、心配だった。





——いっそ、私が消えてしまえば、彼は元のように穏やかに笑えるのだろうか。


そんな考えが、日増しに強くなっていった。私は、長くこの村で過ごすうちに、外へ出るための抜け道を見つけていた。だから外に出ること自体はできるのだ。そして今、誰にも気づかれないよう、静かにそこを抜けた。

夜露に濡れた草を踏みしめながら、森の奥へと足を進める。やがて、川のせせらぎが聞こえてきた。水面は月の光を映し、ゆらゆらと揺れている。私は、その冷たさを想像しながら、そっと足を踏み出した。水は思ったよりも冷たく、ゆっくりと足を飲み込んでいく。

これで、すべて終わるのだろうか。そんなことを考えながら、膝まで浸かりそのまま深い場所まで泳いだ。しばらくのあと、不意に意識が遠のいていく。





気づけば、私は暗闇の中にいた。
——夢だ。目の前に、紅蓮の羽を持つ鳥が舞っていた。火の鳥だった。
あの時と同じ、燃えるような瞳で私を見下ろしている。


「生きたいと願ったのに、今度は死にたいだなんて——勝手ですこと」

くすくすと笑う声が、耳に響く。私は震える声で言った。

「お前が自分で救おうと手を伸ばしたのに、あっさりと手を放すのだもの、お前の気まぐれであの男は自分を滅ぼそうとしているのよ」

「……どうしたらいいの?」

火の鳥は、静かに羽を広げた。


「運命を受け入れるしかないわ」


その言葉に、私は途方に暮れる。
——運命とは何なのか。
私がここにいることが、誰かに望まれたものなのか、それとも間違いだったのか。
答えが見つからないまま、意識がまた遠のいていった。

冷たい水の感触が、身体を包んでいる。




——息が苦しい。




誰かが、私の腕を強く掴んだ。次の瞬間、ぐいっと強い力で引き上げられる。水が弾け、身体が川から引きずり出された。荒い息が、耳元で聞こえる。遠くにあった音が近づいてきて鮮明に聞こえてくる。

私はゆっくりと目を開けた。



「——何をしている」

低く、震える声。

目の前にいたのは、ずぶ濡れの昆奈門だった。水滴が頬を伝い、彼の目はひどく強ばっていて怒りが滲んでいる。また怒らせてしまった。謝ろうとしても私は、ただ息をするのが精一杯だった。

昆奈門の手は、なおも強く私を掴んでいた。
まるで、二度と離さないとでも言うかのように。



冷たい水が肌に貼りつく。川の流れが耳の奥で響いている。息をするたびに肺がひりつくように痛み、全身が重い。川の縁に引きずり上げられた私は、荒い息を整えながら、目の前の男を見上げた。

昆奈門はずぶ濡れだった。滴る水が彼の頬を伝い、暗闇の中でその目だけがぎらりと光っていた。


「……そんなに、私が嫌か?」

低く、押し殺したような声が降ってくる。その目には、怒りと哀しみ、そして何よりも強い執着が滲んでいた。

「嫌では——」

言いかけた言葉は、最後まで続かなかった。昆奈門が、荒々しく私の肩を掴んだ。水に濡れた手のひらが、ひどく熱を帯びているように感じる。

「お前が望んでも、私はお前を死なせない」

吐き捨てるような声だった。

「手足を切って、飼い殺しにしてでも、生かす」

脈打つような怒りが、その言葉のひとつひとつに込められていた。


「地獄の中で、私に生きろと言ったのは誰だ、お前だろう、お前が死にかけた私の手をつかんだんじゃないか。今度はそのお前が死ぬっていうのか……?」

昆奈門の声が震える。その目が歪んだのを見た瞬間、私は腕の中に引き寄せられた。強く、強く抱きしめられる。背中に回された腕は、まるで私をこの世界に繋ぎ止めようとするかのように力を込めていた。私は、彼の肩に額を押し付けたまま、小さく呟く。

「……泣いてるの?」

胸に当たる昆奈門の心臓が、大きく波打つのを感じた。

「お前が馬鹿なことをするから……」

息の詰まった声だった。彼の指先が微かに震えている。冷たい川の水が、まだ全身にまとわりついていた。けれど、それよりもずっと、彼の腕の中が熱かった。




冷え切った身体を昆奈門の腕の中に預けながら、私はぼんやりと夜の道を見つめていた。彼は一度も言葉を発することなく、ただ黙々と歩く。服の裾から滴る水が土に吸い込まれ、しっとりとした足跡を残していく。川の水の冷たさがまだ肌に残っていて、震えそうになるたびに、彼の腕の温もりが妙に際立って感じられた。

村の灯りが近づいてくる。静まり返った道を歩く昆奈門の足音だけが響く。その時、ふと前方で誰かの気配がした。

「……何があったんですか?」

ぎょっとしたような声。高坂さんだった。水にぬれた二人。目の前の異様な光景に言葉を失ったように、彼はこちらを見つめていた。

「ちょっとしたトラブルだよ陣左」
昆奈門は立ち止まることなく、そのまま歩き続ける。
高坂さんは一瞬、何か言いかけたが、結局何も言わなかった。ただ、私たちを見つめるその目の奥には、戸惑いと何か言いたげな感情が浮かんでいた。


私を抱えたまま、まるでこのままどこかへ連れて行くつもりなのではないかと思うほど、迷いのない足取りだった。
屋敷へと戻ると、彼は静かに私を下ろした。そのまま私を見下ろし、冷えた声で言った。

「今度こんなことをしたら、もう二度と外に出さないよ」

その目には怒りも、悲しみも、そして何よりも——強い執着が見えた。
私は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。きっと本気なのだ。




着替えを済ませ、部屋に戻った。まだ体の芯が冷えている気がして、布団の中に足を滑り込ませる。外では風が吹き、木々の葉を揺らしていた。扉が静かに開く音がする。

「……あまり小頭を心配させないでやってくれ」

振り向くと、そこには高坂さんが立っていて、少し疲れたような声だった。

「ひどい人に見えるかもしれないが、あの人はずっとお前を大切に思っている」

その言葉に、私は静かに目を伏せる。

「知ってる……私に、とても優しくしてくれたから、いつでもやさしかったから」

だからこそ、つらい。
そう言うと、高坂は何か言いかけて、しかし言葉を飲み込んだ。そして、ただ一度、私を見つめると、そのまま静かに部屋を去った。私は、冷えた空気の中で、そっと手を握りしめる事しかできずにいた。



どうしてだろう。胸の奥がじりじりと焼けるような感覚がする。息苦しく、喉の奥が詰まったように思えた。ずっと押し殺してきたはずの何かが、静かに沸騰するように煮えたぎっている。

苛立ち。

それが、今の自分の中に確かに存在していた。私は、どうして怒っているのだろう。どこにも行けず、なにもできず、ただ閉じ込められたまま、時間だけが過ぎていく。若君にも会えない。目を閉じれば、あの日の彼の笑顔が浮かぶ。あの笑顔を、もう一度見たいと願っただけなのに、それすら叶わないのだと考えると、胸の奥が痛くてたまらなかった。

昆奈門は、私を好きだと言う。大切に思っていると言う。

ならば、なぜ私の幸せを考えないのだろう。

なぜ私の願いを無視するのだろう。

閉じ込めて、手に入れることだけが愛なのか。私は、自分がここに囚われていることに、ようやく気がついたのかもしれない。無意識のうちに、指先に力がこもる。爪が掌に食い込みそうになるほど、拳を握りしめた。怒りを知るのは、これが初めてだった。




夜の気配が満ちる部屋の中で、私はじっと昆奈門を見つめていた。彼は静かに扉を閉め、まるでいつも通りのように近づいてくる。けれど、今の私はそれを許すことができなかった。胸の奥に渦巻くものが、じりじりと熱を帯び、今にも溢れ出しそうだ。



「昆奈門様」

そう呼びかけると、彼の足が止まる。わずかに警戒するような気配を感じたが、私は構わず続けた。

「私は、好きな人がほかにいます」

言葉にすると、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。ずっと恐れていたことだった。この言葉を口にした瞬間、彼との関係はもう元には戻らないかもしれない。それでも、伝えなければならなかった。伝えなければ、私はこのまま、彼の意のままに囚われてしまう。

昆奈門の目が、ほんのわずかに細められる。

「知っているよ」

落ち着いた声だった。驚きも、怒りもない。ただ、淡々とした響きがそこにはあった。まるで、すべてを悟っているかのように。

「知っているのに——知っているのなら、どうして私を手放してくれないの?」

私は、唇を噛みしめ声が震えた。抑えていた感情が、胸の奥から込み上げる。

「どうして、私が若君と結ばれることを祝福してくれないの!?」

喉が焼けるようだった。自分でも驚くほど、怒りが滲んだ声だった。——愛しているなら、なぜ。彼は、私の怒りをじっと受け止めるように黙っている。



「……どうしても手放せないんだ」

静かに、絞り出すような声が降る。


「お前は夏のひだまりのようだったから、」

彼の目の奥に、かすかな熱が宿る。

「眩しくて、まぶしくて——焼いてしまうほどの光だから、恐ろしくて。でも……陰で生きるしかない私が、うらやましいと、願った。照らしてほしいと身の程知らずな、光を求めてしまった」

その声には、苦しみが滲んでいた。
……それでも。私は、彼を愛せない。
どれほど求められても、どれほど執着されても、私の心は変わらない。
私が愛せるのは、私の心は若君だけのものなのだ。それだけは奪われたくない。


「それでも、あなたを愛せません」

ゆっくりと、はっきりと、そう告げた。沈黙が降る。昆奈門は微かに瞬きをして、そして、唇の端をわずかに持ち上げた。

「……そうだね」

どこか遠い声だった。

「そうだろうね」


まるで自分自身に言い聞かせるように、彼は笑った。——けれど、その目は、今にも泣きそうに見えた。どうしてうまくいかないんだろう。
しょせん、虫である私は人間のことを理解することなどできなかったのだろうか。



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