12

昆奈門と話をしたあの日から、日々はただ静かに過ぎていった。彼はもう私の部屋には来なかった。あれほど毎晩のように顔を見せていたのに、今はまるで最初から存在しなかったかのように気配すらない。

食事は運ばれ、誰もが変わらぬ態度で接してくる。けれど、どこかで私に向けられる視線は以前とは違っていた。誰も何も言わないが、沈黙のうちに何かを感じ取っているのだろう。

そんなある日、部屋の障子がそっと開き、そこに立っていたのは尊奈門だった。
彼の姿を見た瞬間、私は少し驚いたが、尊奈門は何かをこらえるような表情で、しかし真っ直ぐに私の元へやってきた。

「仲直りしてほしい」

震える声が、部屋の中に落ちる。

「……二人ともちっとも幸せそうじゃない」

彼の言葉は、まるで詰まった喉から無理やり絞り出されたようだった。

「こんなこと、望んでなかった……!」

言いながら、尊奈門はぽろぽろと涙を流した。大きな瞳が揺れ、涙が頬を伝い落ちる。しゃくりあげる声が部屋の静寂を震わせ、震える肩が幼さを際立たせていた。
私は、そんな彼をそっと抱きしめていた。まだ幼さの残る子供の肩が、私の腕の中で小さく震える。

「……入水しようとしたって聞いた」

彼の言葉に、私は息を呑んだ。そうか、彼もきっと聞いたのだろう。

「……」

「何も言わず、死のうとしてたのかっ!? そんなの、あんまりだ……!」

 尊奈門は悲しそうに私を見上げる。

「どうして……そんなことしようとしたんだ……!」

彼の目には、溢れんばかりの涙が浮かんでいて、こらえ切れず嗚咽交じりに叫ぶ。

「そんなこと、しなくたっていいだろう……!」

零れ落ちそうなほどの涙。それは、純粋な悲しみだった。優しい子だからきっと怒ってくれて心配して、悲しんでくれている。私が泣かせてしまっている。ただ、彼の頭をそっと撫でることしかできなかった。


「ごめんね、ごめん……」

「謝ってほしいんじゃないっ……私は……ただ…………」

尊奈門の肩が震えていた。

「……あの日、お前を連れて帰らなかったら、こうはならなかったのかな」

掠れた声だ。自分を責めるような、どこか苦しげな響き。私は静かに目を伏せた。
彼の言葉が、まるで自分の中に染み込んでいくようだった。私のせいで彼は責任を感じてしまっている。自分のせいだと、この優しい子供は自分を責めているのだ。


「違うよ」

そっと顔を上げさせて、尊奈門を見つめた。


「ついていくと決めたのは、私が選んだからだよ」

はっきりとした言葉を口にすると、尊奈門の瞳が揺れる。

「あなたの力になりたかった。昆奈門を、一緒に治す手伝いをしたいと思った。それは——自分で選んだことだよ」

あの日、火傷に苦しむ昆奈門を見て、何かせずにはいられなかった。私は、確かにそう思っていた。自分がここにいるのは、誰かに強制されたわけではない。

あの日、出会った尊奈門についていくと決めたのは、自分自身だった。
昆奈門を助けたかったのも、心の底からの願いだったはずだ。


——それなのに、どうしてだろう。
言葉を口にしているうちに、ふと気づいた。私は、誰かのためにではなく自分のためにしか選択をしてこなかったのではないか。あの日、若君が私を救い上げてくれたのは——

私だから、ではなかったのではないか。転がっている命に、ただ哀れみを感じたから。そこにあったものが蝉であろうと、ほかの何かであろうと、彼はきっと同じように救いの手を伸ばしていただろう。


若君の優しさは、私という存在そのものに向けられたものではなかったのではないか。

その考えが頭をよぎると、胸の奥がひどく苦しくなった。
——私は、若君にとって何でもなかった。尊奈門が泣きながら縋る手を握り返しながら、私は言いようのない思考に囚われていた。

尊奈門はまだ震えていた。私は彼を抱きしめたまま、目を伏せる。胸の奥に、今まで考えもしなかったことが、静かに、しかし確実に広がっていく。



——昆奈門は、あんなにも向き合ってくれていた。



私に助けを求め、救ってほしいと、何度も訴えていた。
それなのに、私はどうだろうか。


私は、ずっと自分のことしか考えていなかった。自分がどうすれば若君に会えるのか。どうすればこの場所を抜け出せるのか。どうすれば自分が思い描いた未来に近づけるのか、そんなことばかりを考えて、目の前で縋る昆奈門の声に、真剣に耳を傾けようとしていなかった。

あの夜、彼の手を取ったのに
私は、突き放すようなことをしてしまった。

ひどいことを、してしまった。胸の奥がひどく痛む。吐きそうだ。思い返せば、昆奈門はずっと苦しんでいた。火に焼かれ、生きながら灰になりそうになりながら、それでも生き続ける道を選んだ。彼の傷は、癒えたわけではなかったのだ。

私は、そんな彼の心の痛みに気づかないふりをしていた。私は、若君に会うために生まれてきたと思っていた。それが運命だと、そう信じていた。


でも、それなら——目の前にいる人を救わないまま、若君を救おうとするなど、おこがましいのではないか?
そんな資格が、私にあるのだろうか?若君はきっと、どんな人でも助けようとするはずだった。あの時、私を助けてくれたのも、私だからではなかったのかもしれない。ただ、そこにあった命を、救いたかっただけ。彼は、そういう人だったのだ。

それを忘れ、私は、自分のことしか考えていなかった。
自分の愚かさに、恥じた。
熱いものが、こみ上げる。ふと、頬を伝うものを感じた。

——涙。

自分が泣いていることに気づき、私は戸惑いをみせ、尊奈門が驚いた顔で私を見ている。涙を流すことなど一度もなかった。悲しいと、知らなかったから。それを教えてくれたのはきっと彼だ。

「……私、昆奈門に会わなくちゃ」

言葉が、自然と零れ落ちた。

尊奈門は、何かを言おうとしたが、すぐに口を閉じる。そして、しばらく私の目をじっと見つめた後、静かに、けれどはっきりと頷いた。









夜の冷気が肌に張りつく。村の道を歩くたび、砂利が小さく音を立てた。屋敷の明かりはほとんど消え、闇に沈んでいる。けれど、私は迷うことなくその扉の前に立った。

昆奈門の部屋。手をかける前に、ふと息を整える。心臓が高鳴っていた。これまで彼を避けていたのは私なのに、今こうして自ら訪れることに、不思議なほどの緊張を覚えていた。そっと扉を開けようとした時だった。




「……帰れ」



低く、硬い声。けれど、その瞳には警戒よりも動揺があった。私は、一歩踏み出す。

「帰らない」

きっぱりと告げると部屋の中へと入る。部屋の中には蝋燭のかすかな灯りが揺れていた。その光の向こう、昆奈門はじっと私を見つめていて、昆奈門の目がわずかに震えた。けれどすぐに顔をそらされてしまう。


「……何をしに来たの、嫌いな男のところに来てまたひどい目にあわされるとは思わなかった?早く帰りなよ、怖いんでしょう」

彼の問いに、私は目を伏せることなく言葉を紡いだ。前までの私ならその言葉に従ってすぐに引き下がっていたのかもしれない。けれど私は、十分すぎるくらいにもう受け取っているから。このまま引き下がってはいけない。



「ずっと助けてほしいと言っていたのに、私は聞こうともしなかった。わかろうともしなかった。ごめんなさい」

胸の奥が痛む。うまく言葉を話せている気がしない。私の言葉のひとつひとつに昆奈門の表情が、微かに揺らぐ。


「私は……恋を知っていたけれど、愛を知ることはなかった」


思い上がっていた。知らなくてもいいと思っていた。


「それが何なのか、正直まだよくわかっていない」

自分は何も知らなかったのだと、今になって思い知る。

「でも、私は——自暴自棄でどうでもいいとさえ思っていた。傷つくことで、あなたを傷つけようとしていた」

そうしていた方が、楽だった。愛されていることに、目を向けずに済んだから。昆奈門はじっと私を見つめていた。

「……お前は、何を言おうとしている?」

彼の声は掠れていた。私は、そっと息を吸う。

「私は、あなたを受け入れます」

昆奈門の瞳が、大きく揺れた。


「あなたを愛することを、選びます」


それが、今の私にできることだから。目の前で苦しみ、私を求めてくれた人を、私は見捨てたくない。私は、そっと手を伸ばす。昆奈門の手を握りしめる。

「——だからもう、一人で炎に焼かれないで。あの時、手を取って、生きることを選んでくれてありがとう」

昆奈門の指が、震えながらも私の手を強く握り返した。私は、もう逃げない。この手を、もう二度と離さない。昆奈門は、しばらくの間、何も言わなかった。やがて、深く息を吐き、震える手で私を引き寄せた。温かさが、胸の奥に広がる。


静寂が部屋を包む。蝋燭の炎が小さく揺れ、影が壁に滲んでいた。昆奈門は私の言葉を聞いたまま、動かない。私はそっと彼の頬に触れる。

「あなたは、本当はひどく寂しがり屋だったんだね」

囁くように言うと、昆奈門の肩が微かに揺れた。彼の目が、ふっと伏せられる。私はそのまま、彼の体を抱きしめた。抱き寄せた瞬間、彼の大きな体が震えているのがわかった。いつも強く見せていた背中は、この時ばかりはひどく頼りなげで、まるで迷子の子供のように思えた。

昆奈門は、ただ私を求めていたのだ。愛を、温もりを、存在を——もののけなど、最初からいなかった。冷たく思えた彼の影も、恐ろしいと感じた執着も、すべてが彼の一面だった。

それらすべてが、愛おしかった。

私は彼を抱きしめながら、そっと目を閉じる。昆奈門の腕が、私の背を強く抱き寄せる。鼓動が、互いの体を通して伝わる。静かな夜の中で、私たちはただ、互いの存在を確かめるように抱きしめ合い、一夜を過ごした。











それからの日々は、穏やかだった。
嵐のように荒れていた時間は過ぎ去り、昆奈門は以前よりも柔らかく微笑むようになった。私もまた、彼のそばにいることが当たり前のことのように感じ始めていた。部下たちは婚儀が近づいていることを知り、祝福の言葉を惜しまなかった。屋敷のあちこちで浮き立つような声が響き、準備に追われる者たちの活気が村に満ちていた。

「婚儀だぞ、婚儀!」

「めでたいですね!」

「みんなで盛大にお祝いしないと!」

意気込む部下たちは、何かと私たちをからかいながらも、本気で祝福してくれているのが伝わってきた。尊奈門も仲直りできたんだな!と自分のことの様に喜んでくれている。昆奈門はその様子を静かに微笑みながら見つめ、ときどき照れくさそうに「大げさだ」と呟いていた。

そんなある夜、私は部屋で彼のもとに向かった。昆奈門は机の前に座り、手元の本に目を落としていた。静かな夜気の中、蝋燭の明かりが彼の横顔を浮かび上がらせる。私はその背を覗き込みながら、そっと声をかけた。

「何を読んでいるの?」

昆奈門は顔を上げ、私を見て微かに笑う。

「和歌だよ」

そう言いながら、彼は一枚の紙をそっと手に取り、ゆっくりと読み上げた。



沢水に 蛍の影の 数ぞ添ふ 我が魂や 行きて具すらむ



夜の静寂の中に、その言葉が溶け込むように響いた。

「……どういう意味なの?」

昆奈門は少しだけ目を細め、私を見つめた。まるで何かを考えているような、穏やかで、それでいてどこか遠くを見つめるような眼差しだった。

「また今度教えてあげるよ」

そう言って、昆奈門は本を閉じた。私はもう一度彼を見上げたが、それ以上は何も言わなかった。

「今日はもう遅い。寝よう」

そう言って、彼は私をそっと抱き寄せる。肩に頬を寄せられ、温かな腕が背中を包む。私はそのまま布団に引き込まれた。柔らかな寝具に沈み込みながら、彼の手のひらがそっと私の髪を撫でる。

「……蛍を、来年も一緒に見よう」

囁くような声が、私の耳に触れた。

「約束だよ」

そう言って、彼は私を抱きしめながら、静かに目を閉じた。
外では夏の夜風が吹き、木々の葉を揺らしていた。私は彼の胸に顔を埋めながら、そっと目を閉じた。








婚儀が近づくにつれ、屋敷の空気は少しずつ華やいでいった。祝いの言葉が飛び交い、部下たちも活気に満ちていた。けれど、その賑わいの中で、私はふとした違和感を覚えることがあった。

時折、私に向けられる視線があった。ただの好奇心や祝福の眼差しとは異なる、どこか冷えたもの。まるで私の存在を計るかのような目。それが誰のものなのかははっきりとはわからなかったが、何かが私を見定めている気がしていた。

そんなある日、私は昆奈門の部下の一人だという男に呼び出された。



「少し話がある」

そう言われ、私は何の疑いもなく、その場に向かった。屋敷の奥にある、人目につきにくい離れ。いつもはあまり使われていない小さな座敷に通される。そこにはすでに茶が用意されていた。湯気が立ち上る盃が、仄暗い光の中で揺れている。

「座れ」

促されるままに膝を折ると、目の前の男はゆっくりと茶を差し出した。

「婚儀が近いそうだな」

男の声は落ち着いていたが、その奥には何か重いものを孕んでいる気がした。私は盃を手に取りながら、彼の顔をじっと見つめた。

「昆奈門様の部下なのですよね」

そう尋ねると、男は薄く笑う。

「……あの方はな、すごいお方だ」

そう言って、彼は語り始めた。昆奈門のすごさ。忍としての資質。生きる上での心構え、冷徹さ、鋭敏な感覚、何もかもを兼ね備えた人だと、彼は熱を込めて語った。


「お前のような、血を知らぬものには決して理解できない存在だろう」

茶の縁に唇を寄せたまま、その言葉に小さく息を呑む。

「……どういう意味ですか?」

問い返すと、男はゆっくりと目を細めた。

「刀というのはな、切り続ければなまくらになってしまうものだ」

盃の中の茶が、ゆらりと揺れる。

「だから研ぎ澄まさなくてはならない」

言葉の温度が、次第に冷たくなっていく。

「だが、お前がいるせいで、昆奈門様は腑抜けになった」

そこにあったのは、明確な憤りだった。


「——お前が、あの方を鈍らせたのだ」


茶の苦みが、口の中に広がる。——違う。そう言おうとして、息が詰まる。何かが、体の奥からせり上がってくるような感覚。熱いのに、冷たい。喉が焼けるように痺れ、視界がじわりと滲んだ。心臓が、不自然な速さで打ち始める。熱が、一気に広がる。指先が痺れ、喉の奥が焼けるように痛む。


視界が歪んでいた。

頭の奥で鈍い音が響く。身体は鉛のように重く、手足の感覚が遠のいていく。喉の奥が焼けるように熱く、息をするたびに、じわりとした痺れが広がっていくのがわかった。

 ——ああ、だめなんだ。

理解した瞬間、膝が崩れる。体が傾ぎ、畳に沈むように倒れ込んだ。ふと、遠くで足音が聞こえた気がした。


「……大きな音がしたがどうしたんだ?」

声が辛うじて聞こえる声。——尊奈門?薄れゆく意識の中で、彼の姿がぼやけて見えた。尊奈門は部屋に足を踏み入れた瞬間、息を呑んだようだった。












「……え?」

一瞬、尊奈門の中で時が止まる。彼の目が大きく見開かれるのがわかった。 


「おい……どうしたんだ……?」
ふらふらとゆっくりと近づいてくる足音。そして、血の気が引いた顔で私を見下ろした瞬間




「——……っこ、昆奈門様ああぁああああ!!!」




悲鳴のような叫びが響き渡った。私の肩を揺さぶる手が、震えていた。息が苦しい。喉が詰まり、まともに言葉を発することすらできない。
視界の端が闇に染まりかけたころ、激しい足音が聞こえた。どこか遠くで、慌ただしい足音が近づいてくる。襖が乱暴に開かれ、駆け込んできた昆奈門の姿が視界に飛び込んできた。彼の顔には、見たこともないほどの動揺が浮かんでいた。彼の顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。こんな顔をさせるつもりじゃなかったのに。

「……っ!」

声にならない声が喉の奥で詰まる。彼は私の元へと膝をつき、震える手で私の肩を抱き起こした。

「……死ぬな……!」

涙が滲んだ目が、必死に私を見つめている。

「お願いだから、死なないでくれ……!!」

乱れた息の合間に、懇願するような声が漏れる。

「……一緒に蛍を見るって、約束しただろう……!」

昆奈門の声が震えていた。私は、静かに目を閉じる。

——もう助からない。

悟った瞬間、胸の奥がひどく苦しくなった。また悲しませてしまった。そう思うと、悔しさが込み上げる。せめて、最後に。私は、かすかに動く指先で、彼の頬にそっと触れた。熱い涙が、私の肌に落ちる。




昆奈門の顔が滲むように揺らぐ。涙に濡れた彼の目が、ただひたすらに私を見つめていた。私を繋ぎ止めるように、掴まれた手に力がこもる。その手は熱く、けれどどこか震えていた。

私は、指先を動かそうとする。彼の顔をもっとよく見たかった。でも、まぶたが重い。何もかもが遠のいていく。喉が焼けるように痛む。息を吸うたび、肺の奥まで苦しみが広がる。けれど、それすらもすぐに感じなくなってしまうのだろう。

「……口づけてあげることも、できなくて……ごめんなさい」

かすれた声が自分のものとは思えなかったがそれでも、声を絞り出す。言わなきゃ。言わなきゃいけない。昆奈門の顔が、哀しみと絶望に歪むのがわかった。

「……そんなこと、言うな……!」

叫ぶような声が耳を打つ。私は、ふっと微笑んだ。

「私は……ただの蝉だから」

彼の頬に触れていた指が、ゆっくりと滑り落ちる。

「小さな虫でしかない……だから、悲しまなくていいの、死ぬなんて特別な事じゃないのよ」

喉が詰まりそうになった。もう、涙を流す力も残っていなかった。

「……きっとまた……どこかで……会うことができる」

自分に言い聞かせるように、懸命に言葉を紡ぐ。

「その時の私は、私ではないかもしれない……けれど」




それでも——

「きっと、また会えるはずだから」

もう、彼の顔がよく見えない。

「だから……あなたは、生きてね」

昆奈門の肩が大きく震えるのを感じながら、私はゆっくりと、最後の息を吐いた。世界が、闇に溶ける。
私は幸せでありました。何度も死を体験して、蘇った私は、何かが失われていくのがわかる。きっとまた生まれ変わる。けれどおそらく、この死は特別なものだ。


ああ、最後に来てくれてよかった。

わたしはなんて、こうふくものでしょうか。
















夜の静寂が、悲痛な慟哭を貫いた。

昆奈門は女の亡骸を抱きしめたまま、声をあげて泣いていた。その声は、胸を裂くような叫びだった。あまりにも痛ましく、あまりにも絶望に満ちていた。腕の中の女がもう息をしていないことを、彼は何よりも理解していた。それでも、繋ぎ止めようとするように強く抱きしめ、縋るように何度も女の名を呼んだ。

その時——赤い光がゆらめいた。燃えるような羽ばたきとともに、火の鳥が現れる。美しく、恐ろしいほどの存在感をまといながら、静かに宙に舞い上がる。


「この虫は死にました」

どこか淡々とした声だった。

「そうしてお前のもとから去っていくのです」

昆奈門の腕の中で、すでに冷たくなり始めた身体を見下ろしながら、火の鳥は続ける。

「この子は新しい命になるの」

炎のように揺れる羽が、夜の闇を照らす。どこか愉しげに、どこか優しく。

「何度も死んでは生まれ変わるのよ。今回の命は、お前を生かすために生まれてきたのよ」

その言葉が、昆奈門の肩を震わせた。

「命は儚く、それでいて生まれては散っていくもの、生きているのだから死ぬのもまた道理」

火の鳥の瞳が、何かを見透かすように細められる。

「彼女の命がここで終わるのは、運命だったのです」



 ——運命。
昆奈門の表情が凍りつく。それは怒り。




「…………運命だと?」



ゆっくりと顔を上げる。その目には、怒りが滲んでいた。


「ならば——どうして、奪うくらいなら自分に与えた……!」

喉が震えるほどの低い声で、憤りと絶望が入り混じった声で叫ぶ。

「彼女が生きていられないなら、なぜ——なぜ、最初から私の前に現れたんだ……!」

理不尽への怒りが、昆奈門の全身を震わせる。
火の鳥はただ静かに見つめ、やがて、……そうして嫌になるほど、美しく羽ばたいた

朱の翼が広がる。光をまとうように、その姿は一層眩く輝いた。

昆奈門は息を呑んだ。それは、あまりにも美しく、あまりにも残酷な光景だった。次の瞬間、火の鳥はくすくすと笑いながら、遠くへと消えていった。残されたのは、静寂と、冷たい夜風だけだった。昆奈門はしばらく動かなかった。ただ、腕の中の亡骸を見つめる。やがて、ぽつりと呟いた。

「……また生まれ変わるというのなら」

空を仰ぎ、月のない夜を見つめる。

「何度だって、見つけてあげるよ」


私は、探すのが得意なんだ。その声は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。
昆奈門の瞳から、光が消えていた。夜の空から月が奪い去られたように。


それでも、彼は懐かしい光を求め続ける。
どこまでも。何度でも。

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