13

光が、まぶしかった。


ぼんやりとした意識の中で、私は静かに目を開けた。視界に映るのは揺れる木々の緑と、柔らかく差し込む朝の光だった。肌に触れる空気はひんやりとしていて、周囲には鳥のさえずりが響いている。ゆっくりと身体を起こすと、全身が重く、頭の奥がじんじんと鈍く痛んだ。

ここはどこだろう?

ぼんやりとしたまま、私は立ち上がる。足元は不安定で、ふらつきながらもなんとか前へ進む。目の前に広がるのは木々の続く山道だった。どうやら私は山の中で目を覚ましたらしい。けれど、どうしてここにいるのか、どうやってここまで来たのか、その記憶はなかった。ただ、ひどく長い夢を見ていた気がする。

思考がはっきりしないまま、私はふらふらと歩き出した。
しばらく歩くと、遠くに町のようなものが見えてくる。瓦屋根の建物が並び、人々が忙しなく行き交っている。どうやらそれなりに栄えた街のようだった。空気には炭の匂いや食べ物の香りが混ざり合い、商人の声が賑やかに響いている。私は町の入口にたどり着くと、周囲の人々に声をかけ、ここがどこなのかを尋ねた。場所がわからず、タソガレドキはどこにあるかを尋ねれば驚かれる。

「お姉さんそっちの方にいくの?タソガレドキからは結構な距離は離れているぞ」

そう答えられて、私は少し考え込む。どうやら遠い場所で目を覚ましたらしかった。以前蘇ったときは若君の家だったが今回はどうしてこのような場所で目を覚ましたのだろうか?

目を覚ます前に、鳥が羽ばたく光景を見た気がする。

————昆奈門に会いに行ったほうがいいだろうか。心配をかけてしまった。傷ついたような顔をしていたので安心させてあげたい。それとも、まず若君の居所を探すべきだろうか。迷いながらも、私は町の中へと歩みを進めた。

しかし、すぐに違和感に気がつく。

すれ違う人々が、私の姿をちらりと見ては、すぐに視線を逸らす。明らかに、避けられている。私はふと自分の身体を見下ろしてみれば衣が泥にまみれていることに気が付く。袖や裾には葉や土がこびりついていて、髪は乱れ、顔もきっとひどい有様だろう。まるで野垂れ死に寸前の者が歩いているように見えてもおかしくなかった。それに気づいた途端、自分を取り巻く空気が妙に冷たく感じられた。人々は遠巻きに私を見るが、決して近寄ろうとはしない。ひそひそと囁く声が耳に入る。

「……旅の者か……?」
「……あんなに汚れて……何かあったのか……」
「関わらないほうがいいかもしれないな」

煙たがるような視線を向けられながら、私は足を止める。このままでは、情報を得るのも難しそうだ。私はそっと息を吐き、どうしたものかと考え込んだ。町の喧騒の中を歩きながら、私は周囲を見渡していた。どこかで若君の居所を知る者がいないか、誰かに話を聞けないかと考えながら足を進める。しかし、通りすがる人々の視線は相変わらず冷たく、私は孤独の中に立ち尽くしていた。世間をほとんど知らない私は、格好以外も浮いているのだろう。

その時——ふと視界の端に、見覚えのある後ろ姿が映った。心臓が大きく跳ねる。
時間が止まったような気がした。歩いているその姿を見て、時間が急にゆっくりになったように流れていく。大きく伸びた身長と大人びた表情だったが、若君の父にとてもよく似たあの顔は間違えようがない。


あれは————若君?



その端正な横顔、品のある佇まい、どこか儚げな雰囲気——間違いない。私がずっと探し求めた人。私の命が生まれ変わるほどに追い求めた人。思わず足が動いた。

「っ若君————!」

声をかけようとした、その瞬間——強い力で腕を引かれた。驚く間もなく、私は背後から何者かに掴まれ、そのまま物陰へと引きずり込まれる。通りの喧騒が遠のく。狭い路地裏に押し込まれると、荒い息が耳元で響いた。

「殺されたくねえなら騒ぐなよ」

低く、冷たい声。目の前には、薄汚れた着物を纏った男が立っていた。獣のような鋭い目をしている。私は息を呑む。男の手が、私の顎を乱暴に掴んで品定めするように見ていた。

「……なるほどな。悪くない」

にやりと笑うその顔が、背筋を冷たくさせる。
逃げようとしてあっけなく捕まった。自分の置かれた状況を理解するのに時間はかからなかった。男の背後には、数人の影が見えた。みな薄汚れた装いをしており、鋭い目つきで私を品定めするように見ている。

「大人しくしていれば、痛い目には遭わねぇよ」

そう言って、男は乱暴に私の腕を引けば引きずられていく。私は抗おうとしたが、力の差は歴然だった。人々が行き交う町の喧騒はすぐ近くにあるのに誰も気づかない。誰も助けてはくれない。喉の奥がひどく乾いていた。私はただ、闇の中へと引きずり込まれていった。



荒々しく腕を引かれながら、私は逃げ道を探していた。けれど、細い路地裏には助けを求められるような人影はなく、背後にはすでに複数の男たちが立ち塞がっている。足を止めた瞬間、目の前の男が薄く笑った。

「……お前、結構気が強い顔してるな」

指で私の顎を乱暴に持ち上げる。その瞬間、不吉な予感が全身を駆け巡った。

「でも、面倒なことになるのはごめんだ」

言葉の意味を理解する間もなく、強烈な衝撃が喉元に走る。

「——————————……〜〜〜っ!」

声にならない悲鳴が口から漏れた。喉の奥が押し潰されるような痛み。息が詰まり、目の前が一瞬暗くなる。全身が痙攣し、膝から崩れ落ちそうになった。喉を押さえようとする腕すら、力が入らなかった。遠ざかる意識の中で、男たちの笑い声が聞こえる。

「声を上げられたらたまらねぇ、さくっとやりゃ、厄介なことにならねぇ」

誰かがそう言った。意識が、闇に沈む。




————次に目を覚ました時、私は冷たい床の上に転がっていた。喉が焼けるように痛い。息をするたび、鋭い刃で切り裂かれるような感覚がする。
声を出そうとした。しかし——何も出なかった。

「……?」

口を開いても、ひどく乾いた息が漏れるだけだった。何度か喉を震わせようとするが、それでも音は生まれない。
私は、声を奪われたのだ。困ったなあ、と思う。喉を潰されてしまっては若君に声をかけることができない。どうしたものか。ううんと迷いながら考えていた時影が差してくる。ふと視線を上げると、目の前には先ほどの男がいた。男は愉快そうに笑っていた。

「どうだ? すっかり大人しくなったか」

喉を押さえる私を見て、さらに笑みを深める。

「俺が恐ろしいなら、逆らわないことだな」

盗賊の頭を名乗る男は嘲るように言い、ひどく満足そうに笑った。私は声を奪われ、沈黙の中に閉じ込められた。昔から、虫は人間に弄ばれる生き物だ。





「こいつは、何もわかってない女みたいだな」

盗賊の男のひとりが、私を見下ろして笑う。

「おめでたいやつだ」

そう言って、周囲の男たちも愉快そうに酒をあおる。荒々しく杯を打ち鳴らしながら、彼らは今夜も大声で笑い合っていた。彼らは人を売るのだと言った。人間はなんにでも価値を付けてお金というもので価値を測り合う。この大きさが大きければ大きいほど価値があると決めているらしい。私も、その中の一つに過ぎないのだろう。虫一匹がどれほどの価値をもたらすのだろうか。少し疑問に思った。

私は売られるということがどういう事かは知らず、何もわかっていないので、それが怖ろしい目にあうことだとは結びつかず、何も知らなかった。


男たちは夜ごとに宴を開き、悪事の成果を語り合う。彼らは獲物を狩る狩人のように、自分たちの犯した罪を誇らしげに語るのだった。

――――今度の村は楽だったな。怯えて隠れた女を引きずり出すのが一番面白かった

――――あの商人、いいものを隠し持ってやがったよ。最期には全部吐かせたがな

――――まあ、金と物が手に入れば、それでいい


彼らは奪うことを楽しんでいた。奪った金品を品定めしながら、誰がどれを取るかでもめることさえ楽しそうだった。なぜ、こんなにも楽しそうなのだろう?本来なら恐ろしいことであるはずなのに、彼らにとっては笑いの種でしかない。奪われた家にいた人々は、今どうしているのだろう。失ったものを前に、涙を流しているのではないか。もしかすると、大切な人を失って悲しみに暮れているかもしれない。

暴力は悲しい。若君はそうやって奪われていろんなものをいきなり全部無くしてしまったから。


そう考えると、胸の奥が痛くなった。私はじっと男たちを見つめているとそれに気づいたのか、一人の男が眉をひそめる。

「……何を見てやがる」

不機嫌そうな声音だった。私は何も言えない。ただ、問いかけるように首をかしげる。それが、何か気に障ったのか。男は舌打ちをし、酒を飲み干してから乱暴に笑った。

「何も知らねえって、ある意味幸せなことかもな」

そう言いながら、彼らはまた楽しげに飲み始めた。——わからない。なぜ、こんなにも人の苦しみを笑えるのか。なぜ、罪を犯したことを誇るのか。私が目を伏せて悲しげな表情をすれば、それを見た男たちはさらに笑った。

「こいつ、泣くのか? いい女ぶってるつもりか?」

「いや、何も知らねえくせに、ただ悲しんでるだけだろうよ。おめでたいこった」

「面白ぇな、こいつ」

それからというもの、彼らは毎晩のように、自分たちが犯した罪を語るようになった。楽しげに、誇らしげに、まるで武勇伝を語るかのように。そのたびに、私は目を伏せ、悲しみに染まる。そして、それを見た彼らは、ますます愉快そうに笑うのだった。


男たちの笑い声が響く中、頭の男がふと私の方へ視線を向けた。その目には何の感情もない。ただ、品定めするようにじっくりと眺め、やがて低く笑った。

「……気が変わった」

そう呟くと、仲間たちは怪訝そうに男を見た。

「売るのをやめる」

唐突な言葉に、誰かが「なんでだ?」と問いかける。頭の男は片手に持っていた杯を乱暴に置き、にやりと笑った。

「こいつは、小間使いにする」

場の空気が一瞬変わる。

「売るより、使い潰したほうが面白い」

無邪気な声だった。まるで新しい遊びを思いついた子供のように、楽しげな響きを含んでいた。

「どうせ声も出せねえ。うるさいことも言わないしな」

仲間たちは顔を見合わせ、しばらく沈黙が続く。やがて誰かが「なるほどな」と笑い、別の男も「確かに、それも悪くねえ」と肩をすくめた。

「働かせるだけ働かせるんだ」

男はそう言いながら、私を指さした。

「ひどい目に遭うたび、悲しい目をする。それが愉快でたまらねえ」

彼の言葉に、周囲の男たちはまた笑い出した。どうやら彼らにとって、私が苦しむ姿は酒の肴になるらしい。
よくわからない。どうしてそんなことが楽しいのだろう。もっと楽しいことが世の中にはあるのに。

例えば、美しい和歌を詠んだり、蛍を追いかけたり、誰かと手をつないで歩いたり。私は知っている。楽しい遊びをたくさん知っている。遊ぶ以外も知っている。人と手をつなぐとあったかいこととか、洗濯物がきれいになると嬉しいこととか、料理を作るのは大変だけど、作ったものを食べてもらえると嬉しいこととか。

もし、私が声を出せるならば、それらを教えてあげられたのに。男たちはたぶん、そういう幸福を知らないのだ。——残念だ。私はただ、黙って男たちの笑い声を聞いていた。



盗賊たちは最初、もっと多くいたはずだった。酒を飲み、笑いながら悪事を語る声は、夜ごとに賑やかだった。けれど、気がつけばその数は減っていた。ある者は夜の襲撃で返り討ちに遭い、ある者は別の盗賊団に命を奪われ、またある者はただの食い違いから仲間に殺された。彼らにとって、人の死は驚くようなことではなかった。誰かが死ねば、それだけ食い扶持が減る。悲しむ素振りも見せずに彼らは日々を送った。弔いもされぬまま、まるで最初からいなかったかのように、消えていったのだ。

それでも、私は人の死を悲しいことだと思った。

彼らが生きていたことを誰も覚えていないのだろうか。看取ってほしい誰かは、いたのではないか。家族も、友人も、恋人も、もしかしたら遠くで彼らの帰りを待っていたかもしれないのに——だから、私はせめて、土を掘り、小さな墓を作った。名もない、簡素な墓。せめてここに、あなたがいたことを残したかった。

けれど、それはすぐに壊されてしまう。頭の男が足を振り上げ、躊躇もなく墓標を蹴り飛ばした。乾いた音を立てて、崩れた土の塊が地面に散らばる。私は驚いて彼を見上げた。


「そんなもん作ったって無駄なんだよ。死んだら全部終わりさ。誰が祀ろうが、誰が思おうが、それで生き返るわけじゃねぇ」

「……」

「死んだ後に極楽になんか行けると思うか?そんなのは今の日常が満たされず、自分がいつか救われると現実を見てねえで、夢ばかり追いかけてる負け犬の作った妄想だ」

軽く唾を吐くように言い捨て嘲るように目を細める。

「神様なんて、いねぇんだよ」

まるで何かを噛み潰すように言い放つ様子を見て、私はその目をじっと見つめた。男の目には、何の迷いもなかった。まるでそれが、世界の真理であるかのように、疑いもせずに信じていた。

「神も仏も、俺を救ってはくれなかった」

低く、淡々とした声だった。

「だから、そんなもの信じるだけ無駄なんだよ」

風が吹き、崩れた墓の上の土をさらっていく。この墓も数百年もたてば墓の痕跡も残らずにただの土になるに違いない。それでもきっとこれは必要なことなのだと思う。神を信じない男が見せた一面に対して私は何も言えなかった。ただ、散らばった土を見つめていた。









「人も動物も虫もみな、最後には消えてなくなってしまうのですよ。この宇宙の中では生きているものが死ぬなんて珍しいことではないの」

ある時見た火の鳥は私にそう言った。
それでも人は死を恐れる。怖いと言って助けを求める。永遠を求める。





男の言葉が耳に残る。
神などいない。何も信じていないと言った。この世界にいると言われる神はまやかしであると。けれど、私は救われた。

若君が手を伸ばしてくれた。地に落ち泥にまみれ、命尽きるはずだった私を、ただ哀れみの心で拾い上げてくれた。もしも救いを与えてくれる者が神だというのなら、若君は私にとっての神なのだろうか。

それに——私は火の鳥に導かれた。あの炎の翼を持つ存在は、確かに私を見つめ、問い、そして命を与えた。男が言うように、本当に神がいないのなら、私はどうしてこうして生きているのだろうか。あの時救い上げられなければ、私はどうしてここにいることができただろうか。


————きっと、まだ出会えていないだけではないのか。

神を信じないというこの男を救おうとする者が、どこかにいるのではないか。何も信じず、何にも期待せず、ただ生きるだけの男は、あまりにも寂しい人に見えた。それが、少し残念だった。もし彼が、誰かの優しさを知ることができたら。もし彼が、誰かに救われる日が来たなら——、きっともう誰から何かを奪わなくてもいいに違いない。

そんなことを考えながら、私は男を見た。その視線に気づいたのか、男の表情が僅かに歪む。

「……なんだ」

居心地が悪そうに眉をひそめ、苛立たしげに視線をそらす。

「そんな目で見るな」

次の瞬間、頬に衝撃が走った。鋭い痛みが広がる。頭が揺れる。何が起きたのか理解するよりも早く、身体がわずかに傾いた。殴られたのだ。

「お前の憐れむような目が気に入らねえ……みんなそうだ、俺のことを馬鹿にしやがる!俺は必死に生きているだけだ、何も与えられないから奪っただけだ!それが間違ってるとぬかしやがる……っ!」

男は拳を握ったまま、まだ苛立った目をしていた。私は唇を噛んだまま、ゆっくりと目を閉じる。——きっと、この男は人を恐れているのだ。だからこそ、殴るのだろう。自分が傷つく前に、相手を傷つけることで、先に恐怖を抱かせることで、傷つかずに済むと信じているのではないか。

そう思うと、殴られた痛みよりも、ただ胸の奥がひどく冷たくなる。
世界にはこんな悲しい人がもっといるのかもしれない。人間とは、とても悲しい生き物なのかもしれない。





盗賊の数は減り続け、ついに頭の男を残して誰もいなくなった。仲間が消えても、彼は何も変わらなかった。変わらずに奪い、生きることをやめようとはしなかった。むしろ、たった一人になったことで、より執着するように見えた。奪わなければ生きられない。奪うことがすべて。それしか知らないまま、彼は生きていた。

縄につながれたまま、私はどこにも行けず。男とともに歩くしかない。そんなある日、私は彼とともに山を歩いていた。天候は穏やかだったはずだった。けれど、突如として風が荒れ狂い、雲が黒く渦を巻いた。冷たい風が頬を切りつけ、木々が激しく揺れる。遠くで雷鳴が轟き、空が閃光で裂ける。

目の前で雷が落ちた。

眩い光が一瞬世界を染め、轟音とともに大地を揺らした。雷の衝撃で崖の岩が崩れ、大きな岩がごろごろと転がり落ちる。私は思わず後ずさった。だから私は紙一重でよけることができたが目の前で、男が岩の下敷きになってしまう

荒れ狂う風の中、私は息を呑んだ。
男のは大丈夫かと岩の下を覗き込んでまた、驚かされることとなる。彼は笑っていた。己の運命を受け入れたような、恐れもせず、ただ静かな笑みだ。

「……因果応報ってやつだな」

かすれた声が風に乗る。 痛みすら受け入れるように、淡々とした声だった。

「俺は生まれてからずっと、どうしようもねえ悪人だった。だから、死ぬのさ」

目を細め、雷鳴の響く空を仰ぐ。男はもう駄目だと受け入れる。私はそれを知っている。死を感じた時、受け入れる覚悟ができてそうして最後の時を待つのだ。男は苦しげに呻きながらそれでも、ともがく。

「それでも……そういう生き方しか選べなかったんだから、しょうがねえだろ。人を殺せば、いつか自分も死ぬことになるってわかってたさ、それでも、俺はそうでもしなきゃ生きることもできなかった」

彼は笑ったまま、血の滲む口元で呟く。

「ろくでもねえ人生だった」

男は涙を流しながら、どうしようもない自分の人生を呪っているらしかった。私は、その場に立ち尽くしている。このまま、彼はここで死ぬのだろうか。何も知らぬまま彼は死ぬのだろうか。世界を憎んだまま。亡くなるのだろうか。

手をつなぐぬくもりを、口づけを、何も知らぬまま男は死んでいくのか。

男はこれが因果だと言った。たとえそうだとしても、私は目の前の命を見捨てることはできない。私は駆け寄り、必死に岩を押した。指先に力が入る。爪が割れそうになるほど、必死に地を掻く。

「……助けるつもりか?」

男はその様子を見て驚いたような声で尋ねる。まるで、そんな選択があるとは思いもしなかったかのように。

「何をしてやがる……俺は助けられるような人間じゃねえ」

それでも、私は岩を押し彼の腕を引く。

「やめろ……もういいだろ、もういいんだこんな命終わったって」

低い声で言われても、手を止めるつもりはなかった。私一人じゃ助けることができない。こんな腕じゃ、こんな体じゃ、どうしようもない。

どうにか山道を駆け下りた。そして、やっとの思いで見つけた寺の門を叩く。荒れた呼吸の中で、扉の向こうに人の気配を感じて、叫ぶ代わりに何度も強い力で門をたたいて訴える。
どうか彼を助けてやってほしいと、声が出せない私は、震える手で必死に扉を叩き続けた。

その先に、救いがあると信じて。


寺の門を叩き続けていると、扉が開かれる。そこに立っていたのは、年老いた僧侶だった。灯りを手にした彼は、息を切らしている私を一瞥すると、すぐに目を細め険しい表情に変わる。

「……お前は、随分と傷を負っているな」

私は何も言えない。ただ、身を震わせながら頭を下げ、後ろを振り返る。僧侶は私の視線を追い、私が来て欲しいと手を引いて促せばついてきてくれた。先ほどの場所に戻ると倒れこんでいる男の姿が見える。岩の下敷きになり、血を流しながら意識を失いかけている盗賊。僧侶はしばらく何かを考えるようにその姿を見つめ、やがて低く静かな声で言った。

「この者は、お前を虐げたのではないか」

その言葉に、私は僧侶を見上げる。なぜそのようなことを聞くのだろう。

「お前は、この者に従わされ、苦しめられてきたのではないか。ならば、今こそ立場が逆になった。お前は、この男を虐げることもできる」

彼の目が、試すように細められる。静かに、けれどはっきりとそう告げられた。

「それでも助けたいというのか?」

僧侶の問いかけに、私はゆっくりと頷く。
どんなことがあったとしても、人を見捨てていい理由にはならない。人は苦しみ、過ちを犯し、時に他者を傷つけながら生きるものかもしれない。けれど、それを理由に命を見捨てることは——きっと間違っている。言葉にはできなくても、私の思いは伝わったのだろう。僧侶は静かに目を閉じ、深くうなずいた。

「……そうか」

そう言うと、奥へ向かって手を振った。しばらくすると、寺の奥から数人の僧侶が現れる。

「この男を運ぶぞ」

位の高そうな僧侶がそう命じると、彼らは手際よく男を抱え上げ、岩の下から慎重に引き抜いた。男の顔は血に濡れ、唇は青ざめている。このままでは危ないだろう。私は、彼の荒い息遣いを聞きながら、ただじっとその姿を見つめて助けを求めるしかできない。男は助かるのだろうか。救いの手は、彼に届くのだろうか。その答えを知らぬまま、私はただ、僧侶たちの後ろを追った。





私は寺にしばらく世話になることになった。盗賊に捕まったが、運命のいたずらか、怪我した盗賊が寺の僧侶に助けられることになったからだ。私もその流れでここに落ち着くことになった。寺の中は静かで、夜も静けさが心地よい。男は少しずつ回復しているらしい。足が使えなくなったと聞き残念に思えたが、生きる意志をなくしていないようだ。僧侶はその様子を見て、にっこり笑って「大丈夫だろう」と言っていた。

私には、声を出すことができなかったから、文字を使って自分の思いを伝えるしかなかったため紙にたどたどしい字を書いて会話を行い意思を伝える。僧侶は、私の字を見て教えがいがありそうだと苦笑しながら字の書き方を一から教えてくれた。教えがしっかりしていて、すぐに覚えることができた。私は文字に詳しくはないため苦労を掛けてしまうだろう。尊奈門や昆奈門が少しだけ教えてくれたくらいだから、難しい言葉には手をつけられなかった。それでも、懸命に学ぼうとしている私の姿に、僧侶は嬉しそうな顔をして、ある子供を思い出すと言った。
どんな子供なのかと尋ねれば、それは若君の名前だった。会話の中で、若君の名前が出たとき、私は驚いた。あの方はやっぱり生きていたんだ!きっとあの町で見た彼がそうに違いないと心の中で歓喜が湧き上がる。私が人間の姿に変わったのは、あの人を探し続けたからだ。会えるのだろうか、と胸が高鳴る。



私は若君を探すと言って、寺を発つことに決めた。僧侶はその意志を汲み取るように、少し寂しげな笑みを浮かべながら「もう行ってしまうのか」と言う。私は深く頭を下げ、感謝の気持ちを伝えた。たいへん良くしてもらった。ここで教えてもらった知識はとても大切なものだったと思う。

「お世話になりました。またきっと会いに来ます」
私の言葉に僧侶は頷きながらも「気をつけて行けよ」と心配そうに言った。その表情には、私がこれからの旅路に対して持つであろう不安や孤独を少しでも和らげてほしいという、温かい思いが込められているように思えた。

「あの若君を知っている人がいたのか、そうか、身を案じて幸せを願ってくれる誰かが彼にはまだ残っていたのだな。私だけではなく、彼のことを心配している者がいるのだと知って胸が少し楽になった。ありがとう」

感謝の言葉を伝えられ、私もありがとうございますとお礼を告げる。若君がどうしているのか、どこにいるのかまだ何もわからない。それでも私はあの人を再び見つけるために動かなければならない。



寺を出る前に、私は盗賊の男の元に向かった。男は少し驚いた顔をしながら、私に語りかけてきた。

「お前に助けられた。きっと神が俺にまだ死ぬなと、慈悲をかけてお前と出会わせてくれたんだろう」

彼はしばらく黙った後、ゆっくりと続けた。
「今までのことを償うためにできることを、初めて行おうかと思う。手始めに、山伏にでもなるよ」

その言葉には、男なりの決意が感じられた。今までの過ちを背負いながらも、新たな一歩を踏み出そうとする姿に、私は少しだけ心を打たれて同時に安堵を覚える。彼の目には光が宿っていて、生きる希望をきっと奪う以外の形で見つけることができたのだろう。


手を振って別れる。きっと若君を見つけて見せると誓いながら私はそうして旅立った。

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