納屋の中は薄暗く、雨音が屋根を打つ音だけが響いていた。ここなら大丈夫だろうか、そう思いながら中に入った時、息をつく間もなく突然背後から力強く転がされた。体が地面に激しくぶつかり、首元に冷たい感触を感じた。振り返ると、苦無が突きつけられているのが見えた。相手の顔に驚きが浮かんでいるのがわかる。
「女……?」
驚きの声が上がり相手の声には驚きが隠せずにいるのがわかる。
「…………追っ手かと思った、紛らわしい」
相手は少し震える声でそう言った。どうやら、彼は何かから逃げているのだろう。目の前の男は怪我をしているようで、血がにじみ出ていた。傷口から血が滴り落ち、痛みに耐えている様子が見て取れる。血の匂いがするためそれなりの出血量なのかもしれない。暗がりの中で顔はよく見えないが手探りで触れようとすると避けられる。
「っ! なんのつもりだ……!」
私は自分の服を切り、包帯代わりに使おうとしたが、男は不安そうな声で止めようとする。男の手をとると手のひらに字を書く。声が出せないので字を書くことでしか意思を伝えられない。
「ち りょ う す る ……もしかしてお前、声が出せないのか?」
私の様子に察しがついた男が尋ねるので、私は頷いた。
「…………気持ちはありがたいが、自分に関わるべきではない」
男は目を逸らし立ち上がろうとする。しかし私はそれを引き止めた。怪我をしているのであればしっかりと治療しなくては後が怖い。男はおそらく無理をしているのだろう。体に力が入っていない。ぐいぐいと引っ張って座らせた後もう一度男の手のひらに字を書く。
―――—少しだけでも、ここで休んでいってはどうですか?
男はしばらく黙っていたが、やがてしぶしぶ頷いたかとおもうと納屋の隅に座り込んだ。
「服まで破って、助けようとしてくれたのか……恩を受けたのに、何もせずに去るのは寝覚めが悪い、か……ありがとう」
その言葉に、私は少しだけ安心したような気持ちになった。男が納屋で少し過ごすことに決めたのだ。男は傷を押さえながら、しばらく黙って私を見つめていた。その目には、警戒心と共に何か温かいものが少しだけ見えたような気がした。
男は横にはならず、座ったままで眠ろうとしていた。その様子を見て私はふと思う。横にならないのだろうか。手に文字を書いて尋ねてみる。すると、彼はそれでいいと言って、座ったまま目を閉じようとした。おそらく警戒していていつでも動けるようにしているのだろう。すぐに目を覚ませるように、というような心構えでいるのだ。昆奈門のような忍びたちは、そんな風に寝ることもあると聞いたことがある。
それにしても、彼は怪我がひどいのか、辛そうだった。時折、顔をしかめながらも、そのままじっとしている。突然、ぐらりと倒れて、眠るというよりも気を失ったかのように見えた。あまりにもひどい出血のせいだろうか。寒さで震えているようにも見え、私は心配になった。
思わず彼を抱きしめたが、その体は冷たく、傷が深いせいか目を覚ますことはなかった。ただ、私の腕の中で静かに横たわっている。そのまま、私は少しだけ目を閉じ、彼と一緒に眠りについた。少しでも安心して眠れるように、私も彼の温もりに寄り添っていた。
「う、 おわああぁああっ…………っ!」
突然、驚きの声が響き、私は目を覚ました。
「なぜ抱きしめてるんだ!?」
どうやら起きたらしい彼は抱きしめられていることに気が付いて驚いたのかすぐに距離をとって後ろに飛ぶ。彼の声は怒鳴るように高くなり、私を問い詰めるように聞いてきた。私は慌てて手に文字を書いて答える。
「寒そうだったから……」と。
すると彼は、目を見開いて信じられないという様子で言った。
「女としてどうなんだ……いやそれよりも私も目が覚めなかったなど、怪我をしていたとしてもありえない…………」
彼はそう言って、自分の頭を抑えながら、まるで自分を叱りつけるようにしていた。その仕草がまた少し痛々しい。それほどひどいケガだったのだろうしそんなに責めなくてもいいのに……と思ったが私の事を警戒したように見ている。野生の野良猫のようだ。タソガレドキにいた時にたまに村に迷い込んできた猫を思い出す。餌をあげるようになったら近くに行っても逃げなくなったので触れるかと思って手で触れたら逆毛を立てられて威嚇されたのだ。やはり、少し似ている。
「なんだか失礼なことを考えてないか、お前…………」
私のことをじとっと見つめる様子に首を振って否定した。私が男の顔を見ると、思わず「あ」と声が出ないが口を開いてしまった。あの時町で会った彼と同じ顔。若君だ。まさか、目の前にいるのは若君だったとは。驚きとともに、嬉しさがこみ上げてきた。すごい偶然だ。どうしてここで会うことができたのだろうかと、心の中で何度も繰り返した。
それを見ていた若君は、突然私の顔が明るくなったことに気づいて、怪訝な顔をして言った。「なんだ?」と。彼の言葉に、私は少し恥ずかしくなりながらも、嬉しさを隠せないでいた。
声が出せない私は、彼が若君なのではないかと心の中で考えていた。言葉を交わすことができないけれど、彼の顔を見て、どうしてもそう思った。私は手に文字を書いて、質問を投げかける。「名前は?」と。
彼は少しだけ顔をしかめた後、答えをくれなかった。私が自分の当時呼ばれていた名前を名乗ると、彼は黙っているだけで、特に気づいた様子はなかった。その反応に、少しだけ残念に思ったが、それでも諦めずにもう一度名前を尋ねてみる。答えてくれなかったのでしつこく尋ねた。「名前は?」ともう一度手に書いて問いかけると、彼はしぶしぶ答えてくれた。
「夜霧だ」
その答えに、私は少しだけ肩を落とした。若君とは違う名前。違う人だったのだろうか……。なんだか、少ししょんぼりしてしまう。心の中で期待していたものが、少しだけ崩れたような気がしたから。せっかく会えたと思ったのにな……。その様子を見て、彼は何かを思ったのか、私に探るような眼差しを向けてきた。「どうした?」と、意味深に尋ねてきた。私は少し驚きながらも、彼の目を見つめ返す。何か意図があったのだろうか、その問いかけが気になった。彼の表情はこわばっていて何かを探る意図を感じる。警戒にも似た何か。
知っている人によく似ていたから、同じ人かと思ったの。私がそう答えると、彼はそうか……と考え込むように黙ってしまった。
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