「ついてくるな」
迷惑だと彼は何度もそう言った。それでも私が転べば足を止めて、振り返りながら呆れたように私を見た。きっと彼は私を置いていくことなど簡単だったが、振り切らない速度で歩いて、私がついてくることを行動で許してくれるように思う。口では「置いていく」と言いつつ、私が山道で転びそうになると、転ぶ前にすっと腕を伸ばして支えてくれた。私が気づくよりも早く彼は私を助けてくれる。そういうところが、彼は優しい人なのだとわかる。
しつこくついていくうちに、彼はあきらめたらしい。もう文句を言わなくなった。
おそらくだが、彼も一人でいるのは嫌だったのだろう。
山道を歩くことは何度かあったが、人目に触れぬようにしながら獣道のような場所を進むのはあまりなかったこともあり私は随分と手間取りながら歩く。大きな斜面で私が困っていれば彼は何も言わずに私を引き上げてくれる。彼一人ならきっともっと早く先まで行けるのだろう。それでも私を見捨てずに側にいることを許してくれる彼は、時に兄のようでもあったし父のようでもあった。心根の優しい男性だと思う。
しばらく移動しながら、彼は何かを考え込んでいる様子だった。時折、険しい顔をしながら、何か思い悩んでいるように見える。何か困っているのかと私が手に文字を書いて聞くと、彼は少し間を置いて答えた。
「追っ手を撒くために、移動しなくてはいけない。でも、関所をどうやって突破するかが問題だ……」
人が入ってくる制限をするために各地にはいくつか関所がおかれているらしい。撤廃されているところもあるが、彼が移動しようとしている先には避けて通れぬ場所があるという。なるほど、そういうことか。私は少し考えてある案を思いついた。追われている身であるため、関所で見つかってしまう可能性もある。
「変装でもするか……その場合は………」
彼は何とかしては入れないか策を考えているらしい。私はそれならば、と彼の袖を引っ張って字を書いて伝える。
「何…りょ、こ、う……旅行中の夫婦ってことにすればいい?」
彼は一瞬、きょとんとした顔をしてから、驚いたように言った。
「……何言ってるんだ?」
怪訝そうな顔をする彼に私は言葉をつづけた。追っている人も一人で逃げていると思っているなら、誰かを連れているとは考えないのでは?
私の提案に彼は目を見開いて、驚いたような顔をしていた。そして、少し考え込んでから、ふっと息を吐く。
「いや、案外……いい案なのかもしれない」
どうやら前向きに考えてくれたようだ。私は彼の横を歩きながら、彼の考え込む様子をじっと見つめていた。しばらく黙っていた彼だったが、ふと口を開く。
「夫婦を演じるよりも、妹ってことにした方がいいのか……?」
独り言のようにつぶやきながら、ちらりと私の顔を見た。でもすぐに「いや、顔が似てないな……」と自分で否定するように言う。私もそう考えたので、夫婦ということにしてはどうかと提案した。少し考えたあと、彼は私をじっと見て、真剣な表情で問いかけてきた。
「そもそも、妻としての演技ができるのか?」
私は首をかしげる。元々自分は生き別れたがある人と結婚する予定だったのだというと、彼は少し驚いた顔をした。私は続ける。
「でも、結婚するはずの彼とは生き別れになっちゃったから、まだ夫婦がどんなものかはよくわからないの。夫婦って、どういうものなの?」
そう尋ねると、彼は絶句したように固まった。さっきまで色々と考えていたのに、何も言葉が出てこないらしい。硬直したそんな彼の様子に、私は少しおかしくなってくすっと笑う。彼は小さくため息をつくと、言葉に詰まったように沈黙し、しばらくの間、視線をそらしたまま黙り込んでいた。そんなに難しいことを聞いてしまったのだろうか。それとも、彼自身も答えがわからないのだろうか。
「……本当にいいのか?」
うやく彼が口を開いた。声の調子は少し低く、慎重に私の意志を確かめるようだった。私はうなずく。彼はまだ納得できないような表情をしていたが、それでも何かを振り切るように小さく息を吐いた。
「すぐ他人を信用して、自分のことを話せばろくな目に合わないぞ」
彼は呆れたように言ったが、私は不思議そうに首を傾げる。そんな風に考えたことがなかった。これまで出会った人たちは優しくしてくれたし、私もそれを信じることに何の疑いも持っていなかった。でも、彼の言葉には、まるで何かを警戒するような色があり、私も今まで見てきたものを考えると、この世界はきっと嘘をついたり隠し事をしなければいけないことも多いのだろうと思う。
彼は私の反応を見て、またため息をついた。
「どんな女なのかと思ったが……思った以上におめでたいやつだったんだな。悩んでいる自分が馬鹿らしい」
そう吐き捨てるように言うと、ふてくされたような様子を見せる。私は少しおろおろしながら彼を見つめる。怒らせてしまったのだろうか。でも、彼の言葉が本当に怒りからきているものなのか、それとも呆れただけなのか、よくわからなかった。
適当な場所で横になる。森の中で眠るのもさほど苦痛ではない。土の中で暮らしていたころが懐かしいなと思いながら、眠る彼を見た。月明かりでうっすらと見える彼はやはりまだ、少し警戒を残している。座ったまま眠ってばかりいるようで、どんな時も心休まる時間がないのは大変だろう。
横になってはどうか。そう思って眠っている彼にそっと触れようとしたとき、不意に彼が目を開けた。「何をしている?」低く鋭い声が飛んできて、私は少し驚く。
「横になったらどうかと思って」と正直に答えると、彼はしばらく沈黙した後、「やはり理解できない……」と呟いた。
「契りを結ぶ約束をした男がいるなら、軽率に男に近づいて触れるんじゃない。軽率なことは控えるべきだ」
彼は真剣な顔で言った。彼の言葉に、私は少し考え込む。そんなつもりではなかったし、ただゆっくり眠れるようにと思っての行動だったがそれでも、こういうことは避けた方がいいのだろうか。少し眉を下げた様子の私を見て、別に怒ってるわけではないと彼はいい、再び目を閉じて眠りにつく。男女とは思っているよりも難しいものなのだなあ、と思いながら私も眠りについた。
一方で、男は内心、自分でも気づかぬまま落胆していた。この女には、かつて契りを結ぶと誓った相手がいた。そう考えると、心の奥が少し沈んだような気がした。でも、その気持ちの正体に、この時の男はまだ気づいてはいなかった。
山道を道を歩いていると、ふと地面にうずくまる小さな影が目に入った。鳥だ。片方の翼をわずかに広げているが、どこか不自然な形をしていた。怪我をしているのかもしれない。私は思わず足を止め、そっと拾い上げようと手を伸ばす。
「やめろ」
突然、低い声が響いた。彼がこちらをじっと見つめていた。
「野生の鳥は拾うな」
私は驚いて彼を見上げた。どうして?怪我をしているのに?思わずそういう表情を浮かべると、彼はわずかに眉をひそめた。
「人が触れれば、元の場所に戻れなくなる」
静かにそう言った彼の声には、どこか冷たさがあった。私は鳥を見下ろしながら、小さく唇をかむ。確かに、そうなのかもしれない。でも、それでも……でも、怪我しているのに……訴えるような私の目を見て、彼は少し考え込むような表情を見せた。
「なんでも助けようとして、責任はとれるのか?」
そう言われ、私はふと息をのんだ。責任……。そうか、助けるということは、それに対しての責任を持たなくてはいけないのか。ただ優しさだけでは、救った相手を本当に幸せにできるとは限らないと言いたいのかもしれない。
私は小さく鳥を見つめながら、考えた。自分は若君に助けてもらった。それがどれだけ嬉しかったかは言葉にできないくらいだった。だから困っているものがいれば助けることが正しいと信じてきた。しかし彼が言うには、助けるというのはただ手を差し伸べるだけじゃなくて、その先のことまで考えるものなのか……。
彼の言葉は、私にとって少し不思議に思える。
鳥を見つめる私の様子に、彼は呆れたようにため息をついた。
「……捨て犬のような目で見るんじゃない」
そう言いながらも、彼はしばらく黙り込み、何かを考えているようだった。やがて、諦めたように顔をそらしながら、ぼそりと呟く。
「まったく……何でもかんでも助けられると思っているのか?飛べるようになるまで、お前がちゃんと世話をできるなら、いいんじゃないか」
私はぱっと顔を上げて、嬉しそうに頷いた。彼はまだ少し不服そうだったけれど、完全に否定するわけでもなく、どこか仕方ないとでも思っているようだった。
「手伝わないぞ、お前が責任を持つんだ」
念を押すように言うので、もちろんだと頷く。小さな鳥をそっと両手で包み込み、傷ついた翼に手当てをする。柔らかい羽根が指の間にふわりと触れ、かすかに震えているのが伝わってきた。最初は怯えていたけれど、傷に薬を塗り、そっと包帯を巻いてやると、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
餌を与えると、小鳥はちちち、と小さく鳴いた。最初は警戒していたのに、少しずつついばむようになり、やがて元気になっていく。その姿を見るたびに、胸が温かくなった。
「きっともうすぐ飛べるね」
声には出せなかったけれど、そう思いながら、愛おしむように小鳥を撫でる。
ふと、視線を感じて顔を上げると、夜霧がじっとこちらを見ていた。表情は読めない。何を考えているのかもわからない。ただ、その黒い瞳の奥で、何かが揺れているような気がした。
鳥を拾って数日ほど、甲斐甲斐しく手当てをしていたが「あまり長い時間一緒にいれば、野生に帰れなくなるぞ」夜霧はそう言って、私に釘を刺した。飛べるようになってきた小鳥をそっと手に乗せながら、私は寂しさを感じていた。でも、この子が本当に元気になったのなら、やっぱり空に帰してあげなくてはならない。そうすることが、この子にとっていちばんいいことなのだとわかっていた。
別れは悲しかった。手の中の温もりが、もう二度と戻ってこないのだと思うと、心が締めつけられるような気がした。でも、私はこの子がきっとまた元気に空を飛べると信じている。だから、思い切って手を放した。小鳥はふわりと羽ばたき、空へと舞い上がる。一度振り返るように羽を震わせると、やがて野の向こうへ消えていった。
あの鳥、家族のもとに戻れるかな。私は夜霧に尋ねる。彼は空を見上げながら、少しの間考えていた。
「……わからないが、そんなに簡単なことではないだろうな」
現実を見つめる彼の言葉には、どこまでも甘い響きはなかった。でも、それが彼の生き方なのだと思う。まっすぐで、ごまかしのない言葉。それが決して嫌なものには感じなかった。私は小さく微笑み、「きっと戻れるよ」と答えれば、夜霧は私をじっと見て、呆れたように言う。
「何を根拠に」
私は静かに目を閉じ、心の中の思いを言葉にした。そう願う人がいるのなら、きっとその思いはどこかで結ばれるんだよ。
私の言葉に、夜霧は言葉を失ったように黙り込んだ。しばらくすると、小さく息を吐く。
「……そうか」
それだけを呟いた。そして、ふいに顔をそらす。その横顔はどこか切なげで、何かを考えているようだった。でも、私は彼がどんな表情をしていたのか、見ることができなかった。
関所に近づくにつれ、夜霧の足取りは慎重になった。私は隣で静かに歩きながら、夫婦を装うという策が本当にうまくいくのか、不安を感じていた。でも、夜霧は私の手を軽く引き、平然とした表情を保ったまま進んでいく。
関所の門前に立つと、担当の役人がじろりと私たちを見た。最初は特に何も言わなかったが、夜霧の方へ視線を向けた瞬間、鋭く目を細めた。
「……お前、ただの旅人か?」
夜霧の隠しきれぬ忍びとしての佇まいに気づいたのか、役人の目が疑いの色を帯びる。夜霧は表情を変えずに答えようとしたが、すでに相手の警戒心が働いているのが伝わってきた。
彼は緊張しているのか私の手を握っている力が強まる。このままではまずいかもしれない。そう思ったその時、ふいに後ろからのんびりとした声が響いた。
「おや、これは奇遇だな」
振り返ると、そこには見覚えのある男がいた。あの時助けた盗賊の男だった。ただ、今はすっかり山伏の姿になっている。粗末な衣に身を包み、手には杖を持ち、いかにも旅の修行僧といった風体だった。足を悪くしているようで歩き方は少しぎこちないが、歩ける程度に回復していたらしい。彼は私たちの前にすっと歩み出ると、関所の役人に向かってにこりと笑った。
「こちらの二人は、旅の巡礼者でしてな。私の知り合いでございます。どうか道をお通しください」
役人はしばらく彼を観察していたが、彼の姿格好、落ち着いた態度に納得したのか、やがて面倒そうに手を振った。
「……行っていいぞ」
彼の口添えのおかげで、私たちは無事に関所を突破することができたのだ。
少し離れたところで、私は盗賊の男に向かって深く頭を下げた。「ありがとう」と声には出せないが、精一杯感謝を伝える。男はそんな私を見て、肩をすくめながら言った。
「いや、いいんだ。いろいろ訳アリなのは遠くからでもわかったさ。元気そうでよかったな、会いたい人には、会えたのか?」
私は一瞬迷った後、首を振る。
「そうか、残念だな」
彼は少しだけ寂しそうに言ったが、すぐに何かを思いついたように夜霧に近づき、彼にだけわかるようにこっそり耳打ちをした。
その言葉を聞いているうちに夜霧は目を細め、不機嫌そうに「何を言っている」と返す。
しかし、返答を聞くと愉快そうに笑い、「お前、あの女を気に入っているんじゃないのか?」とからかうように言った。
「馬鹿を言うな!」
夜霧は即座に反論したが、男はその反応を見てますます笑い、「図星か?」とますます楽しそうな顔をした。夜霧がそれ以上何か言おうとする前に、男はひらひらと手を振り、また会えたら会おう。元気でなとすたすたと去っていった。
彼が去った後、夜霧は少しむっとした顔をしながら、何か言いたげに私を一瞥する。でも、結局何も言わずに、ただ前を向いて歩き出した。私は彼の横顔を見つめながら、ほんの少しだけ、不思議な気持ちになった。
「どうかしたの?」
私がそう手に書いて尋ねると、夜霧はほんの一瞬だけ動きを止めた。でも、すぐに目をそらして、「何でもない」とそっけなく言った。そのまま私から距離を取ろうとする。私は少しだけ首を傾げながら、それでも彼の腕を掴んで引き止めた。まだ関所の近くなのだから、あまり不自然な動きをすれば怪しまれるかもしれない。私はそう思い、彼に寄り添うように引っ付けば、その瞬間、彼の体がわずかに強張った。
「お、お前のそういうところが……!」
夜霧はわなわなと震えながら、言葉を詰まらせていた。まるで言いたいことがありすぎて、まとまらないような様子だった。
私はその反応を見て、ふと考える。山伏になったあの男と話してから、夜霧はなんだか落ち着きがない。何を言われたのかはわからないけれど、気に障ることでもあったのだろうか。彼はまだむすっとした顔をしていたが、私がじっと見つめると、ため息をついて小さく呟いた。
「……関所を越えたんだから、もう離れろ」
私は素直に頷きながらも、やっぱり彼の様子が気になってしまうのだった。彼の様子をじっと見つめたが、やはりわからない。しばらくそのまま彼を見ていると、夜霧はとうとう溜息を吐きながら、顔をしかめてもう片方の手で頭を押さえる。
「何なんだ、本当に」
彼はその言葉を呟いた後、少し怒ったように歩く速度を速める。私は慌ててその後に続くが、少し息が切れそうになる。彼が歩く速度に合わせるのは簡単ではなかったけれど、必死に歩調を合わせながら、「頭が痛いの?」と聞く。夜霧はちょっとイラついたような顔をして、私にちらっと目を向ける。
「誰のせいだと思っているんだ!誰の!」
その言葉に、私は思わず口をつぐんだ。何かを言いたかったのだろうけれど、どうしても反論できない。私はただ、彼の後ろにぴったりついて歩きながら、彼の怒りの理由を知りたかったが、それを言葉にすることはできなかった。
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