夜霧の中であの山伏の男の言葉が、どうしても頭から離れなかった。ふとした瞬間に思い出し、胸の中で何かがざわつく。あの女の優しさや純粋さを知るたび、私はどこか引っかかるものを感じていた。それでも、何かを意識的に避けようとしている自分に、どこか違和感を覚える。
かりそめの夫婦ごっこをしながら旅をしている。女は危なっかしくて、何をするかわからない。常に心配していた。だが、その反面、とても純粋で従順でもあった。どこか心を許してしまいそうな、無防備な姿を見せるときもあった。それが少しだけ心地よく感じる自分がいることに、私は動揺していた。
彼女と過ごす時間が、少しずつ私の心に安らぎをもたらしていることを、否応なく感じていた。それはただの偽りの夫婦関係に過ぎないはずなのに、その安らぎを大切にしたいという思いが、無意識のうちに芽生えていることに気づく。私は忍びであり、そんな温かい日常からはほど遠い世界で生きてきた。忍びという名のもとに、汚れた仕事をしてきた自分が、妻を持ち、平穏無事に生きることができるのだろうか。もし、私が普通の人間だったなら、こんな生活ができたのだろうか。
ふと、父親の言葉が思い出された。復讐をするな、と。あの時、父は私にそう言った。きっと血に汚れた行いをするなと、奪うものになってはいけないとそういいたかったのだろう。
今、私は何をしているのだろう。自分が進んできた道を、少し立ち止まって考えてみると、どうしても迷いが生じる。彼女と一緒にいることで、私は忘れかけていたものを思い出しそうになっている。それは過去の優しい記憶や、何気ない思い出かもしれない。それを取り戻していくことが、もしかしたら本当の意味での幸せなのかもしれないと、喜びのようなものを感じながらも、同時にそれが自分にはふさわしいのかどうかと迷う。
私が幸せになっていいのか、という戸惑いが、心の中にわだかまりとして残っている。それでも、何かを選ばなければ、何も変わらないのだということも、また分かっている。
私は悩んでいた。何かを取り戻せる気がしていた。過去に失ったものが、今、手のひらの中にあるような気がして。でも、それがあまりにも遠くて、手が届かないこともわかっていた。自分には、そんな資格なんてない。過去の自分を振り返ることが恐ろしい。忍びとして歩んだ道、汚れた手を持つ自分が、何かを手に入れたところで、それは本当に幸せなことなのだろうか。
刀を振るい、肉を切り裂く感触はまだ手の中に全然残っている。たくさんのものを殺めてきた。命令に従って、恐ろしいことをたくさん行ってきたのだ。
あの日、多くのものを失った自分は炎の中を歩き、たくさんの血を見てそれでも走れと言われ、どこまでも走って逃げた。
そのままがむしゃらに走って今では、逃げている。
私はどこに行きたかったのだろう。
心安らげる居場所で、私はただ静かに愛するものと留まっていたかった。それでも世界はそれを許してはくれなかったし、私は走ることを選んでしまった。
火を焚きながらぼんやりと考え込んでいれば、その時、突然、女が私に話しかけてきた。
私の手を取り、手のひらにどうしたの?と文字を書く。私が何も答えないでいると、また少し考えてから、優しく微笑んだ。
―――—何でもないって言うけれど、あなた、ずっと悩んでるみたいだね。
私は少し驚いた。何も言わずに顔を背けて、ただ前を見つめていた。でも、女の言葉が、どこか心に刺さるような気がした。いつもは何も答えず煙に巻くのに、なぜだろう、聞いてほしかった。
「私は、人殺しだ。最低なことをしてきた、私は過去に呪った相手と同じような存在になり果ててしまった」
己の手のひらを見つめる。血の匂いが染みついた汚れた手だ。
「それなのに、お前と過ごすうちに、失ってしまったものを取り戻せるんじゃないか、そんな……あさましい夢を見てしまうんだ」
口にしてしまったその言葉に、自分が愕然とした。こんな夢を見る資格が、私にあるわけがない。自分が抱えてきた過去を、私は決して語りたくないし、語る資格もない。そのまま何も言わずに顔を背けると、ふと手が温かく包まれた。驚いて、私はその手を見た。
女が、私の手をそっと握っていた。
その手は、思ったよりもとても小さくて、白く、まるで握り潰してしまいそうに感じた。指先まで繊細で、血色が薄い、まるで儚いもののようだった。私はその手に、自分の手を合わせることなく、ただ見つめることしかできなかった。だが、何かが私の中で変わったような気がした。それは、何か大切なものが触れたような感覚だった。
そして、その手を握られてしまうと、いつの間にか、もう振りほどけなくなっていた。どうしてこんなにも、自分の手を離せないのだろうか。何かが心に引っかかり、身体が動かない。
その小さな手が、私を引き寄せていた。
「取り戻したいと願っているなら、それを誰も否定することはできない。あなたの中にあるものは、あなただけのものだから」
その言葉を聞いて、私は思わず顔を伏せる。自分がそんなことを言ってもらえる資格があるのかと疑問を抱きながらも、どこかで、そう言って欲しかったのかもしれないと思う自分がいた。誰かに、こんなふうに認めてもらいたかったんだろうか。もういいと、許してほしかったんだろうか。
だけど、私はその言葉に頷くことができない。今までの自分があまりにも汚れていて、それを取り戻すことができるなんて、思えないからだ。
答えられずにいる私に女は、笑顔を浮かべる。こいつはいつもそうだった。いつだって美しい笑みを浮かべて笑ってくれる。その笑顔に、縋りつきたくなる。
「笑っていてほしい」と言った。その言葉に、ふと胸が締めつけられるような気がして、こんな私に、そんなことを望んでいいのだろうか。夢を見せる。私が笑うことで、誰かが幸せになるなら、それは何か間違っているような気がして、少しだけ躊躇ってしまう。それでも、ほんの少しだけ、口角を上げると、女は嬉しそうに目を輝かせるものだから、その笑顔が、何かを引き寄せるようで、私は思わず彼女を抱きしめていた。
「ずっと、帰りたかったんだ……」
見ないふりをしてきた。本当の感情が押し殺せない。思い出の中に帰りたかった。本当はもうずっと前から向いていなかったのだ。人を殺すなど、誰も好き好んでやりたくなどなかった。
「帰りたかったんだ……っ、ほんとは、ずっと…………もういいと、…………私は、どこかに………」
帰ることを許されたかった。おかえりと、そういってくれる誰かのもとで、誰を傷つけることもなく、奪われることもなく平凡な男としてそこに居たかった。
私を受け止めるように抱きしめてくれたこの女には、好いた男がいて、将来を誓うようなものがいたのだろう。それでも今は許されないだろうか。月だけが見ている今なら、許してはもらえはしないだろうか。
彼女に縋るように、そっと抱きしめる。小さな体が私の腕の中で温かく、驚きながらも私の背中を優しくさすってくれる。その瞬間、私の心はまた少しだけ弱くなっていく。
しかし、その温もりの中で、私は気づいてしまった。
彼女が私を見ているその目は、恋慕の感情からはほど遠いものだと。どこか、母が子供に与える愛情のようなものを感じてしまう。それが、私が一番恐れていたことだった。彼女が私に抱く気持ちが、恋ではないと気づいてしまったのだ。嘘だ。最初から分かっていた。別の人間を私を通してみていると。
私だけを見てほしい。
何にも期待せず、何にも裏切られず、何も奪われない生き方をするために人のぬくもりを求めるのをやめたはずなのに、独占じみた黒い感情が、押し殺してきたものがあふれ出ようとして女をこの腕の中に閉じ込めてしまいたかった。
私は彼女が…………
それでも、今、こんなに近くで感じる温もりに、私はどうしてもその気持ちを言葉にできない。その気持ちを封じ込めたまま、私はただ彼女を抱きしめ続けることしかできずにいた。
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