21

長かった冬が終わり、ようやく緑が顔を出し始めた。雪解け水が小さなせせらぎを作り、あたりの空気は少しずつ柔らかくなっていく。きり丸は、地面から芽吹いた草を見つけるたびに、嬉しそうに笑った。

「これ、食べられるんじゃない?」

「うん」

「春になると、山ってすごいなあ。食べられるものがいっぱい増える!」

彼は目を輝かせながら、葉っぱを摘んだり、木の根元を覗き込んだりしている。冬の間、必死で食べ物を探し回った日々を思うと、確かに春の訪れはまるで夢のようだった。私たちは、山を歩きながら食べられそうなものを集めた。根っこ、若葉、つぼみ。どれも見たことがあるようで、どこか懐かしい気がする。でも、なぜ知っているのかはわからない。ただ、手が自然と動いてしまう。

しばらく歩くと、花が美しく咲いている場所にたどり着いた。風が吹くたびに、色とりどりの花びらが揺れ、まるでここだけ別の世界のようだった。

「これ、街で売れないかな?」

きり丸が花を見つめながら、ぽつりと呟いた。
私は頷く。彼はどうにかして金を稼ぐ方法を探している。食べ物を買うため、泊まる場所を得るため、そして、生きるために。

「きれいな花なら、誰かが欲しがるかもしれない」

そう言って彼が手を伸ばす。私はその花を眺めながら、ふと、懐かしい感覚を覚えた。

「……かんむり、作ってあげる」

「かんむり?」

私は何も考えずに、手を動かし始めていた。指先が自然に花を編み込み、ゆっくりと形を作っていく。なぜ編めるのかはわからない。でも、どこかで、こうして花を編んでいた気がする。やがて、完成した花冠を、きり丸の頭にそっと乗せた。彼は少し照れくさそうに、頭の上に触れる。

「おれ……花なんて似合わないよ、変じゃない?」

「ううん、似合ってる」

「えー…………そっか」

すこし顔を赤くしながら、きり丸はちらりと私を見て、それから視線をそらした。

「編み方、教えて。うまくできたらほしい人がいて金になるかもしれないしさ」

「いいよ」

私は隣に座り、ゆっくりと手順を教えた。

「まず、茎をこうやって交互に……」

きり丸は私の手をじっと見つめ、真似しながら慎重に指を動かす。うまくできないと不満そうな顔をするけれど、それでも真剣だった。

「えぇ〜〜……むずかしいなぁ」

「最初はね。でも、すぐできるようになるよ」

そうしていると、小さなちょうちょがひらひらと舞い降りてきた。

「お?」

私の肩にとまり、さらに手元の花に留まる。ひらひらと羽ばたいていた蝶は羽を休めてそうして私に群がっていた。

「すげー、虫に歓迎されてるみたい」

きり丸は笑いながら、そっとちょうちょを指でつつこうとするが、ふわりと飛び立っていく。

「逃げちゃった」

「そうだね。でも、また来るよきっと」

私がそう言うと、彼は花冠をいじりながら、小さく笑った。春の風が優しく吹き、私たちのまわりを柔らかく包み込んでいた。少しずつきり丸は笑ってくれることが増えた。会ったばかりのころはほとんど笑わない子供だったが、春の雪解けのように何かが彼の心を少しずつあたたかなもので包み込んでいったのかもしれない。


ふと、誰かの顔が浮かぶ。小さな少年、一緒に山で何かを探していたような気がする。良く怒っていて、それでいていつも笑ってくれていた。あの子供の名前は何だっただろうか……?

考え事をしているとどうしたの?と聞かれ手首を振る。何でもないよ。と答える私にきり丸も不思議そうにしていた。私は。どこから来たのだろう。









夏が来た。
太陽が容赦なく照りつける。地面は焼けるように熱く、草木は眩しい光を受けて力強く伸びている。汗ばむ肌に、じりじりとした熱が絡みつく。

けれど、不思議と夏は嫌いではなかった。

ぎらぎらと輝く日の光を見ると、何かを思い出すような気がする。それが何なのか、どうしてそう感じるのか、思い出せない。ただ、心の奥に残る何かが、この季節の陽射しと重なっている気がしてならなかった。

「スイカでも食べれたらなあ……」

きり丸が、汗をぬぐいながらぼやく。私たちはいつも食べるものを探すのに必死で、今日明日の食事をどうにかするだけでも大変だった。そんな生活の中で、スイカのような贅沢を口にする機会などあるはずもない。

「……」

私は、先日町で見かけた光景を思い出した。涼しげな木陰で、町の人々が楽しそうに食事をしていた。子供たちは氷水に浮かぶ果物を手に取り、笑いながらかじっていた。その鮮やかな赤や緑が、ひどく遠いもののように思えた。

「いいなあ……」

あの時、きり丸は確かにそう呟いた。羨ましそうに、それでもどこか諦めたように眺めていた。もう少し何かお金を稼ぐ方法を見つけられたらいいのにと思う。けれど、自分には何ができるのか、まるでわからない。ほとんど何も知らない自分が、どうやって金を得ればいいのかすら思いつかない。困ったものだ。

町の人々はみんな、生きるために何かをしている。商いをする者、物を作る者、働く者。誰もが、自分にできることをして暮らしている。

けれど、私は。何ができるだろう。
何も思い出せないまま、ただ夏の陽射しの中に立ち尽くしていた。



町の中を歩いていると、周りの人々が私をちらりと見るのがわかる。ぼろぼろの着物、埃をかぶった髪。まるで浮浪者のような身なり。髪は長く伸び、ところどころ乱れている。服も何度も洗ったとはいえ、継ぎ接ぎだらけで、ところどころ薄くなってしまっていた。裸足に近い足元は埃まみれで、歩くたびに砂を踏む感触が伝わる。

こんな姿で町をうろついていても、まともな仕事が手に入るはずもない。

何か手に職があればいいのに。けれど、何ができるのかもわからない。私はただ、ここにいるだけで、生きるために何をしたらいいのかもわからなかった。

「……困ったなあ」

どうにかお金を稼ぐ方法を探していたけれど、何をすればいいのかもわからない。技術もなければ、商売の才もない。ただ、こうして町を歩いているだけでは、何も変わらないのに。そんなときだった。
ぼんやりと考えながら歩いていると、目の前で人が倒れているのが見えた。


慌てて駆け寄る。倒れていたのは、おばあさんだった。薄い色の着物をまとい、白髪の頭をすこし揺らしながら、痛そうに顔をしかめている。

「大丈夫ですか?」

私はすぐにしゃがみ込み、おばあさんの手を取りながら支えようとした。

「腰をやっちまったよ…………」

あいたたた、とかすれた声でそう呟きながら、おばあさんは小さく息を吐いた。顔色も少し悪い。

「動けますか?」

「……少しなら。でも、歩くのはちょっとむずかしそうだねえ……」

「じゃあ、背負います」

「えぇ!そんな、悪いよ……」

おばあさんがためらっているのを無視し、私はそっと腕を回して支えながら、自分の背に負ぶった。思ったよりも軽い。ゆっくりと立ち上がると、おばあさんは驚いたように「こんな細っこいのに、力あるねえ」と呟いた。

「どこまで行けばいいですか?」

「市場の向こうに、あたしの店があるんだよ……」

「わかりました、案内してください」

私はおばあさんの言葉に従いながら、一歩ずつゆっくりと歩き出した。おばあさんの店は、町の一角にあった。野菜や果物を並べた店先には、ちょうど真っ二つに割ったばかりのスイカが置かれている。瑞々しい赤が陽の光を受けて輝いていて、見ているだけで喉が鳴りそうだった。

「助かったよ、ありがとうねえ……」

おばあさんをそっと降ろすと、彼女はしばらく腰をさすりながら、それでも笑顔を向けてくれた。

「お礼に、これを持っていきな」

そう言って、おばあさんはスイカを切り分けると、大きな一切れを私の手に渡してくれた。思わず、きり丸の顔が浮かぶ。

「ありがとう。でも、これ……持って帰っていいですか?スイカが好きな子がいるんです」

「おや、子供がいるのかい?」

「ええ、スイカを食べたがっていたんです」

「そうかい、なら、お土産にもっと持っていきな」

おばあさんはそう言って、さらにスイカを包んでくれた。私は深く頭を下げ、「ありがとうございます」と何度もお礼を言った。おばあさんは、ふと私の身なりをじっと見つめる。

「……両親は?」

その問いに、私はゆっくりと首を横に振った。

「そうかい……結婚はしてるのかい?」

その答えにも首を振るとおばあさんは少し寂しそうな目をして、やがて静かにため息をついた。

「まだ若いのに、大変だねえ……戦も多いし、苦労する子供が増えた」

私は、何と答えていいかわからなかった。ただ、じっと手に握ったスイカを見つめる。おばあさんはそんな私にやさしく微笑みながらそうだ、と声をかける。

「ちょうど水仕事がしばらくできないから、よかったら手伝ってくれないかい?」

おばあさんの言葉に、私は驚いた。

「私が?」

「そうさ。大した仕事じゃないよ。水汲みや荷物運び、店の手伝いをちょっとしてくれれば助かるんだ。どうだい?」

私は一瞬迷ったが、すぐに頷いた。

「やります」

働ける機会があるなら、逃す手はない。何より、おばあさんは私を必要としてくれている。

「そうかい、助かるよ。じゃあ、今日からよろしく頼むね」

おばあさんは優しく笑い、私はその笑顔を見ながら、少しだけ心が軽くなるのを感じた。





おばあさんの店での仕事は、思っていたよりも軽いものだった。水を汲んで運ぶ仕事や、店を掃除すること、野菜を並べること。おばあさんは優しくて、手際よく指示を出してくれる。少しずつ体が温まって、働いていると不思議と心地よさを感じるようになった。日が暮れる頃、私はやっと仕事を終え、きり丸の元へ戻るために歩き始めた。

町の通りは、夕暮れ時の静けさに包まれ、空がだんだんと濃いオレンジ色に染まっていく。ほっとするような温かさが、冷たい風の中に少しだけ残っている。きり丸はいつもの場所で、私が帰ってくるのを待っていた。

「おかえり」

彼が振り向き、嬉しそうに笑った。

「遅かったね、どうだった?」

「うん、優しいおばあさんがお仕事をくれてね、しばらくそこで働かせてもらえそうなの」

「へえねえちゃんは美人だから、服装さえしっかりすりゃ仕事なんてきっといっぱい見つかるよ」

その言葉に、私はそうかな?ときり丸を見つめた。きり丸は無邪気に笑いながら続ける。

「でも、世間知らずだからなー。危ないやつについてきそうだから、俺がしっかりしなきゃな」

きり丸はそういって笑って、わざとらしく肩をすくめた。私もつられて笑う。


「笑ってる場合じゃないよ、ちゃんと気をつけなきゃだめなんだから。俺がしっかりしないと」

その真剣な顔が少しおかしくて、私は思わず笑ってしまった。

「きり丸がしっかりしてくれるから大丈夫だね」

「当然!」

きり丸は胸を張ってそう言うと、少し照れくさそうに目をそらした。私よりも彼はずっとしっかりしてる。きり丸がいなかったら私は野垂れ死にしていたもおかしくないだろう。生きる強さを持っているのだと思う。



「ああ、そうだこれ」

私はおばあさんからもらったスイカをきり丸に差し出した。
きり丸は一瞬目を見開いてから、少し躊躇するように見た。


「……え、これ、スイカ?」

「もらったの、良かったら食べて」

「いいの?」

私はもちろんだと頷くと、きり丸はスイカと私を何度か交互に見た後、嬉しそうに顔をほころばせ、笑った。

「えへへ、……ありがとねえちゃん…………」

手を伸ばして、スイカを受け取ると、すぐにかじりつくきり丸。あっという間に、しゃくりとひとかじりした。

「……今まで食べたスイカの中で、一番おいしい!」

その顔には、満足げな笑みが広がっていた。そんなに喜んでもらえるなんて良かった。今日はとてもいい日だ。


「よかったね」

私は優しくきり丸の頭を撫でた。

「うん!」

きり丸は嬉しそうに笑い、身を寄せてきた。私の手のひらを感じながら、もう一口、スイカをかじる。顔が少し赤くなるほど、幸せそうに目を細めている。その温かい雰囲気に、私の心も少しずつ温まっていくのを感じた。




暗くなり、涼しい風が吹き始めれば月明かりが静かに降り注ぎ、町の外れに広がる野原は、静けさとともに美しい光景を作り出していた。夜になるととても静かだ。

「蛍、飛んでるね」

きり丸が嬉しそうに言うと、私はその光景に目を奪われた。蛍の小さな光が、ふわりと空を舞いながら、静かに輝いている。

その光はまるで、どこか遠い場所から来たもののように見えた。何かを思い出しそうになる。でも、その記憶はすぐに霧のように消えてしまう。
私は、ぼんやりとその光景を見つめている。蛍を誰かと一緒に見た気がする。まだ幼い子供、きり丸?ちがう。きり丸とは今はじめて一緒に蛍を見た。


ないしょにしてね


誰かがそういって笑ってた。あれは誰だったんだろう。なんで内緒にしなくてはいけなかったのだっけ?自分でも理由がわからない。ただ、胸の奥が締め付けられるように苦しい。

「どうしたの?」

きり丸が心配そうに私の顔を見上げて、手を伸ばしてきた。

あれは誰だっけ。私は思い出せない記憶に手を伸ばそうとするが焦った様子できり丸が声をかけてくる。

「ねえちゃん……!なんで泣いてるの…………?」

そのまま、私は蛍の光が揺れる野原をじっと見ていた。小さな光が静かに揺れ、また一つ、また一つと消えていく。その一瞬の輝きが、どこか懐かしく、心に響いた。
泣いている?私が?
頬に手をやると自分が涙を流していることに気が付いた。無意識に流れ落ちるそれはなぜなのかわからない。

「泣いてる?私、なんで泣いているの…………?」

「……ねえちゃん、どこか痛いの?」

きり丸が心配そうに声をかけてきた。私は首を振る。

「大丈夫」

でも、きり丸はすぐに私の手をぎゅっと握ってきた。私は驚いてきり丸を見れば、彼は目を見開き、真剣な表情で私の手をしっかりと握りしめていた。

「どっかに……行っちゃいそうだったから」

その言葉に、私は胸がきゅっと痛くなった。きり丸は、私が消えてしまうことを心配しているのだ。

「……ねえちゃんは、どこにもいかないよね?だいじょうぶだよね…………?」

きり丸の声は、ほんの少し震えていた。その問いかけに、私はしっかりと頷く。

「うん、どこにも行かないよ」

きり丸は、私の答えを聞くと、安心したように少しだけ力を抜く。でも、手はまだ離さなかった。

「ぜったいだからね」

何度も約束と確認するように言うので、私は何度も絶対だよ、とうなずく。それでもやはり恐怖をぬぐいきれない様子のきり丸はぎゅっと私に抱き着いてきていた。その日は、手を放してもらえなかった。きり丸の手のひらの温かさが、私の手に伝わり、静かな安心感が広がっていった。

蛍の光が夜空を舞う中で、私はその手を握りしめながら、何も言わずにただ静かに目を閉じる。夜の冷たい風が吹き抜ける中、目を閉じていても蛍の光は静かに輝き、どこか遠くから呼びかけられているような気がした。



沢水に 蛍の影の 数ぞ添ふ 我が魂や 行きて具すらむ


ふと、私はその言葉を口にした。それはどこかで聞いたことがあるような、でも、まるで自分の中から湧き上がったような言葉。
突然につぶやいた様子にきり丸が目を丸くして、私の方を見つめた。

「どういう意味?」

「私も……わからない」

私は首をかしげながら答えた。その言葉がどこか懐かしいような、遠くに忘れていたような感覚を呼び起こす。まるで、誰かと一緒にいたときに聞いた言葉のようで、それが誰のものなのか、思い出せない。ただ、心の奥でその言葉に何か大切なものを感じる。

その時、ふと夢の中のことを思い出した。

暗闇の中で、私は誰かと一緒に眠っているようだった。その人の顔は、どうしても思い出せなかったけれど、温かい感覚とともに眠っていたことだけが確かだった。安心とぬくもりをくれた誰かが、私にその言葉を教えてくれたような気がする。

――――また今度教えてあげるよ

その人が、笑いながらそう言ったような気がする。名前が思い出せないその人。誰だったのだろうか。その人が、私がずっと会いたかった人だろうか。

「あなたは誰なの?」

私はふと、その人に問いかけてみた。でも、答えは返ってこない。その問いが虚しく響くだけで、ただ静かな闇の中で、自分だけが存在しているように感じられる。

名前が思い出せないその人。でも、確かにその人は、私の心の中に強く残っている。もしかしたら、その人は私がこの先、必ず出会わなければならない誰かなのかもしれない。



誰そ彼、思い出せないあなたは誰だったのだろう。







夢の中で、私は誰かと一緒に蛍を見ていた。

その誰かは、まだ幼い子供だったが、身なりはとても整っていて、高貴な家柄の者なのだろうと感じた。服は美しく、煌めく星空の下でその姿は一層際立っていた。でも、その顔はどこかぼやけていて、はっきりとした特徴を思い出せない。まるで霧の中のように、すべてが曖昧でぼんやりとしか見えない。

私たちは静かに蛍を見ていた。その小さな光が舞う様子は美しく、どこか懐かしく、心に深く響くものがあった。


「蛍はどうしてこんなにきれいなんだろう?なんで?」

「それはね、きっと自分を見つけてもらうためですよ」

「そっか、だからこんなにきれいなんだねえ」


誰かは私の言葉に笑う。その笑顔が好きだ。ずっと笑っていてほしかった。
突然、私の腕が引っ張られた。

驚いて振り返ると、そこには包帯で身体を巻かれた男性が立っていた。顔はほとんど見えないほどに包帯で覆われており、暗闇から突然現れたような不気味な存在。右目だけが私を見つめている。戸惑いを持っている私に男は顔を近づける。

「帰っておいで」

その男性の声は低く、どこか冷たさを帯びていた。私を無理やり引き寄せるその手の感触が、私の腕にぴたりと絡みつく。

「……?」

私は驚いて、もう一度振り返った。目の前には、まだ幼い高貴な子供が、こちらを見つめている。子供は何も言わず、ただじっと私を見ている。その目が悲しそうで、しかし何もできない無力さを感じさせる。

私はその子供の方へ手を伸ばした。

「だめだよ」

だが、その手を取る前に、誰かに強く引き寄せられて、私はそのまま男性の方へ引き寄せられてしまう。手を伸ばすことさえできなかった。

「私を選んだんでしょ」

その言葉が、耳に深く響く。

誰かが、じっとりと恨めしそうな目で私を見つめていた。その視線が私の背筋に冷たいものを走らせ、心の中で何かがぐらつく。何か大切なものを失ったような気がして、胸が締め付けられるようだった。でも、その言葉は、どこかで聞いたような気がしてならない。私が選んだのは何だったのだろうか?

目の前の男性は、何も言わずにただ私を引き寄せ、どこかに連れて行こうとしている。私はその手を振りほどこうとするが、彼の手は強く、離してはくれない。

「あの子を置いていきたくない」

私は心の中で呟くが、その言葉は夢の中で消え、暗闇に呑まれていく。なぜか、私はその男性の言葉に逆らえないような気がして、ただ無力に引きずられていく。


「帰っておいで、私の蛍」


光を求めるように、男は私を抱きしめて腕の中に閉じ込める。


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