城主の前に立たされる前に身分の高い方たちの前に呼び出される。私は緊張と不安で震えていた。だが、その不安はすぐに物理的な現実に変わった。私が着ている服を見た側近が、冷たく言った。
「その服、みすぼらしいですね。処分しなさい」
私は驚いて反応したが、言葉が出ない。もらったものだから、大切にしたいと思っている。それをどうしても捨てることができないのに、目の前で「処分」されると言われてしまうのか。
「でも、これはおばあさんからもらった大切な……」
言いかけて、私の言葉は途中で止まった。城主の側近が、冷ややかな視線を投げかけてきた。
「高貴な方の前で、こんなみすぼらしい姿をさらすわけにはいかないでしょう?」
その一言に、私の心は強く締め付けられた。何もかもが違う世界だということを痛感した。村では、布一枚買うのにも苦労していた。そんな私にとって、この服はもらったもので、決して価値がないわけではなかった。しかし、ここではそれが全く無意味だと言わんばかりに、簡単に処分されてしまう。
大切なものだとしても、価値がないと思われたら、簡単に捨てられるのか。
私は胸の中で呟いた。お金のない私たちはなんでも貴重で大切に使うものばかりだった。小さな布を買うにも、家計からお金をやりくりしながら生活していた。だから、こんな贅沢な場所で物の価値が一瞬で決まってしまうことに、驚きと戸惑いを感じる。
どうして、こんなにも違うんだろう。
私は服を引き裂かれるような気持ちで見守った。物に対する価値観、そしてそれを作り出す世界の違いに、ただただ驚くばかりだった。
城の中での生活が続く中、私は日々の仕事に追われながらも、新しい世界を少しずつ学んでいった。殿には何人かの側室がいたが、その間柄はあまり良好とは言えなかった。何故なら、彼の母親が殿に似合う女性を選んでいるらしく、側室たちはどこか不安げで、互いにぎこちない関係を築いているようだ。殿自身は側室にほとんど興味がなく、その存在はどこか無関心なように見えた。お金も食べるものもあるのにみんな目が楽しそうじゃない。富により満たされているからと言って心が満ちているかどうかはまた別なのだと知った。
私自身は、教養のなさを叱られたことがあったが、それも仕方のないことだと割り切っていた。知識を知ることは面白く、教えられることが増えていくことに喜びを感じていたためだ。知らないことを知る喜びが、私を次々と学びに向かわせた。私はまだ学びの途中であったが、その過程そのものに興奮していた。
あの時浮かんだ言葉も勉強をするうちにわかるだろうか。不思議と人に聞こうとは思わなかった。無知を恥じたのではなくあれは自分で見つけるべきだと思ったのだ。
ある日、庭でひとときの休息を楽しんでいると、ふと、コオロギが飛んできた。周りの女性たちはその虫に驚き、顔をしかめて後ずさりしていった。虫を怖がる彼女たちの様子に、私は何も気にせず手を伸ばして、コオロギをひょいと手のひらに乗せた。小さな命を大事に扱い、手のひらの上で動くその姿を楽しむ。
周りの女性たちはその様子を見て、驚き、私に信じられないような顔を向けていた。どうしてそんなことができるの?といった表情が浮かんでいる。私はただ、静かにその小さな生き物を見つめていた。
その時、たまたま通りかかった殿がその光景を目にした。彼は少し驚いた表情を見せながらも、すぐに無関心そうに目をそらした。やがて、彼は「変わったやつだな」と言って、何事もなかったかのようにその場を去っていく。
その一言が、どこか印象深く私の胸に残った。殿は常に無関心で、感情をあまり表に出さないように見える。しかし、あの時、少しだけ面白いものを見たような姿が見えた気がした。それは、彼が全く興味を示さないわけではないという証のようで、何か微かな変化を感じ取ることができた。
私はその時、殿の意外な一面を垣間見たような気がして、少しだけ心が躍った。それでもすぐにその感情は消え、私はまたコオロギを手のひらに乗せて静かに眺め続けた。
ある夜、突然殿から呼ばれた。周りの侍女たちは少しそわそわと落ち着かない様子で、何か特別なことがあるのだろうかと気になる気配が漂っていた。私はその理由がわからず、ただ言われた通りに殿のもとへ向かうことにした。
殿に呼ばれるのは初めてだ。私は、手に持っていた筒状の容器を、忘れずに持参することにした。殿の間に到着すると、殿は何も言わずに私を迎え入れてくれた。彼の目は退屈そうで、何かに興味がないような表情をしている。その表情を見て、少しだけ胸が締め付けられるような気がした。しかし、私はすぐにそれを忘れ、筒状の容器を殿に見せた。
「これを……」
私がそう言って、容器の蓋を開けて中身を見せると、コオロギがひょっこりと顔を出した。殿は驚いた様子で、少し笑った。あまり見たことのないその表情に、私は少し驚き、少し戸惑いながらも見つめていた。
「笑ったのは初めて見た」
私は心の中で思いながらも、口に出して言った。
殿はその笑顔を続け、静かに言った。
「女はみんな虫が嫌いかと思っていた。よりによって、最初の夜に虫を持ってくるのか、この私に呼ばれて……最初に見せるものが…………っ」
く、と殿は控えめに笑って、少し照れくさい表情を見せた。その笑顔が、さらに私を驚かせた。普段の冷静な姿とは違い、彼の素の一面が垣間見えたような気がして、私は思わず微笑んだ。
「好きなのですか?」
「私が虫が好きと?」
彼は少し考えた後、答えた。
「好きかどうかはわからないが、今好きになったかもしれないな」
その言葉に、私はまた少し笑って、そして静かに頷いた。
その後、特に何かをするわけでもなく、ただ彼の話を聞きながら、時間がゆっくりと流れていった。私はその夜、殿と一緒に過ごしながら、普段見ることのない彼の姿を少しだけ垣間見ることができた。そして、何も起こらないその静かな夜に、私は不思議と安心感を覚えていた。ただ、いつもとは違う、少しだけ温かい空気が流れているような気がした。
殿との会話は、どこか不思議な感覚を覚えることが多かった。彼の話には深い思慮が感じられる一方で、どこか寂しさや無力感が漂っているように思えた。ある夜、彼は静かに話し始めた。
「昔から、母の言いなりで政治をしていたんだ」
その言葉に、私は驚きのあまり少し黙ってしまった。殿が思い通りに物事を決めているようには見えなかったが、まさか彼が母の影響下でずっと過ごしてきたとは思っていなかった。
「自分の意思で何かを決めたことがない。だから何が好きなのかも、わからない」
それを聞いて、私はしばらく黙ったままでいた。どう反応すべきかもわからないほど、彼の心の中に抱える重荷を感じたからだ。
「それじゃあ、今から好きなものを見つけていくのですね」
その言葉に、殿は少し驚いた顔をしてから、そうか、とうなずいた。
「……そうかもしれないな」
その笑顔が、普段の冷徹な姿とは違って温かく、少しだけ心が軽くなるのを感じた。私たちは、どこか友人のような関係だったのかもしれない。殿も、ただ私と話をして過ごす時間が楽しいと言ってくれる。それが、私にとっては嬉しくて、心地よい瞬間だった。
ふと、私は殿に問いかけてみた。
「私を呼んだのはあなた様だと聞きました。どうして、私を奉公にと?」
その質問に、彼は少し沈黙してから、答えにくそうにしていたがゆっくりと答えた。
「……あの童と楽しそうな姿を見て、楽しそうにしているお前たちを見るとどうにもむしゃくしゃしたんだ」
「むしゃくしゃ……?」
その言葉に私は驚き、少し首をかしげた。殿は続けて語った。
「……昔、仲のいい姉のような存在がいたんだ。でも母がそれを危惧して、遠くにやってしまった。今はどうしているかも知らん、殺されているのやも」
その言葉に、残されたきり丸の事を考えると私は胸が痛むような気がした。殿は、その姉との関係を大切にしていたのだろう。それが母によって引き裂かれ、彼の心に何か大きな傷を残したのだろう。
「童とお前を見て、その光景を思い出して、いらだって引き離そうとした。でも、今思うと、悪いことをしてしまったな」
殿はそう言って、静かに目を伏せた。私はその言葉を黙って聞いていたが、心の中で何かが痛くて、言葉がうまく出てこなかった。
「嫉妬したのだ」と彼は続けた。その言葉に私は驚き、思わず口を開いた。
「――――嫉妬?」
「お前は何も知らないだろうな」
殿は少し寂しそうに笑いながら続けた。
「醜い感情を知ることもない、まっさらなままでいる。それが、どれほど素晴らしいことか、わかるか?」
私は、少し戸惑いながらも、彼の言葉に耳を傾けた。殿の瞳には、どこか残念そうな色が浮かんでいた。
「この世界の中で、いつまでも純真でいられるなら、それは幸せなことだろう。でも、残念ながらこの世では、それを許してくれる者はいないんだろうな」
その言葉に、私は何も言えなかった。殿の目に映る世界は、私の想像を超えていた。彼が抱える深い悲しみと、痛みを感じずにはいられなかった。
「お前は愛されて生まれてきたのだろう」
愛されていたのだろうか。愛について、私は知らない。それでも暖かな気持ちを大事にしたいと思うこれが愛なら、きっとそうなのだろう。殿の言葉が、どこか温かくて、でも同時に切ない。それを聞いていると、私も何か大きなものを背負っている気がしてきた。私が純粋でいられることが、殿にとって少しでも救いになるのなら、それだけで私はここにいる意味があるのだと、静かに感じていた。
きり丸に会いに行きたいと話すと、戦が落ち着いたら会いに行けばいいと頷いてくれた。
城の中で、殿について語られることが多かった。側室たちや城の侍女たちは、彼をどう思っているのだろうかと思うことがあった。みんなが言う殿の印象は、実際に彼と話した時とは大きく異なっていた。彼は、冷たい、無関心な人物だと思われているようだった。しかし、実際に彼と話をしていると、どこか寂しさを抱えているように感じることが多かった。
本来は穏やかな争いを好まぬ平和主義な人なのだろう。それでも時代がそれを許さなかったのだと思う。それはきっととても悲しいことだ。私の渡したコオロギを物思いにふけりながら見つめている時、それは特に顕著に思った。
筒の中にいるコオロギの姿を自分の姿と重ねたのかもしれない。
数年ほどの月日が流れ戦乱の世は相変わらず落ち着く様子はない。城内は緊張感に包まれていた。戦乱が続く中、城主の城もついに攻められる日が近づいてきているという話が広まっていた。壁にひびが入り、風が吹くたびに、まるで城全体が揺れ動いているように感じられる。城の人々は、次に何が起こるのかを恐れながらも、運命を待つしかない状況に追い込まれていた。
ある夜、殿から呼び出されると、私は驚きと共にその部屋へ足を運んだ。殿はいつもとは違う、真剣な顔をして私を迎え入れてくれた。
「もうすぐ、ここは敵の手に落ちるだろう。そうなればどうなるかわからない」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。すぐにでも攻撃が始まるのだろう。城主は、少し疲れた様子で私に言った。
「お前には、逃げてほしい。ここにいても、何もできることはない。だから、早く逃げろ。お前はきっと戦いの中では生き残れない、逃げることもしない、お前はそうなれば死ぬだろう、だから逃げろ」
私はその言葉を理解しながらも、心の中では強く反発していた。殿と一緒にいたい気持ちが強く、ただ逃げることができるのかどうか不安だった。しかし、殿はもう一度私に言った。
「お前がここにいても、何も守れない。だが、あの子供にまた会わなくてはならないんだろう。あの子供は、過去の私のように会えなくなった誰かを探している。……過去の私を救ってほしい」
その言葉に、私は少し驚いた。彼は運命を受け入れながらも救われたがっていた。その過去を癒すために、私は何をすべきかを考えながらも、迷いは消えなかった。しかし、今は生き延びるために逃げることが最も大切だと思い、私は決断した。
そのまま、私は殿によって依頼を受けたという忍者と共に城を離れることとなった。忍者は、静かな足音で近づいてきて、私を引き寄せながら言った。
「お守りします。離れないでください」
私が頷くと彼は名前を名乗る。
「名を利吉と申します」
名前を聞き、私はどうかよろしくお願いしますと頭を下げる。彼はええ、とうなずいてどこか緊張感のある険しい表情をしながらも安心させるように笑ってくれた。
「夜の目立たない時間帯に逃げるように」と指示され、私はその通りに服を着替えさせられた。城内の灯りが薄暗くなる時間帯に、ひっそりと逃げ出すために準備を整える。
「大丈夫、必ずお守りします。私はこれでもプロですから」
利吉の言葉が、私を安心させた。彼が守ってくれるなら、私は少しだけでも勇気を持って逃げることができるだろう。殿のためにも、そして私自身のためにも、何とか生き延びなければならないと思った。
その夜、私は忍者に手を引かれ、静かに城を後にした。
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