利吉の声が低く響く。
私は彼に手を引かれながら、薄暗い林の中を進んでいた。夜の静けさの中、虫の鳴き声と風の音だけが響いている。どこへ向かうのかは知らされていなかったが、彼の言葉に従うしかなかった。城から私は連れ出されて、彼についてどこかを目指し歩き続けている。
夜の静寂を切り裂くように、冷たい風が吹き抜ける。草木の間をすり抜ける足音は、できるだけ小さく、それでいて確実に進んでいく。
「ここから先は、より慎重に行動してください」
彼の声は低く、周囲を警戒するように静かに響く。私は頷き、彼のすぐ後ろをついていく。
私は今、”逃亡中の姫”という立場にあった。戦の混乱の中、敵に見つかればどうなるかわからない。利吉は何度も念を押すように、私に言い聞かせた。
「目立つような行動は慎んでください。決して、私の指示に逆らわぬようお願いいたします」
「……わかりました」
彼の言葉には、冷静な中にも少しの緊張が混じっていた。戦が激しいこの土地では、いつどこで戦が起こるかわからない。だからこそ、慎重に慎重を重ねて行動する必要があった。
道を進んでいると利吉がふと足を止め、私の方を振り返る。
「もしものために、自分の身を守る術はお持ちですか?」
その問いに、私は少し戸惑った。考えてみれば、私は護身のために小さな刀を持たされていた。私はそっと懐からそれを取り出し、彼に見せる。
「……これなら」
利吉は刀を見つめ、少し考えるように目を細めた。
「なるほど、ですが……それをもしもの時に振るえますか?」
その問いに、私は何も答えられなかった。
「……わかりません」
小さな刀を握る手に、微かな震えを感じる。いざという時、自分はこの刃を振るうことができるのか。敵を前にして、果たして戦えるのか。それを考えると、不安が胸の奥に広がっていく。
利吉は少しの間、私をじっと見つめていたが、やがて静かに口を開いた。安心させるように微笑みを浮かべている。
「あなたをお守りするのが私の仕事ですから、それをあなたが万が一にも抜くことがないようにしますよ」
彼はそっと刀を押し戻すように手を重ねた。しかしまた真面目な表情に戻る。
「しかし――――いざという時のために、少しずつでも慣れておいたほうがいいかもしれません。戦場では、一瞬の判断が生死を分けます」
その言葉の重みが、冷たい空気と共に私の胸に深く沈み込んだ。人を傷つけてまで私は、本当に生き延びられるのだろうか。生きろと願われたのなら私は生きなくてはならない。それでもやはりためらいはある。
遠くで、かすかに狼の遠吠えが響く。夜の闇は深く、私たちはまた歩き出した。
森の中を進みながら、私は利吉の後ろ姿を見つめた。暗闇の中でも迷いなく歩くその姿は、まるで影のように静かで、頼りがいがあった。人が通る道ではない場所を通るが彼が支えたり手を引いてくれるため比較的歩きやすい。何度か転びそうになるたびに助けてもらうのは申し訳がなかったが……。
「信頼のおける知人に文を出しておきました。ですが……姫の身分を考えると、今後もしばらく身を隠せる場所が必要です」
利吉は低い声でそう言いながら、ふと振り返る。
「そこで、安全な場所として忍術学園へ向かうことにしました」
「忍術学園……?」
聞き慣れない言葉に、私は思わず問い返した。
「忍者を育てる学園です」
忍者を育てる、という言葉に、私は驚きとともに興味を抱いた。そんな場所があるなんて、考えたこともなかった。まだまだ知らない世界はあるのだな、と思う。
「……その場所で、本当に匿ってもらえるのでしょうか?ご迷惑にはなりませんか?」
「頼んでみる価値はあります。学園には様々な者が出入りしますし、目立たずに身を隠すには適した場所です。それに、私の父もそこで務めております。腕は確かです」
利吉の言葉には、自信と誇りが滲んでいた。
「お父様が……」
「はい。学園に着けば、姫の身を守る手助けもできるでしょう」
私は静かに頷いた。まだどんな場所なのか想像もつかないが、今は安全な場所が必要だった。何も知らない私よりもプロである彼の言葉に従った方がいいだろう。それに、短期間絵はあるが彼のことは信じて大丈夫だと思う。利吉がそう言うなら、きっと信じられる場所なのだろう。
「では……頼みます」
私の言葉に、利吉は小さく頷き、再び前を向いた。
「ええ、急ぎましょう」
風が枝葉を揺らし、夜の森がざわめく中、私たちは忍術学園を目指して歩き続けた。
夜の冷たい風が頬をかすめる。森の中を歩きながら、私は時折、足元の枝を踏まないように慎重に歩みを進めていた。
「追われる身となり、お辛いでしょうが……どうか、気を確かに」
利吉の静かな声が、闇の中に響いた。振り返ると、彼は変わらぬ落ち着いた表情で、まっすぐにこちらを見ていた。その目には、ただの任務としてではなく、私を気遣う誠実さが感じられる。
「……ありがとう」
私は小さく頷いた。怖くないと言えば嘘になる。これからどうなるのかもわからない。ただ、今は前に進むしかない。きり丸もいない。殿もいない。もう私は一人で生きていかなくてはいけないのだ。利吉もおそらく送り届ければ仕事を終えるので、長い付き合いになるというわけではないだろう。少し寂しく思う。
私の言葉に利吉は少し考えるような素振りを見せたあと、言った。
「姫と呼べば、身分が露見してしまう恐れがあります。今後は、名前で呼ばせていただきます」
その提案に、私は少し驚いたが、確かにそのほうがいいだろうと納得した。
「……わかりました」
頷くと、彼は少し安堵したように見えた。
「それと……敬語は、いりません」
私は軽く笑ってそう言った。堅苦しくされると、どこか距離を感じてしまう。それに、今は身分を隠しているのだから、普通に接してくれたほうがありがたいと思ったのだ。
しかし、利吉は少し困ったような顔をしながら、静かに首を横に振った。
「……一応、立場上のこともありますので」
そう言って、彼はやはり敬語を崩さなかった。その頑なさが少しおかしくて、私は小さく笑った。
「そう……じゃあ、好きにして」
「承知しました」
利吉は相変わらずきっちりとした口調で答え、再び歩き始める。私はそんな彼の後ろ姿を見ながら、少しだけ安心感を覚えていた。
森の中をひたすら進む。夜の闇は深く、枝葉の間から覗く月の光だけが、わずかに道を照らしていた。足元の落ち葉が踏みしめられるたびに、かさりとかすかな音を立てる。風が木々を揺らし、森の奥からは獣の遠吠えが響く。冷え込んできた夜気が、頬を撫でるように流れていた。私は利吉のすぐ後ろを歩きながら、忍術学園という場所までの距離を考えていた。どれほど歩けば辿り着けるのか。そこはどんな場所なのだろうか。
利吉は時折立ち止まり、周囲を見回してから再び歩き出す。彼の動きには迷いがなく、まるで夜の闇に溶け込むように軽やかだった。私はできるだけ音を立てないように、彼の後をついていく。
しばらく進んだところで、利吉が足を止めた。
「ここで少し休みましょう」
彼は落ち葉の少ない地面を選び、荷物を下ろした。冷たい空気が漂う森の中、火を起こすことはできない。私はその場に腰を下ろし、固い地面の感触を確かめる。
「夜は冷えます。これをどうぞ」
利吉が手渡してきたのは、彼の羽織だった。柔らかい布地が月光に照らされ、微かに光る。私はそれを受け取りながら、首を横に振った。
「大丈夫、山で寝るのは少し前まで何度もあったから」
寒さには慣れているつもりだった。火のない夜も、岩場で眠ることも、今まで何度も経験してきた。だが、利吉はその言葉に少し驚いたような表情をした後、すぐに押し返すように、それを私の肩に掛ける。
「女性が体を冷やしてはいけませんから」
彼の声は穏やかだったが、有無を言わせぬ力強さがあった。私はしばらくその温もりを感じながら、彼の意図を受け取る。
「ありがとう」
小さく呟くと、利吉は静かに微笑んだ。
「当然のことですよ」
彼の笑顔は珍しく、その穏やかさに、心の中の緊張が少しだけ解けたような気がした。
夜が更け、森の静けさが深まる。遠くでふくろうが鳴き、木の葉が風にざわめく。横になったものの、私はなかなか眠れなかった。冷えた空気が肌に触れるたびに、意識が覚醒し、胸の奥で不安が膨らむ。
ふと、隣に座る利吉の姿を目にした。彼は目を閉じているが、完全に眠っているわけではないだろう。警戒心を解くことなく、必要であればすぐに動けるようにしているのだ。
「……利吉って、どんな人なの?」
ぽつりと呟いた私の声に、彼は起きていたのかうっすらと目を開けた。
「早く寝ないと、明日に響きますよ」
そう言いながらも、彼は私の顔をじっと見つめる。私はその視線に少し戸惑いながらも、続けた。
「……気になりますか?」
私は小さく頷く。
「城ではね、みんな取り繕って、私に何も話してくれなかったんだ。それが少し、寂しかった……」
自分でも意外なほど素直に言葉が出た。城では、誰もが丁寧に接してくれたが、それは本当の意味での交流ではなかった。誰も本音を話さず、私の周囲には見えない壁があった。殿も同じように本心から語り合える人が欲しかったのかもしれないが、ずっとそういった人がいなくて寂しかったのかもしれない。少しだけあの場所にいた私でもそうなのだから、彼の孤独はもっと深かったのだろう。
私の言葉に利吉はしばらく考えているようだった。やがて、静かな声が森の中に響いた。
「私は、辺境と呼ばれるような山で生まれました、冬はひどく冷え込む山です」
私は思わず彼の顔を見た。
「……父は忍びで、私は幼い頃から、父の背中を見て育ちました」
利吉は遠い記憶を辿るように、静かに話し続ける。
「強くて、頼もしくて……いつか自分もああなりたいと思って、修行に明け暮れていました」
彼の声には、淡々とした響きがあったが、その奥には確かな憧れと誇りがあった。私はしばらく黙って、彼の言葉を噛みしめる。彼もまた、家族の影を追いながら、必死に生きてきたのかもしれない。
「今日はこの程度にしておきましょう……早く、お休みください」
利吉の言葉に、私は目を閉じた。
「うん、おやすみ。また明日聞かせてね」
「ええ……また明日」
冷たい夜の中、彼の声だけが微かに温かく感じられた。風がそっと木々を揺らし、森の静寂が二人を包んでいた。
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