依頼を受けて護衛を任された姫君――――彼女の姿を横目で見ながら、私は考える。
利吉はプロの忍者として、護衛の任務を受けている護衛対象の女の事を観察した。
顔は美しい。端正で、月の光に照らされるその白い肌は、貴族の娘らしい気品を感じさせる。だが、彼女から受ける印象は、いわゆる格式高い姫というものとは少し違った。
どこかぼんやりとしていて、掴みどころがない。
このような戦乱の世において、普通ならばもっと警戒心を持つものだが、或いは姫君ならその心構えを持っているが、彼女は驚くほど無防備だった。人を疑うことを知らないのか、それとも自分が危険にさらされている自覚がないのか。おそらく、殴られたとしても、反撃しようという気性すら持ち合わせていないだろう。
受け身な女――――そんな印象だった。
山道を歩く足取りもぎこちない。慣れない土地だから仕方ないとは思うが、注意深く歩いているつもりでも、小さな石に足を取られてよろめくことが多かった。
案の定、転ぶ。
「……大丈夫ですか?」
私は手を差し伸べる。彼女は少しばつが悪そうにしながらも、静かに頷いて立ち上がった。依頼を受けた時、彼女は自分より年上の女性だと聞いていた。確かにその美貌には落ち着いた雰囲気がある。だが、こうして世話を焼いていると、まるで手のかかる妹のように感じてしまう。
野に咲く美しい花――――姫というよりは、そんな印象のほうがしっくりくる。派手な華やかさではなく、ひっそりと、けれども確かにそこに咲いている花のような魅力を持っているのだろう。
殿は肥えた土で美しく咲き誇るように育てられた花よりも、野に咲く花を美しいと慈しんだのだ。
私は深く息をつき、彼女が再び転ばないように前を歩きながら、慎重に足場を選んで進んだ。
私は無言で前を歩きながら、後ろをついてくる姫君の気配を感じていた。彼女は夫を亡くし、城を追われた。そして今、行く当てもない。殿からは天涯孤独だと聞いている。弟のような存在はいたが消息はつかめていないらしい。生き別れのような状態だと。
後ろ盾も何もない姫が、この乱世でどこかに守られるなど、ありえないことだ。殿も、それをよく理解していたのだろう。だからこそ、ただ逃がすだけでなく、生き延びられるようにと私に護衛を依頼したのだと思う。
彼女は、何も知らない。
生きるための知識も、争いの厳しさも、誰かを疑うことすらも知らない。まるで無垢な子供のような女だ。
平凡に生まれ、平凡に死んでいく運命を受け入れるような、そんな女。
しかし、だからこそ、守るべきか弱き存在でもある。
この世は、そうした弱き者に冷たい。誰かが手を差し伸べなければ、簡単に踏み潰され、消えていく運命なのだ。それを誰かが守ってやらなくてどうする。私は無言のまま、彼女がついてきているのを確認しながら、また一歩、前へと進んだ。
しばらく過ごすうちに彼女の話をいくつか聞いた。
山で寝起きしていたという言葉に、少し驚きながらも、姫という存在からどうしても想像しきれなかった。彼女が本当に姫だったのだろうかと思いつつ、もしかしたら何かしらの経緯があったのかもしれない、と考える。
平民であっても、顔が良ければ城主に見初められ、嫁ぐことも珍しくない。しかし、彼女はそれほど説得力のある顔をしていた。美しさだけでなく、どこか清らかで、目を引くものがあった。
だが、気難しく神経質で、母親の意見にすべて従うという噂の殿が、彼女を守りたいと思った理由は一体何だったのだろう。私にはわからないが、きっと、彼女と殿の間にしかわからない何かがあったのだろうと、私は感じていた。父と母のように深い絆で結ばれるような、二人に芽生えた感情があったんだろうか。まだそういった相手とは出会えていないため、私にはわからないことだと利吉は思った。
ひとまず、彼女を忍術学園に預けることに決めた。だが、彼女がどう生きていくかは、彼女自身が考えなくてはならない。今後どうなるのかは誰にもわからないが、この時代に一人の女が生きるのは決して簡単なことではない。彼女にとって、未来をどう切り開くかは、結局のところ自分次第だ。
私には、未来を約束することはできない。しかし、未来につながる手伝いはできる。今はその時が来るまで、できる限り手を貸してやろうと思った。
彼女の目には、どこか無垢なものを感じた。生きる力を持ちながらも、まだその力をどう使うべきか知らないような、そんな弱さがある。だからこそ、私は彼女を憐れんだのだろう。
旅の途中、彼女は何度か昔話をせがんできた。最初は少し戸惑ったが、彼女が楽しそうに耳を傾ける姿に、次第に話している自分が心地よくなって話してしまう。
ぼかせばよかったのに、なぜか私は馬鹿正直に話してしまっていた。自分でも驚くほど、心の奥底のことまで語りだしていた。自分は女性に弱かったのだろうかと、少し苦笑してしまう自分がいた。
名前や経緯を伏せながらも、兄のような存在がいたことを話すと、彼女は嬉しそうに目を輝かせて聞いてくれた。その様子に、私はつい話したくなってしまった。彼女は本当に聞き上手だ。無自覚にでも、それがすごいことだと思う。
話を続けるうちに、彼女の表情が少し沈んだ。悲しそうに目を伏せるその姿に、何か心の中で気になるものが湧き上がった。
「どうしたんですか?」
私は、彼女が何か悩んでいるのではないかと心配になり、問いかけた。彼女は静かに答える。
「私にも、弟のような人がいて、でも、もう会えなくなってしまったの……文を出したりしていたのだけれど、ある日から全然連絡が取れなくなって……元気にしているか、すごく心配で
」
その言葉に、私は心が痛むような感覚を覚えた。彼女の過去にも、こんな切ない思い出があったのだろうか。
「もう一度会えたら、その時には、ただ一人にしてごめんねって、謝りたくて……」
彼女の声は、泣いてこそいないが少し震えているように感じた。その話を聞きながら私は自然に彼女の手を取っていた。
「きっと、また会えるよ」
その言葉が、どれほど彼女を励ましたのかはわからないが、彼女は安堵したように微笑みを見せてくれた。その笑顔が、どこか切なくて、でも美しくて、私は思わず見惚れてしまった。
綺麗な顔で笑う彼女に、無自覚に身が引き寄せられる。何かが胸の奥で温かく広がっていくような、そんな気持ちになってしまう。無意識に、私はその瞬間にどっぷりと浸かっていたのだ。
いけない。これは毒だ。
自分は思ったよりもほだされているのかもしれない。よりにもよって護衛対象である姫に。
私たちは人の通らない場所を通り、できるだけ目立たないように移動していた。食料を手に入れるためには、自分たちでどうにかしなくてはならない。町まではまだ少し距離があり、正直言って、飲まず食わずで頑張れというのは、鍛えられてもいない彼女の身には無理だろうと感じていた。
下流に向かうと、川が見えてきた。その水の中には魚が泳いでいる。彼女はその様子を見て、目を輝かせている。
「魚を取ろう」
その言葉に驚きながらも、私は静かに頷いた。食料確保のためなら、協力しなければならない。私は静かに袖をまくり、川に足を踏み入れようとしたが、彼女はそのまま勢いよく袖をまくり、川に向かって突き進んだ。
「えっ、ちょ、……ちょっと待って!」
私は慌てて声をかけるが、彼女は気にせず、無邪気に笑って水の中に手を伸ばす。
「大丈夫、できるから!」
その様子に、私は一瞬呆気に取られた。お姫様がこんなことをするなんて、本当に信じられなかった。彼女は豪快に水をかき分け、魚を捕ろうと必死に手を伸ばしている。
「ほんとうに、お姫様なのか?」
私はあきれながらつぶやいたが、彼女は私の言葉も気にせず、ますます勢いよく魚を取ろうとする。転んでは危ないと手を伸ばしたその瞬間、私も一緒に足を踏み外し、川に足を取られて転んでしまった。
「あっ、利吉!」
彼女が驚いたように叫んで手を伸ばすが、その瞬間、私は彼女と一緒にずるっと滑って転び、結局お互いに服が水で濡れてしまった。
「ご、ごめんなさい…………」
「なに、これくらい…………」
私は笑いながらも、気まずさを感じつつ、服の中に魚が入ってしまっているのを感じた。どうにか魚を吹くから出そうとするさまを見て彼女はまた笑い出し、私の反応を見て笑っているようだ。むっとした表情をすればごめんなさいとまたはにかむ。
調子を崩されて、私は思わず彼女の無邪気な笑顔に引き込まれた。その笑顔が、どうしてもかわいくて、私は少し照れくさい気持ちを抱えながらも、しばらくそのままでいた。
春のひだまりのような人だ。その声が、笑みが心地いい。
川のほとりで魚を取っている間、ふと昔のことを思い出していた。お兄ちゃんと慕っていた男と一緒に川でカニを採ったことがある。あの頃はまだ子供で、何もわからないまま楽しんでいた。でも、彼はよく川を見つめて、何かを探しているような目をしていた。
何を探しているのかと聞いた自分に、遺体だと答えた彼は、あの時何を思っていたのだろう。日常の中で触れた誰かの死は、あっさりと語られたものだから最初はよくわかっていなかった。
そんなことを言っていたのを、ぼんやりと覚えている。あの時はただ、大好きなお兄ちゃんと一緒に遊んでもらえて、川でカニを採るのが楽しくて、突然に彼が言ったその言葉の意味をよく理解していなかった。けれど今になって思うと、きっと彼は何か大切なものを川で失ったのだろう。
ふとした時、彼のあの薄暗い目が浮かんできて、その目には深い悲しみと後悔が色濃く残っていた。あの時の目は、じっとりとした暗さがあった。それが今も忘れられない。
「元気にしているかな……」
そう呟いて、私は少しだけ懐かしさを感じながら川の流れを見つめる。学園に行くときには、もしかしたらまたあの男に会えるかもしれない。もしそうなら、もう一度家に帰ってこないか、声をかけてみようと思っている。
また明日。
その言葉をお兄ちゃんに言えば、また明日と約束が帰ってくるのがうれしかった。今では私は彼女にまた明日、と私の昔話をせがまれる。
悪い気はしなかった。
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