忍術学園の門をくぐってしばらくした後、話し込んでいる二人の男性の内、若い男性が突然駆け寄ってきたと思うと、驚く間もなく強い力で抱きしめられる。抱きしめる腕の力は強く、まるで二度と離すまいとするかのようだ。男の体温が伝わり、微かに震えているのがわかる。抱きしめられたまま、私は戸惑いの中にいた。
「会いたかった、心配したんだ……私は、……ほんとに君が死んだんじゃないかって…………」
声が震えている。深く沈んだ声音には、抑えきれない感情が滲んでいる。彼の腕の力は弱まるどころか、さらに強くなる。まるで現実であることを確かめるかのように、離すことを拒むように、彼は抱きしめたまま動かない。まわりの視線を感じるが、何も言えない。何もわからない。
「土井先生、さすがに離れなさい。彼女が困っている」
静かに諭すような声が響く。中年の男性の声だ。だが男は応じる様子を見せない。まるで聞こえていないかのように、ただ私を抱きしめ続ける。異様なまでの執着を感じる。私はこの人を知らない。それなのに、彼は私を知っている。まるで何かを失い、それを取り戻したかのように、離そうとしない。
「あ、あの……」
さすがに離してもらおうと思って声をかけたその瞬間、彼の腕がわずかに震える。顔を上げ、私の顔をじっと見つめる。その瞳には、驚愕と戸惑い、そして信じられないといった色が浮かんでいる。長い沈黙のあと、彼は低くつぶやく。
「……声?」
不思議そうな声だ。私が言葉を発したことに動揺しているように思える。彼の反応が理解できない。私はどこかでこの人に会ったことがあるのだろうか。記憶のどこかを探るが、何も思い出せない。しかし彼は、私を知っている。それもただの知り合いという程度ではないのはなんとなくわかる。それは、私に対してあまりにも強い感情を抱いているように思えた。あの城で何度か見てきた私はなんとなくだが、男のこの顔は執着にも似た感情が、彼の瞳の奥に見え隠れしているように思えた。
私が知らない何かを、彼は知っている。彼の瞳の奥にあるものの正体がわからない。彼は明らかに混乱している。私の顔を何度も見つめ、まるで答えを探すような目をしている。
「しゃべれるように、なったのか……?」
「あ、あの……あなたは、誰ですか?すみません、私、昔の記憶がなくて…………」
「――――……私を覚えていないのか?何も?」
息をのみ彼の目がわずかに見開かれる。紡がれる言葉は迷子の子供のような声だった。まるで信じたくない現実を前にしているようだ。彼の問いに、私はゆっくりと首を振る。知らない。何も思い出せない。彼はそうか、と呟き、俯いた。その表情は見えない。だが、彼の手の力は緩まない。指先は僅かに震えている。執着にも似た感情が、彼の中にあるのが伝わる。少し雰囲気が怖い。逃げ出したいと思うが、彼は離してくれそうにない。緊張する。どうすればいいのかわからない。
彼はただ立ち尽くしていた。目の前に立つ私を見つめ、表情はどこか困惑しているようにも、絶望しているようにも見える。手が私の肩に触れていて、離すことはない。触れる手が微かに震えているのがわかる。私の心は、なぜかその震えに引き寄せられるようだった。何か、大きな過ちを犯してしまったのではないか。胸の中でその思いが何度も繰り返し響いている。
「あ……あの…………」
私は言葉を探し、口を開こうとするが、息が詰まり、声はうまく出てこない。彼の目が、私の瞳にしっかりと絡みついている。深い闇の中に吸い込まれるような感覚を覚える。どうしてこんなことになったのか、答えを探しながらも、どこかで自分が不安でいっぱいであることに気づく。
言葉が出ない。彼の絶望に染まった目はまるで、心の中で何か大切なものが崩れていくのを感じているかのようだった。それでも、私の肩を離す気配はない。どうしてあげればいいのだろうか。彼の目は揺れるばかりで、何も答えようとはしない。
その間に、他の人々の気配が耳に入ってくる。視線を反らすと中年の男性と利吉が、少し距離を取って私たちの様子を見守っているのがわかる。中年の男性は困惑しながらも、私たちの間に割って入るつもりはないらしく、そのまま黙っている。しかし、利吉が彼を一瞥し、彼に向かって言葉を投げかけた。
「父上……」
利吉が何かを促すように告げると、彼は頷いている。
その頷きを了承と取ったのか利吉は私と目の前で立ち尽くしながらも手を離さない男性との間に割って入る。
「土井先生、その方は私の護衛対象であり、学園長の客人です」
利吉の声は、静かながらも鋭いものがあった。彼の一言で、少しだけ空気が変わるのが感じられる。目の前の男性が、ほんの少しだけ私から目をそらし、利吉を見つめた。何かを言いたげな視線だ。
利吉が助け舟を出すように入ってきてくれたが、それでも私たちの周りにはどこか緊張が漂っている。利吉が言葉を続けようとするそのとき、突然、土井が私の手を強くつかむ、あまりに強い力に驚き身じろぐが、利吉に向かって、まるで詰め寄るように言葉を投げた。
「利吉君、邪魔しないでくれ」
たった一言、土井と呼ばれた男の声には、いくらか強い意志が感じられ、彼の表情は確かに利吉に対して警戒心を抱いているようだった。
だが、利吉はその圧力にも負けず、静かに答える。
「彼女は学園長の客人で、ここに来ることになっていたんです。仕事でここに連れてきました。だから、これ以上の詮索は無用です」
その言葉は、強い決意を感じさせたが、土井はしばらく沈黙してから、少しだけ視線を私に向けた。何かが彼の心にあるのだろう。薄暗い月のない夜みたいだ。
相変わらず強くつかまれている手は離れない。少し痛くなってきた。
「土井先生!」
たしなめるように利吉が促す。ぎりぎりと力のこもった手はまるで私の手を折るような勢いだ。
「半助」
中年の男性が土井に呼びかける。そうして彼ははっとして男の方に振り返り、もう一度私たちの方を見た。彼の視線は、今度は少し冷静になり、どこか悩ましげなものが見て取れた。私はその視線に少しだけ圧倒され、なんとなく肩をすくめてしまう。ようやく手を握る力が弱まった。
その時、男が再び静かに土井に声をかけた。
「半助、何があったかは知らんが利吉は学園長のもとに彼女を送り届けなくてはならないのだろう、なら見送るべきではないか?」
山田先生の口調は窘めるように優しいものだったが、そこには確かな指示が込められていた。土井は一瞬だけ黙り込んだ後、最終的に納得したようにうなずくと、彼は再び黙って一歩引く。その瞬間、私は少しだけ息を吐き出すことができた。しかし、心の中で消えない不安が広がる。何が正しく、何が間違っているのか、全くわからない。
その後、私たちの間に一瞬の静寂が訪れた。利吉が少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。それは、私たちがこの後どうするべきか、どうなるべきかを考えているかのようだった。そして、私を見て、少しだけ微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですか?」
その言葉には、どこか安心を求めるような優しさがあった。しかし、その優しさに私はどうしても素直になれなかった。そのとき、土井が私の方をじっと見つめていたためだ。その目が、私にとってはとても冷たいものに感じられて、まるで、蛇に睨まれた蛙のようだった。
私は彼に何をしてしまったんだろうか。
記憶にないというのは困る。私は彼と何かあったのだとしても何も覚えていないのだから。促されるまま利吉に手を引かれ、土井と呼ばれた男の目線から逃げられないような圧力を感じながら、私はただついていくことしかできなかった。
ずきずきと 手が痛む。
利吉は私を静かに学園長の部屋へと案内した。暗い廊下を歩くその足音は、重く響く。
土井と呼ばれた男性と、おそらく利吉の父であろう男性も後ろからついてきたようで、見送ってくれるのだろうか、と思いつつ先ほどのこともあるため少々不安に思う。
一瞬気が付かなかったが彼らの足音はとてもわずかなもので、足音を殺しているようだ。忍者の学園ということもあって彼らも忍びなのだろう。改めて私は知る由もない場所に来てしまったのだと思った。
周囲には楽しそうに笑う子供の声が響くが、夜が近いためか静けさもあり、その静寂が私の心に余計な不安を呼び起こすようだった。利吉に案内されるまま庵に向かう。
「失礼します」
利吉が挨拶をして名を名乗り、入るがよいと声が掛かって部屋に入ると、学園長と思わしき年配の男性が机の前で書類に目を通していた。彼の姿を見て、利吉は近づき私も続くように歩く。挨拶は一通り白で習っておいてよかったな、と思う。目上の人物に失礼がないように立ち振る舞い、自分も挨拶を済ませた。
学園長は一瞬私を見た後、優しく微笑みながら、軽く手を振る。
「そう畏まらずともよい」
その声は、予想外に温かかった。だからだろうか私の心がほんの少し軽くなった気がする。少しだけ顔を上げると、学園長は穏やかに続けた。
「あなた様が頭を下げるのはわかるが、ここではもうそんなに気を使うことはない」
その言葉に、私はほんの少しだけ安心した。緊張した状態のままここまでずっと逃げてきたからだろうか、大丈夫だと言われると、途端にほっとしてしまったのだ。利吉はいるが、私はずっと迷子のようなものだったから。その言葉に少しだけ周りが見えるようになった気がした。
利吉は学園長に私の身の上や経緯を簡潔に話をしている。彼の話し方は、いつも通り冷静で、かつ落ち着いていた。それでも、私にとってはその声がどこか遠く感じられる。彼が語る内容は、私にとっては既知のものだが、他の者たちにとっては初めて聞く話である。彼が話す内容は、私の身に起きたすべての出来事だ。城が他勢力に落とされ、私はただ一人で逃げるしかなかったこと。少し前までの日常があっという間になくなった、いつもそうだ、きり丸と一緒にいたこともまるで夢みたいに昔のようだ。
「手紙ではすでにお伝えしたかと思いますが」
利吉は一度間を置いて、学園長を見ながら言葉を続ける。
「彼女の城が落ち、命を守るために逃がされたという状況です」
その言葉を聞いて、学園長はうなずきながらも、しばらく黙っていた。彼の目は、何かを考えているようにも見えた。その静けさに、私はまた胸の奥が重くなる気がしていた。
しばらくの沈黙の後、学園長がゆっくりと口を開く。
「頼りにできる場所はいくつかある」
彼は静かな口調で言うと、私に向かって少しだけ手を広げた。
「例えば金楽寺という寺がある。あそこならば、身を隠すには良い場所だろう」
学園長の提案に、私は思わず少し考え込む。金楽寺。おそらく寺なのだろうが実際にどんな場所かはわからない。落ちぶれた豪族たちや孤児たちも寺に行くことが多いという。知らない場所に不安は覚えるが、今の私には他に選択肢もないような気がした。
頷いて聞いているその時、不意に部屋の扉が開き、部屋の外にいたはずの土井が入ってきた。後ろで窘めようとする男性が土井の肩をつかむが、彼は臆することなく一歩踏み出すと、すぐに学園長に向かって礼をしながら「失礼します」と告げる。その口調には、どこか急かすような焦りが見え隠れしているように思う。
「土井先生、どうかしたかのう」
土井は少しだけ視線を下ろしてから、私たちに向き直ると、静かに言った。
「折り入ってご相談があります、彼女をここに置いてはいただけませんか」
その言葉に、私の胸は何かで締めつけられたような気がした。それを聞いた周りの者たちは、誰もが驚いたように目を見開いた。特に利吉の表情には、わずかな動揺が走っていた。彼の眉がわずかにひそめられ、何かを確かめるように土井を見つめている。その視線を感じながら、私は言葉を失った。
学園長も少し驚いた表情を見せた後、静かに土井に向かって問いかける。
「それはどういう意図があってのものか?」
その声には、冷静さが感じられる。しかし、その冷静さにはどこか疑念が含まれているようにも思えた。
土井は一歩前に進み、今度は私の方を見て、少しだけ顔を背けながらも言った。
「彼女を守るためには、ここが一番安全だと思います。学園の力を借りることで、何かしらの助けになるかもしれない」
その言葉を聞いて、動揺する。私はただでさえやっかいな身の上なのだから身を寄せる場所を紹介してもらえるだけでも頭が上がらない立場だ。ましてやここに身を置くなどやっかいなことこの上ないだろう。けれど土井の目は真剣で、譲る気はないというような態度だ。
その場にいる誰もが、この申し出に驚き、しばらくその場の空気が固まったようだった。学園長は、少しだけ唇を引き結んだ。彼の目には、何かを考えている様子が見て取れる。利吉も、土井の言葉に対してどう反応すべきか迷っているようだった。彼の視線が、私から学園長へと移り、そして再び土井に戻る。その視線のやり取りが、言葉を交わさずとも何かを伝えているように感じた。
しばらくして、学園長は深い息をつき、ゆっくりと答えた。
「ここに彼女を置くというのは、少し考え直さなければならない。だが、土井先生の申し出は理解できる」
その答えに、私は少しだけ胸を撫で下ろしたが、心のどこかでは再び不安が湧き上がっていた。土井の申し出が本当に正しいことなのか、わからない。しかし、彼の真剣さに、私はどうしても無視することができなかった。私を心配してくれているのかもしれない。そう思えたからだ。
利吉と彼の父と思わしき男性はその後、じっと土井を見つめたまま、静かにその場の空気を見守っている。
土井が言葉を重ねるたびに、その内容は私の心に次々と重くのしかかってくる。寺に身を隠すこと、尼になることが提案されたが、それに対して土井は決して譲らない様子を見せていた。彼の言葉には、ただの心配だけではなく、何か深い思慮が感じられる。それは、私を守ろうとする強い意志から来ていることが伝わってきた。けれど私を見守るその目は、どこか鋭さを帯び、心の奥を覗き込むようで少し居心地が悪い。まるで熊がとらえた獲物に執着するかのような……。
「彼女をここに置くことに、なぜこだわるのか。それは土井先生の個人的な事情か?」
「そう捉えてくださってもかまいません、私は、彼女をこのまま放りだせないだけです」
学園長は一度黙って、土井の言葉をじっと聞いていた。その後、静かに「そうか」と呟きながらも、うなずく。含みを持たせたそのうなずきは、単なる同意ではなく、何かを決断したかのような響きがある。その後、学園長は私に向かって、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「あなた様がどういう立場であろうとも、しばらくはここで落ち着いて過ごすことができるじゃろう。身分が身分であるから、追ってくる者がいることはわかっている。しかし、立場を見るにおそらく追う者はそう多くはないだろうとも」
学園長の言葉には安心感があり、それと同時に、これからどう生きていくのかを考えさせられる何かがあった。優しさだけではなく状況をしっかりと考えたうえで紡がれているようにも。
「国を追われ、親族もおらぬとなれば、逃げる先もないだろう。だからこそ、ここで匿うことを許可する」
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸を撫で下ろす。もし学園に匿ってもらえれば、少なくとも今は、追われる身の不安から解放されるのだろう。しかし、まだ心の中で、受け入れられるのかどうか確信は持てなかった。彼らが危険にさらされることはないのだろうか。
学園長はしばらく私をじっと見つめ、そして静かに言葉を続けた。
「だが、ここは学園であり、忍者の卵を育てる学び舎である。あなたを姫として特別に扱うことはできないとはご理解いただきたい」
その言葉には、厳しさが感じられた。姫という立場を捨て、学園で働く覚悟を持つ必要があるということだろう。それは当然だ。私は身分を捨てて、ここで生きる覚悟を決めなければならない。もとよりあの城が燃えた時点で私はもう何も残っていないのだ。きり丸もどこかに行ってしまった。
その言葉を受けて、私はしっかりと頷いた。姫としての待遇を求めることはできない。それは理解しているし、もはやその身分に縛られることはないのだと、私は心の中で確信を持ち始めた。
目を閉じれば今でも思い出す。殿は私に生きるように言った。外に出られずに夢を見ることをあきらめた人が私に夢を見ろと、逃げろと言ったのだ。
”お前には、逃げてほしい。ここにいても、何もできることはない。だから、早く逃げろ。お前はきっと戦いの中では生き残れない、逃げることもしない、お前はそうなれば死ぬだろう、だから逃げろ”
逃げて、逃げて、どこまで行けるかわからない。それでも彼の見たかった夢を私は継いだのだと思う。彼の代わりに。
ならば地に足を付けて生きなくてはならない。
「自分は働くことに問題はありません」
そう答えると、学園長の目に少しばかりの驚きが浮かんだが、優しく微笑み頷いてくれる。
何の仕事ができるかと尋ねられると、私は少し考えてから読み書きは得意です。多少は習い事をしたのである程度の教養はあるため、雑用を任せられるかと思います。そのように言葉にすれば満足そうにうなずいていた。私は少し安堵する。少なくとも、学園で何か役に立つことができるのだと思えば、少し気持ちが楽になったためだ。
あの城にいたことで知ったことも多くある。ならばその知識を生かしてあたらしい世界を広げよう。
不安を感じながらも、新しい可能性が広がることに私はわくわくとした気持ちが湧いてきた。
「ご配慮いただき、ありがとうございます」
私は深く頭を下げ、感謝の意を示した。その言葉が口をついて出ると、学園長は穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「ここに来たのも、何かの縁じゃろう励みなさい」
その笑顔には、温かさがあふれていて、私はその言葉に少しだけ心が軽くなるのを感じる。彼は人格者なのだと思う。笑顔が、作り物ではない。何か含みがあったとしても私の事を受け入れてくれているように思えた。認められるかどうかはわからないが、やれるだけやってみよう。
その時、学園長の横にいる犬が、ヘムヘムと鳴きながらも、首をかしげるようにしてうなずいている。私はその光景に少し驚き、思わず目を丸くした。まるで犬がその会話を理解しているかのように、まるで学園長の言葉に同意しているかのように見えたからだ。
学園長がその犬を見て、楽しげに笑う。
「ああ、ヘムヘムもあなた様を歓迎しているんじゃろうな」
その言葉に、私は少し微笑んだ。頭巾をかぶった犬の姿は、私にはどこか安心感を与えてくれるようで、わずかながらの安堵を感じる。
認められてよかったと、利吉の方を見れば彼もうなずいてくれて顔がほころぶ。だが、心の中では依然として不安が残っている。これからのことがどうなるのか、私は完全には予測できない。だが、この学園で働きながら、少しでも落ち着ける場所を見つけることができれば、少しは安心できるのかもしれない。
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