28

しばらくその筒を抱きしめたままで、静かな時間が流れていった。部屋の中はしんと静まり返り、外の風の音やわずかな物音が耳に届く。だんだんと、私はその静寂の中に浸っていたが、ふと、足音が聞こえてくる。誰かが部屋の前に立っている。顔をあげると、そこには土井の姿があった。

驚いて言葉を失う。どうして、今このタイミングで、こんな時間に? 彼がどうしてここにいるのか、全く理解できなかった。しかし土井は私の驚きに構わず、ゆっくりと歩み寄ってきた。その足音が、部屋の中で大きく響くように感じられる。やがて、彼は私の前に立ち、目を合わせもせずに膝をついてきた。私は動けず、その姿をただ見つめることしかできない。

夜の帳が下り、部屋の明かりも少し薄暗くなってきた頃、土井は静かに言った。

「あまりにも、似ている。別人だとは思えない、やっぱり”君”なんだろう」

その言葉が私の耳に届いたとき、体がひときわ震えるのを感じる。
思わず、目を大きく見開き、彼の言葉の意味を理解しようとすが、その答えがすぐには出てこない。土井の目はどこか遠くを見つめるように私を見ていた。顔を手でなぞるように近づいてきて、その指先が私の頬に触れた。私の息が止まる。



「どうして、ここに……?」


言葉が喉に詰まるように出てず、土井のその行動が、私にとってあまりにも予想外で、どう反応していいのか分からないまま見つめる事しかできない。
彼は何も答えず、ただ黙って私を見つめていた。その瞳に宿るものを読み取ろうとするが、どうしても分からなかった。土井は、まるで私が何かを掴むのを待っているようだった。

その時、私の胸の中にどこか冷たいものが広がっていくのを感じる。何かを感じ取らなければならないと頭では分かっているのに、心はその冷たい何かに引き寄せられているように思えるのだ。

その一瞬、時間が止まったような錯覚を起こす。

「君なんだろ? 君のはずだ」

彼の言葉は、まるで重く押し寄せる波のように私を圧倒した。土井は、私の目をじっと見つめて、確認するように告げる。


「――――君は、本当に彼女ではないのか、何も私の事を覚えていないと?」

その声色は、どこか恐ろしいものを帯びていた。私の心臓が一瞬、跳ね上がる。その言葉が胸に深く突き刺さる感覚に、しばらく動けなかった。私は震えながら、筒を抱きしめたまま視線をさまよわせる。その中で、何とか頷くことしかできなかった。答えるべき言葉が見つからず、ただそれだけが精一杯だった。

土井は、私の反応に対して何も言わず、ただ「そうか」と言った。その声は、どこか平坦で感情がこもっていないように聞こえたが、私はその中に恐ろしい感情が潜んでいることに気づいていた。夜の闇がその表情を覆い隠しているため、何も読み取ることができなかったが、その冷徹さが私を恐れさせるには十分だった。



「君を失った時、世界から色がなくなってしまったようだった」

その声に私の心は一層重く沈む。言葉が脳内で反響し、次第にそれが現実となって迫ってくる。どこか切なさを帯びたその言葉は、私の胸に深く刻まれるかのようだ。
恐ろしい。知りもしない男からの行為と執着に怯える。

次の瞬間、彼は強引に私を抱きしめてきた。あまりにも強い力で、私は息ができなくなるほどに圧迫された。まるで自分のすべてを抱きしめようとしているかのようだった。彼の腕の中で、体が動かせなくなる。恐怖と混乱が入り交じる中で、私はただ震えるばかりだった。


「すべてを失っていたとしてもかまわない、記憶も、なにもかも、君が忘れたっていい。ただ、もういなくならないでくれ、私の世界から」

彼は耳元で囁くように告げる。その声は、どこか歪んで聞こえた。母に縋りつく子供の様な、愛を求めるような声でもある。それは恋人を乞う声でもある。強く、強く私を抱きしめる彼の力が、私の胸に重くのしかかる。動けない。呼吸さえも困難になりそうで、私は必死に堪えようとするが、どうしてもその力に逆らえなかった。

恐怖が私の体をすべて支配していく。彼の言葉、彼の力、すべてが私を圧倒していく。どこかで私が感じている感情を、彼は知らずにただ押しつけてくる。少しでも抵抗しようとすれば、その力がさらに強くなりそうで、私はただじっと耐えるしかなかった。
その強い抱擁が、ますます恐ろしさを増していくばかりで。訳も分からぬままに受け止めていることで、彼の執着が、今ここでこんなにも重く、恐ろしい形で押し寄せてきた。



「もういなくなってはだめだよ」

彼は優しく私の頬を撫でた。その手つきは、まるで恋人に触れるような穏やかさを持っているが、同時にそれを拒絶することができないような、強い意志を感じさせる。言葉に込められた意味を、私はすぐに理解した。返答を間違えれば、どうなるのか。首が跳ねられるような恐怖が、私の胸にぐっと押し寄せる。

私はその圧力に耐えながら、どうにかして答えを見つけようと必死に思考を巡らせていた。が、彼は私の顔を見ながら、にこりと笑って告げた。

「そう緊張しないで、少し急ぎすぎたかな?」

まるでそれを冗談だと言わんばかりに。けれどその笑顔には、じっとりとした熱気がこもっていて、私はますますその圧力に苛まれることとなる。

「それ」と、彼は指を差して、私の手元に持っていた筒の容器を見つけた。無意識に、それを少し隠すようにして持つ自分に気づく。その反応を見逃さずに、彼は「大切なものなの?とったりしないよ」と、優しく頭をなでてきた。その優しさの裏に潜む冷たい予感に、私の背筋がピリッと震えるのを感じた。

「君が傍にいてくれる、それだけでうれしいんだ、ようやく抱きしめることができる、君に私の思いを伝えることができる」

そこには、本当に嬉しそうな気持ちが込められているように見えるが、それが私にとってどれほどの重荷になるかを思うと、胸が締めつけられる。彼は続けて、「話したいことがたくさんあるよ、私の教え子にも紹介したいな」と、まるでこれからもずっと一緒にいたいと言わんばかりに笑った。その笑顔は、一瞬だけ安心させてくれるようにも感じたが、次の瞬間、またその裏に潜む恐ろしさを思い出させる。

そして彼は、私の頬に口づけてきた。その温もりが私の頬に残るが、その後すぐに、彼はまた明日ね、と笑う。約束だ、と小指を絡ませられて約束を交わす。

彼はにっこりと笑いながら、「もう、私以外の男を部屋に入れてはだめだよ」と言った。その言葉は、最初は冗談のようにも聞こえたが、次第にその背後に潜む強い支配欲が感じられ、私は心の中で冷や汗をかいた。

彼は私の手を取ると、まるでそれを確かめるように「痕になってしまったね」と呟きながら、夕刻に私の手を強く握っていた箇所に触れる。その瞬間、私の肌に残る熱さと痛みを感じ、そこに確かに彼の手の痕が残っていることに気づいた。おそらく、痣になるだろう。痛かったかい?と優しそうに尋ねる彼の顔には、どこか温かさが滲んでいるのに、その目の光がどこか消えているように感じて、私はますます怖くなった。彼の瞳は、薄暗く深い色をしていて、まるでその中に何も映し出されていないようだ。まるで何かが壊れているかのような、その感覚に私は圧倒されていた。

「ごめんね、あとで包帯を巻いてあげようね」

彼は優しい笑みを浮かべて言った。しかし、その優しさが私にはむしろ不気味に感じられた。どこかで壊れた何かを感じ取るような、そんな気がした。
私は、包帯を巻かれながらもされるがままになっていた。動けない。逃げてもすぐにつかまってしまうだろうという確信があった。彼の手つきは、まるで幼子に触れるように慎重で、優しく、まるで恋人に触れるような温かさがあった。だが、その手つきが、私にはひどく不安を掻き立てる。なぜ覚えのない男にこんなにも深く感情を向けられるのか、その不安が私の心を締めつけていた。居心地が悪く、心の中でずっとその感覚が反響していた。

だからだろうか、私は思わず口に出してしまった。



「あなたと私は、どういう関係だったの?」


すると、彼はあいまいに笑って答えた。それに対して、私はさらに不安を覚えた。どんな関係だったのか、私には何も思い出せない。しかし、彼はその質問に答える代わりに、私に口づけをしてきた。その口づけは、まるで何かを思い出してほしいとでも言わんばかりだった。

「いつか思い出してね」

彼は微笑んで言い、そのまま去っていった。私は呆然とその場に立ち尽くし、彼が去るのを見送るしかなかった。

その時、気づいた。私の手から、あの筒が抜き取られていることを。手のひらから消えたあの筒。私は呆然と自分の手を見つめながら、それがどこに行ったのか、そしてあの男が関わることで、どんな運命が待っているのか、嫌でも悟らざるを得なかった。あの男とかかわることから、もう逃れられないのだと。

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