29

夜が明ける頃、私は眠れぬまま布団の中で天井を見つめていた。土井が「思い出してほしい」と言った言葉が、脳裏を巡り続けている。記憶を失う前の私を彼は知っているのだろう。別に、過去を思い出したいと思わないわけではない。だが、どうすればいいのか分からない。過去の私がなにをしていたのか、土井に何かしてしまったのではないか。そんな予感がよぎるのだ。彼の声色や表情が、ただならぬ何かがある気がして……彼に何をしてしまったのか。考えれば考えるほどに焦燥と戸惑いが胸を締めつけ、気づけばろくに眠れぬままに外が白み始めていた。

朝になれば、また学園での生活が始まる。私は忍術学園という場所に身を寄せることになったが、ここでは姫として扱われることはない。雑用をしながら暮らし、学園の者たちと共に日々を過ごしていくことになる。最初が肝心だろう。自分にできることをしっかりやらなくてはならない。利吉に紹介してもらったこともあるし、殿の事を考えれば私の評価が下がれば彼らに迷惑が行くのだ。気を引き締めよう。

着替えが終わったころ部屋に女性が入ってくる。、そこには小柄な老女がいた。目尻の皺が深く、穏やかな笑みを浮かべている。優しそうなおばあちゃん。たしか、山本先生だろうか?そのまま彼女に呼ばれた。彼女は私の立ち振る舞いについて指導してくれるらしい。


「話には聞いています、事情は分かっているから配慮できるところは私が配慮できたらと思っているわ。どうかよろしくね」

優しい声が耳に届く。私は静かに頷いた。

「大丈夫ですよ、ここでの暮らしも、すぐに慣れるでしょう」

その言葉に安堵しかけたその時、目の前の老女が手をかざし、まるで霧が晴れるように姿を変えた。瞬く間に、そこにいたのは若い女性だった。つややかな髪が揺れ、瞳はいたずらっぽく輝いている。

「えっ……?あれ?」

驚く私を見て、目の前の女性はくすくすと笑った。

「驚いた? ふふ、私よ。山本シナです。ここでは色々な術を使う者がいるのよ」

彼女の笑みに、私はただ呆然とするしかなかった。どうやら、彼女の年齢は不詳らしい。目をぱちくりと瞬きをする間に変わる様子は、変化というのがふさわしいだろう。呆けている私に彼女は笑いながら促す。

「さ、案内をするからついてきて」

山本先生は、私を学園内へと案内しながら説明をしてくれた。

「ここには、くノ一の卵であるくのたまや、忍者の卵である忍たまたちが学んでいるの。私はくのたまを教えている教師で、昨日のあなたをここに置くことを勧めた若い先生は忍たまの教員の土井先生。ここで過ごすうちに、あなたも忍たまである彼らと顔を合わせることがあるかもしれないわね」

私は頷きながら聞いていたが、自分が学園で何をすべきなのか分からないという不安が拭えなかった。そのことを正直に打ち明けると、山本先生は微笑んだ。

「何ができるか分からない? それなら、これから知っていけばいいんじゃないかしら」

その言葉は、慰めでも励ましでもなく、ただ当たり前のことを言っているように聞こえた。しかし、その当たり前の言葉が妙に心に響いた。


「最初から全部ができる人はいないわ。少しずつ知って行って学んでいくの。ここにいる学生も同じようにね。あなたの世界は、これから広がっていくのよ」


そう語る彼女の眼差しは、優しくもあり、どこか期待を込めたもののようだった。私は、この学園でどう過ごしていけばいいのか分からないまま、けれど確かに、ここに受け入れられているのだと感じ始めていた。


「……はい!私頑張ります」

「その気持ちがあるならきっと大丈夫よ、あなたはいい目をしているからきっと大丈夫、保証するわ」

優しく背中に手を支えるように置かれ、心強い気持ちで満たされる。無条件に大丈夫だと言ってくれる存在はありがたかった。



その後、山本先生は「やることがある」と言い、これからは生徒たちに案内を任せると告げた。そこに現れたのは、くノ一の卵である少女たち。ユキ、トモミ、おシゲと名乗る少女たちだった。

「こんにちは〜!」

彼女たちは声を合わせてにこやかに挨拶をしてくれた。その朗らかな笑顔に、私は少しだけほっとする。まだ幼い子供たちだがはきはきとしている様子だった。自己紹介を交わした後、彼女たちの案内で学園内を見て回ることになり、彼女たちは雑談混じりに施設について説明しながら、私の身の上にも軽く触れてきた。

「お姫様って聞いてます!」

「住んでたお城って、どんなところだったんですか?」

「とってもきれいな髪でしゅ〜〜!」

彼女たちも事情を知るのか知らないのか、あまり踏み込んだ質問はせず、ただ女性同士の気軽なお喋りのように会話が続く。話しやすく何に対しても返答がはきはきとしていて相槌を打ってくれるので、こんなにもおしゃべりになったのは、久しぶりかもしれないと思うほどだった。


そうして四人で廊下を歩いていると、忍たまと呼ばれる男子生徒たちとすれ違う。彼らは珍しそうに私を見つめてきたが、私は静かに会釈をした。彼らも戸惑いながらも会釈を返してくれた。少しずつ、この学園の生活が始まっていくのだと感じる。仲良くなれればいいな、と淡い期待を抱いた。敬語はいらないと言えば砕けた話し方をしてくれて、女性の友人がいればこんな感じなのかもしれないと思えるほどだった。



食堂の入り口をくぐると、奥の調理場から大きな鍋をかき混ぜる女性の姿が見える。

「あっ、おばちゃん!」
ユキが元気よく声をかけると、トモミとおシゲも「こんにちは!」と明るく挨拶をした。

「こんにちは」

私も彼女たちに倣い、少し緊張しながら挨拶をする。
女性は鍋から顔を上げ、優しげな目元をこちらに向けると、にこりと微笑んだ。

「まあ、新しく来た方かしら?よろしくね」

穏やかで温かみのある声だった。私は思わずほっとする。

「話は聞いているよ、これからお手伝いとかを頼むこともあるかもしれないけど、無理はしなくて大丈夫よ」

優しく言いながら、女性は手を拭いてこちらに歩み寄ってくる。

「何かあったら質問して頂戴ね」

「はい、ありがとうございます」

その言葉に私は深く頷いた。緊張が少しずつほぐれるのがわかる。
おばちゃんは満足そうに微笑むと、「じゃあ、そろそろ準備に戻るね」と再び調理場へと戻っていった。学園にいる人間の料理を全部一人で作っているのだそうだ。それはきっととても大変な仕事だろう。

「おばちゃん、優しいでしょ?」

トモミがくすっと笑い、おシゲも「困ったときは何でも相談するといいわ」と頷く。

「うん……なんだか安心した」

食堂には温かな香りが漂い、少しだけ心が落ち着いた気がする。ここにいる人はみんなとても暖かくて、笑顔が素敵な人ばかりだ。優しい人のところには優しい人が集まるのだろう。


「もしわからないことがあったら、私たちや先生方、事務員さんを頼ればいいわ」

ユキが微笑みながら言うと、トモミとおシゲも頷いた。

「そうそう、特に事務の人たちは色々と助けてくれるから、困ったときは遠慮せずに聞いてみてね」
「そうだ!ついでに事務員さんを紹介しましゅね〜」

そう言いながら、彼女たちは私を事務所へと案内してくれる。そこにいたのは、どこかで見覚えのある男性だった。

「あれ〜? あ!あの時の方ですね〜〜」

小松田と呼ばれるその男性は、私の顔を見るなり、にこにこと嬉しそうに笑った。
そうだ、ここに来たとき、最初に名前を書くように言われたのが彼だった。
「お世話になっています」と軽く会釈すると、小松田さんは「いやいや、こちらこそ!」と笑顔を崩さない。

「小松田さんはポンコツだけど、学園の出入りを管理する能力はピカ一なのよ」

ユキが茶目っ気たっぷりに言うと、トモミとおシゲも「うんうん」と笑いながら頷く。

「ちょ、ポンコツって言わないで!」

小松田さんはむくれたように頬を膨らませたが、三人が笑っているとどこか楽しそうだった。彼女たちの軽快なやり取りを見ていると、自然と口元が緩んでしまう。

「あ、なまえしゃんわらってましゅ!」

指摘されパッと表情を引き戻すが、笑っていたほうが素敵だと彼女たちはそういってくれた。少しずつ、この学園の雰囲気にも慣れてきたのだろうか。気を引き締めて緊張していた心が、少しずつ解かれていくかのようだった。



学園の敷地を歩き進めていくと、突然ユキが「あっ」と声を上げる。

「どうかした?」

私が首をかしげると、おシゲが苦笑しながら耳打ちしてきた。

「えっとでしゅね、この学園には穴を掘るのが趣味の生徒がいて……」

「だから、地面に気を付けて歩いたほうがいいですよ!」

トモミが少し楽しそうに続ける。

「……穴?」

何のことだろうと思って足元を見るがそういった形跡は見当たらない。不思議そうにしていればほら、と指を差され、そちらを見れば石や枝がいくつか落ちているのが見える。

「はい、落とし穴があちこちにあるんです。目印はあるんですけどうっかりしてたらおっこちちゃうかも……だから歩くときは気をつけてね!」

「落とし穴……」

私は驚いて周囲を見渡した。まさか学園内にそんなものがあるとは。足を滑らせたら、すっぽり落ちてしまいそうだ。

「落ちたら……自力で出られるかな?」

不安げに尋ねると、ユキが笑顔で「うーん、それは落ちた穴の深さによるかもね!」と答える。結構な深さがあるのかもしれない。授業か何かでそういった内容があるんだろうか。


「出るのは結構道具があっても大変かも……でも、大丈夫。もし落っこちちゃったら、近くにいる人に助けを求めればいいんだよ」

「なるほど……」

少し不安は残るが、そう言われてしまえば納得するしかない。私は「気をつけます」と頷き、慎重に足元を確かめながら歩くことにした。



ある程度案内されたところで、ユキがにこやかに言った。

「お仕事のことは、また明日から取り組んでもらうことになるでしょうと先生が言ってたの」

「今日は学園の構造を覚えることが目的だからね。広い校内だし、迷わないようにある程度知っておくのが大事だよ」

確かに、校内は想像以上に広い。建物は古く、どっしりとした木造の造りだ。廊下の床板を踏むと、ぎしっとわずかに軋む音がする。柱や梁には長い年月を経たような渋みがあり、歴史を感じさせる。きっとここで長くいろんな生徒が過ごしてきたのだろう。随所に障子や襖があり、開け放てば外の光が差し込んで風が通り抜けるようになっている。

何も知らないまま仕事を任されたら、どこに何があるのか分からず右往左往してしまいそうだ。私は彼女たちの言葉にゆっくりと頷いた。

「なるほど……迷子にならないためにも、しっかり覚えないとね」

「そうそう。慣れちゃえば大丈夫!」

明るく微笑みながら、肩を軽く叩いてくる。その様子はとても気さくで、気負わずに話せる空気を作ってくれるものだった。

「わからないことがあったら何でも相談してね! 流行りの上方の話から、忍たまたちへのちょっとした悪戯のことまで、何でも教えちゃう!」

彼女は少し得意げに胸を張る。

「ふふ、それは頼もしいね」

私は思わず口元を綻ばせる。学園に来てから、ここがどういう場所なのか緊張してばかりいたけれど、こうして気さくに話しかけてくれる人がいるだけで少し安心できた。彼女たちは忍者だ。もしかすると、私の素性や過去について探る意図もあるのかもしれない。だが、それ以上に、純粋に歳が近い女の子とこうして話せることが嬉しかった。
城では、側室の女性たちが何人かいた。けれども、彼女たちとは決して仲良く話せる間柄ではなかった。お互いに牽制し合い、常に誰かの視線を気にしながら過ごしていた日々。
それに比べて、今ここにいる少女たちはどうだろうか。

ユキも、トモミも、おシゲも、気さくに話しかけてくれる。私に警戒するでもなく、かといって遠慮するわけでもなく、ごく自然に接してくれている。

新しい日常に浸りながらも、過去の事を思い出させられる。側室だった……彼女たちは、今どうしているのだろう。争いに巻き込まれてしまってはいないだろうか。無事に逃げられていたらいいのだけれど。

一瞬、遠い記憶に思いを馳せる。けれど、そんな私の気持ちを察したのか、トモミが軽く手を振って私の注意を引いた。

「さ、次はどこを見に行く?」

私は軽く微笑み、彼女たちの後をついていく。

歩いていると、風がふわりと頬を撫でた。外の庭からは鳥のさえずりが聞こえ、どこか懐かしさを感じさせる。遠くには生徒たちの賑やかな声が響き、学園全体が活気に満ちていることを物語っていた。こうして彼女たちと話していると、少しだけ心が軽くなる気がした。今は、この場所で頑張ることだけを考えよう。





学園の構造を知るために歩き回っていると、廊下の向こうから深緑の忍び装束を纏った男性がこちらへ向かってくるのが見えた。

すらりとした体躯に整った顔立ち。どこか落ち着いた雰囲気を纏いながらも、忍び特有の鋭さがある。その色白な肌と端正な容姿に、一瞬見惚れそうになるほどだ。
記憶が蘇る。確か、一度会ったことがある人物だ。
彼も私に気づいたのか、立ち止まり、静かに礼をする。

「こんにちは」

穏やかだが、丁寧な声音。確か、立花先輩と呼ばれていたのではなかったか。

「先日は後輩を助けてくださってありがとうございました」

「……いえ、私は何も!二人が無事であったのなら、何よりです」

そう言って、深く頭を下げるため、私がそう返すと、彼は静かに頷いた。

「ここにいらっしゃった経緯はお聞きしました。何かお力になれることがあれば、おっしゃってください」

言葉の端々に礼儀正しさが滲む。忍者と一口に言っても、さまざまな人物がいるのだと改めて感じた。彼のような落ち着いた忍びもいれば、明るい忍びもいる。


「それでは、自分は先生方への報告がありますので、また」

そう言い、彼は軽く会釈をして去っていった。後ろ姿を見送る間もなく、隣にいたユキたちが興味津々といった様子でこちらを覗き込んできた。


「えっ、立花先輩とお知り合いなんでしゅかーー!」

「立花先輩とどこで知り合ったの!?」

「すごーい、あの方、女性にめちゃくちゃ人気があるんだよ! 六年生の先輩で、とっても優秀ですごいの!」

三人が口々に言う。そんなに人気が高い人物だったのかと驚きつつ、彼が去っていった方向を見つめる。先ほどのやり取りだけでは、彼がどういう人物なのかまでは分からない。ただ、礼儀正しく、冷静で、そしてどこか近寄りがたい雰囲気を持っている。後輩のことを気にかける様子から、きっと頼れる上級生なのだろう。

「へえ……そんなにすごい人なんだね」

ぽつりと呟くと、三人は大きく頷いた。

「うんうん、すごいの! ……っていうか、それよりも! どういう経緯で知り合ったの? めっちゃ気になる!」

ユキがぐいっと身を乗り出してくる。

「……ここに来る少し前に、一度お会いしたことがあって」

詳しく話すべきか迷いながらも、簡単に説明する。三人は「へえ〜!」と感心しながら聞いていたが、最後にはどこかうらやましそうに目を輝かせていた。「しんべヱ様をたすけてくださってありがとうございましゅ!」とおシゲにもとても感謝された。どうやら彼女の思い人らしい。

彼女たちの話を聞くに、忍者たちの間でも、立花先輩は特別な存在なのかもしれない——そんなことを考えながら、再び学園の案内を受けながら見て回るのだった。



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