32

部屋の中は静かだった。夜の帳が窓の外を覆い尽くし、かすかな風の音だけが耳に残る。灯された蝋燭の炎が揺れ、ぼんやりとした光が壁に影を落とす。その淡い明かりの下で、私はただ一人、物思いに沈んでいた。

きり丸とは、結局あの後話すことができなかった。彼が逃げるように走り去ったこともあるし、何より拒絶されたことがあまりにも衝撃で、私はそれ以上追いかけることすらできなかった。彼の背中が遠ざかるのを、ただ見つめることしかできなかった自分が情けなくて、悔しくて、どうしようもない気持ちが胸の奥でくすぶっている。

目を閉じて思い出すのは、彼と過ごした日々。長くはなかったけれど、本当に楽しい時間だった。何も知らなかった私に、彼はいろいろなことを教えてくれた。生きるための知恵、些細な遊び、夜の静けさの中で語り合った他愛のない話——すべてが鮮やかによみがえってくる。あの頃、私は確かに彼と共に生きていた。

しかし、それも一年にも満たない短い時間だった。城主に見初められ、城に上がることが決まった日、私はきり丸と別れた。それきり、彼とは顔を合わせていない。私は文を送り、お金も届けていたはずだ。彼のことを守っているつもりでいた。けれど————。

私だけが安全な場所にいて、何不自由なく暮らしていた。そんな私の姿を、彼はどう思っていたのだろう。楽しげに笑う私を想像しながら、彼はどれほどの怒りと悲しみを抱えていたのか。


————俺のこと捨てたくせに!


あの叫びが耳にこびりついて離れない。彼の表情、声の震え、悲しそうな眼差し。すべてが胸を締めつけた。私は、彼を守るどころか、ただ突き放してしまったのかもしれない。
自分がしてしまったことの大きさに、今さらながら気づかされる。後悔は、手遅れになってからやってくるものだと、痛いほど思い知った。


どうして、もっとそばにいてあげられなかったのだろう。
どうして、彼を一人にしてしまったのだろう。

胸の奥から、波のように後悔が押し寄せてくる。あの時、私が違う選択をしていれば、きり丸はあんな悲しい顔をせずに済んだのだろうか。私が城へ行くことを選ばなければ、彼を傷つけることはなかったのだろうか。

でもその問いに答えはない。過去を変えることはできない。何を考えたところで、時間は巻き戻らず、彼の怒りと悲しみも消えない。ただ、私の中に広がるのは、どうしようもない不安だけだった。

このまま、ずっと嫌われたままだったらどうしよう。
彼は、もう二度と私のことを許してくれないのだろうか。

そんな考えが浮かぶたび、胸が締めつけられる。私は初めて、人に嫌われるということがこんなにも怖いものなのだと知った。今まで、誰かに拒まれることなんてなかった。だからこそ、この感情が自分の中でどうしようもなく膨れ上がっていく。

仲直りできるのだろうか。
どんな言葉をかければ、彼は私の気持ちをわかってくれるのだろうか。

考えても、答えは出ない。ただ、嫌われたくないという気持ちだけが、ぐるぐると頭の中を回る。これほどまでに、誰かに拒まれることが怖いと感じたのは、生まれて初めてだった。



「どうしよう……」

考えれば考えるほど、不安が募るばかりだった。どうすればいいのかも、何を言えばいいのかもわからない。胸の奥がぎゅっと締めつけられ、ただ俯くことしかできなかった。

そんなとき、不意に気配を感じて顔を上げると、そこに土井が立っていた。

「……」

何か言おうとしたけれど、喉の奥が詰まって声にならない。どうしてここに、と尋ねたかったのに、その言葉を口にする気力すら湧かなかった。私はただ、しょんぼりとうつむく。

土井は何も言わずに私のそばへと歩み寄り、静かに腰を下ろした。特別な言葉をかけるわけでもなく、ただそこにいてくれる。

私は目を伏せたまま、何もできずにいた。ただ、うつむいて膝を抱えることしかできない。
すると、そっと優しく手が触れた。



「泣きそうな顔をしてる」

土井の言葉に、私ははっとする。泣きそう? 私が? 驚いて自分の顔を触れてみる。確かに、目元が熱い。そんなつもりはなかったのに————涙がこぼれる寸前だったのかもしれない。
指摘されればそれはあふれ出し、そのまま、心の奥に溜め込んでいた弱音がこぼれ出た。


「……きり丸に、嫌われたくないの……」

「…………」

土井は何も言わず、ただうなずいて聞いてくれていた。その静かな仕草が何を考えているかは知らないが、話を聞きながら受け止めてくれているような気がする。


「どうしたらいいんだろう……」

胸の奥がきゅっと痛む。どうすればいいのかわからない。怖い。私は、あの子に嫌われたくない。その思いをぽつりとこぼした瞬間、ふわりと温かな腕が私を包んだ。


「大丈夫」


土井の静かな声が耳元に落ちる。腕の中で抱きしめられながら、耳元で安心させるように囁かれた。


「きっと、言葉と気持ちが行き違っているだけなんだろう」

私は何も言えず、ただされるがままになっていた。彼の腕の中でじっと目を閉じる。
——どうしようもない孤独が、ほんの少し和らいでいくような気がした。
暖かさが心の奥の冷えた部分に染み込んでいく。拒絶をしながらも、甘えてはいけない、頼ってばかりではいけないとわかっているのに、今はこの温もりがただありがたかった。

「……ごめんなさい」

そんな言葉が無意識にこぼれた。
私は、あさましくて、都合のいい人間だ。
自分のことを守ってくれる人がいたらすぐに縋ってしまう。きり丸には何もしてやれなかったくせに、こうして誰かに慰められることを許している。

それでも——

私はそっと、土井の背に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返し、彼の腕の中で、私は静かに目を閉じた。

抱きしめ返した瞬間、彼が微かに息をのむ音が耳に届く。戸惑ったのだろうか。しかし、次の瞬間には、彼は迷いなく私をさらに強く抱きしめ返していた。温もりが深まり、鼓動が密着するほど近づく。


「……きり丸と仲直りできるように、私も協力するよ」

低く落ち着いた声が、まるで約束を交わすように告げられる。その言葉に、私は胸がじんと熱くなっていく。同時に疑問が浮かんでくる。


「どうして、そんなに優しくしてくれるの?」

自分でも驚くほど素直に問いかけてしまう。彼は少しだけ間を置き、それから静かに、だが確かに言った。



「好きだからだよ」

その言葉が落ちると同時に、ふいに顔が近づいてくる。
一瞬、時が止まったようだった。
気づいたときには、唇が重なっていた。

驚きに目を見開く。けれど、不思議と拒むことはできなかった。ただ、彼の静かな熱を受け入れることしかできない。されるがまま、私は彼に主導権を握られているのだ。

唇が離れる。



「君は何も心配しなくていいよ」

優しく囁かれた言葉。その声音は穏やかで、慈しむようで——けれど、どこか底知れないものを孕んでいるようにも感じられた。ぞくり、と背筋を冷たいものが駆け抜ける。気のせいだろうか?ふと窓の外に目をやると、月が妖しく輝いていた。その光は、まるで私たちを静かに見下ろしているかのようで、不吉なほど美しかった。


「大丈夫、大丈夫なんだ。私だけだよ。頼っていいのも、こうして縋り付くのも、私だけだ————君には、私だけ」


囁くような言葉が、夜の静寂に溶ける。
彼の声は優しく穏やかだったが、どこか有無を言わせぬ響きを帯びていた。その確信に満ちた口調に、私は戸惑う。けれど、言葉を紡ぐ間もなく、彼はもう一度私の唇を奪った。熱が伝わり、思考が絡め取られる。

息をするのも忘れそうになるほど深く、そして長い口づけだった。逃れられない。心のどこかでそう悟った瞬間、私はただ頷くしかなかった。

「……わかった」

震える声でそう告げると、彼は満足げに微笑んだ。ゆっくりと私の髪を撫でる。その指先はまるで愛おしむようでいて、逃げ場のない鎖のようにも感じられた。


「いい子だね。約束だよ」

優しく囁く声が、夜の冷気よりもひやりと背筋をなぞる。窓の外では、月が妖しく光っていた。まるで私たちのやりとりを、静かに、しかし確かに見下ろしているように。

通常ならば銀白色に輝くはずの月が、この夜ばかりは異様な色を帯びていて。淡く揺らめく紅の光が滲み、まるで血のようにゆっくりと夜空を染めていく。闇に浮かぶ雲がその光を分断し、影を揺らすたびに、月の表情が刻一刻と変わるように見えた。

不吉なほど美しく、底知れない狂気すら孕んでいるような月—— ——。
肌寒い風が静かに吹き抜け、障子の隙間を揺らす。
夜は、私たちを包み込んでいる。

この温もりが安心なのか、それとも逃れられぬ檻なのか—— ——それすらも、月だけが知っているのかもしれない。

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