あまりにも愛おしくて、壊れそうで——このまま攫ってしまえばどんなに楽だろう、とふと考えた。誰の手にも触れさせず、誰の目にも触れさせず、ただ自分だけのものにしてしまえば、と。
だが、それはまだ早い。
彼女は記憶を失い、迷子の子供のように頼れる相手を求めている。暗闇の中で帰り道を探すように、安心できる場所を求めて彷徨っているのだ。
ならば、その道標を示してやるのは自分でなくてはならない。
——そう、頼れるのは利吉ではなく、自分なのだと。
彼女が帰るべき場所は、彼女が頼るべき相手は、ほかの誰でもなく土井半助なのだと教え込めばいい。焦る必要はない。ゆっくりと、少しずつ情で繋ぎとめ、記憶がなくとも本能で自分を求めるようにすればいいのだ。
優しく囁き、包み込むように抱きしめ、彼女が自らこの腕の中に戻ってくるように仕向ければいい。焦らずともゆっくりと、確実に、優しい織で囲っていく。暴力で押さえつけてはいけない。反発心を抱くから。愛情でゆっくりとゆっくりと繭のように閉じ込めれば、彼女はどこにも行けなくなるだろう。大事なのは自分の意思で側にいることを選ばせることだ。
「大丈夫、何も心配しなくていい」
そう言いながら、彼女の髪を撫でる。その仕草はまるで子供をあやすように優しく、けれどその奥には確かな意思があった。
記憶がないことに、彼女はきっと戸惑っているのだろう。だが、それが彼女にとって不幸なことだとは思わなかった。むしろ、なくてよかったのかもしれないとさえ思う。思い出す必要などない。あの恐ろしい日々を。血に濡れた夜を。彼女の小さな手を、自分のために穢させてしまったあの過去を。守れなかったあの時の事を。
彼女はきっと、あの世界では生きられない。汚れのない、優しいままでいるべきなのだ。だからこそ、自分の過去を知らないほうがいい。何も知らず、ただ自分を頼るままでいてくれれば、それでいい。
自分のために人を殺させたことを、ずっと後悔していた。
何も知らないまま、無垢なまま、自分の手の中で生きてくれればそれでいい。過去など思い出さず、ただ自分を求めてくれれば、それで。
そうであってほしい。
窓の外には、妖しい月が浮かんでいた。雲の切れ間から覗くその光は、血のような色を帯びて揺らいでいるようにさえ思う。その色が、自分の内にくすぶる執着の色のように思えて、ふっと微笑が漏れた。
きり丸とのことを考える。
あの子が以前話していた姉のような人。それは、きっと彼女のことだろう。きり丸にとって、家族のような存在だった人。
長い時を経て、再び巡り会えたことは、素直に喜ばしいことだ。あの子の学園に来るまでの経緯を考えるとそう思う。
だが。彼女はきり丸との関係を失うことを恐れている。きり丸に拒絶されたショックに打ちのめされ、どうしたらいいのか分からず、すがるようにこちらを頼っている。
このまま、二人の仲を取り持つことは容易い。いずれきり丸も折れ、再び彼女を受け入れるだろう。時間が解決する問題だ。
だが、彼女は今、必死にすがる場所を求めている。
ならば、その場所を「自分」にしてしまえばいい。
きり丸との関係が修復されたとしても、縋りつける心の拠り所はすでにこちらに移っているように。いっそ、依存させてしまうこともできるかもしれない。私なしじゃ生きられなくなれば、とてもかわいいのだろうなあ……。そんな不穏なことを考える。
かわいそうな子だなあ。
心の中でそう共感しながらも、手の中のぬくもりを閉じ込めるように抱きしめる。
離すつもりは、最初からないのだから。土井は微かに口元を歪め、静かに笑った。
ふと—— ——昨日彼女の手からかすめ取ったあの筒の事を思い出した。大切そうに抱えたのは彼女が嫁いだといわれる男の忘れ形見らしい。
自分と離れている間に別の男のところに嫁いでいた事実を知ったときは、頭を殴られた気がした。彼女は、自分以外の男に身を寄せて甘えたのだろうか。
許しがたいな
彼女の細い背を抱きしめながら、ふっと息をつく。柔らかな香りが鼻をくすぐる。
「私と離れている間に、別の男のところに嫁いでいたなんて妬けるね」
耳元で囁けば、彼女の肩がびくりと震えた。その反応が、どうしようもなく愛おしい。記憶を失ってから彼女に何があったのか。どんな時間を過ごしていたのか。目の前にいるのは間違いなく彼女なのに、知らない時間を抱えていることが、どうにも許しがたい。
指を彼女の手へと伸ばし、そっと握る。昨日、強く掴んでしまった跡がうっすらと残っていた。その上からじわりと力を込めると、彼女がたじろぐ。
「人は痛みに素直だから」
微笑みながら言えば、彼女は恐れるような目でこちらを見つめた。
どうしてそんな目をするんだい?
君は私のものだよ。君はもうどこにも行かなくていいんだよ。
「君の体に刻みつければ、君はそれを忘れることはないだろうか。もう私を忘れないように、私のものだとわかる痕でもあればいいのかな?」
彼女の身体が強張るのを感じる。それすらも愛しい。
どれほど怖がらせても、きっと彼女はここから逃げられない。
項へと唇を寄せる。細い首筋にそっと触れ、そして——噛んだ。
途端に彼女が小さくもがく。力の抜けた抵抗が、さらに心を満たしていく。
血の味がした。ほんの少しだけ。
「……いまは、これだけね」
満足そうに呟きながら、そっと痕を指でなぞる。
じんわりと滲んだ痛みに、彼女は震えている。
「一緒に夜を明かしたいけれど、今日はもう帰るよ」
彼女の目は警戒と困惑に満ちていた。だが、いつかその表情を塗り替えて見せる。
君が、誰のものなのか。君自身の手で選ばせてあげる。
噛みついた傷口へもう一度指を滑らせながら、名残惜しげに微笑む。
「また明日」
彼女が大切そうにしていたもの。別の人間とのつながり、縋りつぐよすが。
彼女の過去と繋がるものなら、私の手元にあるべきだ。
呆然と手のひらを見つめる彼女を振り返りながら、静かに扉を閉めた。
ほ ほ ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ こっちのみずは あまいぞ
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