34

あの後、私はそのままほとんど気を失うように眠りについた。目を覚ませば外はまだ薄暗い。昨夜は冷え込んだからか、寝起きの体がひどく重かった。それでも、今日からは食事の準備を手伝うことになっていたはずだ。寝台から起き上がり、袖をまくる。夜具を片付け、髪を軽くまとめてから部屋を出た。噛み痕が見えないように、髪をあげきるのはやめておこう。見られた後言い訳に困ってしまうのは明らかだ。


厨房へ向かうと、すでに火の入った竈の前に女性がいた。炊事を担当しているおばちゃんで、私は彼女の指導を受けることになっている。

「おはようございます」

「おはよう。早起きできて偉いわね」

「はい、よろしくお願いします」

「ふふ、そんなにかしこまらなくてもいいよ。さ、まずは野菜を切るところからやってもらおうかね。包丁を使ったことはある?」

差し出されたのは大きなまな板と包丁、そして山のような野菜だった。忍術学園には育ち盛りの子どもたちが大勢いる。量が多いのは当然だろう。

「玉ねぎとごぼうは薄くね。たけのこもあるけど、これは硬いから気をつけて」

「はい」

私は手際よく野菜を並べ、包丁を握った。城に入る前に何度か料理はしたことがあるが、人に出す料理となると話は別だ。けれど、おばあちゃんにいろいろ教えてもらったので、料理が全くできないわけではないのは良かったかもしれない。これほど大人数の分を作るのは初めてで、緊張で手が少しこわばる。

慎重に包丁を入れ、大根を半月切りにする。ごぼうはささがきにしようと試みたが、思うように薄くならない。隣を見ると、おばちゃんが器用にごぼうを回しながら削っていた。

「難しい……」

つい口にすると、おばちゃんが手を止めて笑った。

「最初はね。でも、ちゃんと切れてるよ。上手じゃないの」

「……本当ですか?」

「ほんとほんと。慣れればもっと早くなるわよ。大事なのは丁寧にやること。誰かが食べるものだからね」

その言葉に、胸が温かくなった。ずっと、居場所を失ったまま流れつくようにここにいた。でも、こうして働けば、少しでも役に立てる。誰かが食べるものを作るというのは、思ったよりも意味のあることなのかもしれない。

「はい、頑張ります」

顔が少し熱くなった気がして、私は黙々と手を動かした。


包丁の音が響く。
規則正しく、とん、とん、とまな板を叩く音。私は手を止め、隣で野菜を刻むおばちゃんの手元を見た。無駄のない動きで、するするとごぼうが薄く削られていく。
ごつごつとした指先。ところどころ膨らんだ節くれだった手の甲。ふと、ささがきを教えてもらうときに触れたおばちゃんの手の感触を思い出した。

厚く、硬い皮膚。
熱い鍋も冷たい水も、何度も繰り返し触れてきたのだろう。長い年月、ここで包丁を握り、竈の前に立ち、こうして誰かのために料理を作ってきた。手のひらに刻まれた皺が、その歴史を物語っていた。

「料理を作るのは好き?」

おばちゃんがふいに問いかける。私は大根の薄切りを重ねながら、少し考えた。
好きかどうか、そう言われると、わからない。

「……まだ、わかりません」

正直に答えると、おばちゃんは手を止め、ゆっくりと微笑んだ。

「じゃあ、これから知っていくんだろうね」

その言葉が、じんわりと心に染みた。
おばちゃんは再び包丁を握り、今度は大きな南瓜に刃を入れる。堅い皮を確かめるように押さえ、ぐっと力を込める。ひび割れそうなほど使い込まれた木のまな板の上で、南瓜が二つに割れた。

手早く種を取り除き、適当な大きさに切り分ける。その一つ一つの動きに、無駄がない。だが、ただの作業ではないと感じられるものだ。大鍋の蓋を開けると、湯気が立ちのぼる。その中に、刻んだ野菜をそっと入れていく。おばちゃんの指先は丁寧だった。まるで大事なものを扱うように。

「みんな、たくさん食べるからね」

独り言のように呟いて、味噌を溶く。しゃもじで静かにかき混ぜながら、その顔はどこか優しげだった。

「美味しくなあれ」

思わず、目を奪われる。こんなふうに料理を作る人がいるのだ。真心を込めるとは、こういうことなのかもしれない。

料理をする手が、ただの作業ではなく、誰かのためのものだと感じられる。食べる人のことを思いながら、ただひたすらに美味しくなるようにと手を動かす。その姿が、とても、いいなあ、と思った。

「さあ、そろそろ盛り付けるよ」

おばちゃんが明るく声をかける。私は慌てて頷き、器を並べ始めた。
料理が好きかどうかは、まだわからない。でも、おばちゃんみたいに、誰かのために作ることはなんだか素敵なことだと思う。


しゃもじが鍋の底をなぞる音がする。とくとくと湯気の立つ味噌汁をかき混ぜる音。私の手は動きを止めていたが、おばちゃんの手は休むことなく料理を作り続けていた。

「料理はね、食べてくれる人のことを考えると、美味しくなるんだよ」

ふいに、おばちゃんがそう言った。私は思わず顔を上げる。おばちゃんはにっこり笑いながら、味噌を溶く手を止めない。

「ここではね、いろんな子たちが料理を食べてくれるから、作り甲斐があるんだよ」

鍋の蓋を閉じ、次の料理にとりかかる。どこか誇らしげなその横顔を、私はじっと見つめた。

「子供の成長には、食べることがとても大事だからね。ちゃんと栄養のあるものを食べなきゃ、力も出ないし、元気にもなれない。だから、みんながいっぱい食べたくなるような料理を作りたいって、いつも思ってるの」

食べること。
私は今まで、料理にそんなふうに意味を見出したことはなかった。ただ空腹を満たすためのもの。それ以上でもそれ以下でもない。けれど、おばちゃんにとっては違うのだ。料理は、誰かを支えるためのものだった。

「あなたがそのお手伝いをしてくれるなら、私はとってもうれしいわ」

おばちゃんは、鍋の中の味噌汁を味見しながら続ける。

「でもね、ほかにもやりたいことが見つかったなら、それを応援するよ」

私は目を瞬かせた。
選ばせてくれている。
私はここで料理を作ることもできるし、ほかのことを探すこともできる。それを否定せず、どちらでもいいと、おばちゃんは言ってくれているのだ。

「いろんなことをやってみなさい、経験はとても大切な事よ。料理だけではなくていろんなことを知るのって大事なの」

そう言って、もう一度、優しく微笑む。
その姿が、ただの炊事を担う人ではなく、もっと大きなものに見えた。
誰かを思いながら、手を動かし、食べる人のことを考える。美味しくなれと願いながら料理を作る。そして、相手のことを考えて、道を押しつけず、選択肢を与えてくれる。

なんて、素敵な人なんだろう。
私は胸の奥に、じんわりと温かいものを感じながら、「はい」と小さく返事をした。


「私、おば様がお料理を作るところを見るのが好きです」

「あらま!うれしいこと言ってくれるわね」

お日様みたいな笑顔で、とても素敵な顔で笑う人だと思った。




しばらく準備を進めていると、外からどっと賑やかな声が聞こえてきた。生徒たちが食堂へ入ってくる。ぞろぞろと、大勢の足音が響く。思った以上の人数だ。目の前を次々と駆け抜ける小柄な少年たち、眠そうに欠伸を噛み殺す者、ふざけ合いながら肩をぶつけ合う者。まるで小川に魚が一斉に飛び込むように、食堂の空間が一気に満たされていく。

「わっ……!」

人の多さに、一瞬ひるむ。今まで生徒たちの姿は遠目に見ていただけで、こんな間近で接するのは初めてだった。

「さあ、急いで配膳の準備しないとね」

おばちゃんの声に、私は慌ててうなずく。

「はい!」

奥の厨房へ下がり、言われた通りに汁椀を並べていく。湯気の立つ味噌汁を注ぎ、おかずを盛りつけ、ご飯をよそい……やるべきことは山ほどある。頭では理解していたが、実際にやってみると想像以上の忙しさだった。

こんなに……こんなにたくさんの人が利用するとは…………
目が回るほどの量。焦れば焦るほど、動作がぎこちなくなっていく。手がもたつき、うっかりお椀を斜めにしてしまい、汁がこぼれそうになる。

「焦らず、しっかりね」

ぽん、と背中を軽く叩かれる。おばちゃんの声は穏やかで、揺るがない。私は深く息を吸い、こくんとうなずいた。

「……はい」

気を取り直して、ひとつずつ丁寧に手を動かしていく。焦らず、順番に。やることは変わらない。ただ、確実にこなせばいい。
ふと、ざわめく生徒たちの間から声がした。



「おばちゃん、この人だれ?」

覗き込むようにして、ひとりの男子生徒がこちらを見ている。目が合うと、他の生徒たちも興味深そうに顔を向けた。

「新しく入ってきたお手伝いさんよ」

おばちゃんはそう言って、にっこりと笑う。
私は一瞬迷ったが、軽く会釈をした。

「よろしくお願いします」

生徒たちは同じように会釈をして、「へぇー」と頷いたり、「ふーん」と呟いたりしながら、再び談笑に戻っていく。


おばちゃんの声に、生徒たちは一斉に席についた。

「お残しは許しまへんで!」

そう言っておばちゃんはお盆を手に取り、次々と料理を運んでいく。その背中は堂々としていて、まるで戦場を駆ける武士のようだった。
私もまた、手を止めることなく、準備を進める。
賑やかで、忙しくて、けれど、なんだか不思議と楽しい朝だった。


生徒たちが次々と席につき、賑やかに朝の支度を始める。配膳の手を動かしながら、私はふと食堂の奥に目を向けた。そこに、見知った顔があった。
元気そうな乱太郎。にこにこと笑うしんべヱ。
二人が並んで席につこうとしているのを見て、私は思わず息をのむ。もしかして──そう思い、視線を横へ動かす。

いた――――きり丸だ。

彼は無造作に腰掛け、手拭いを首に引っかけたまま、ぼんやりと湯気の立つ食事を見つめていた。寝癖のついた髪を軽く掻きながら、乱太郎たちの言葉に適当に相槌を打っている。

何気ない仕草。何気ない朝の風景。
けれど、私にとっては、胸がざわつく瞬間だった。
意を決して、私は少し足を踏み出した。

「……おはよう」

できるだけ自然に、明るく。努めて平静を装いながら、声をかける。
乱太郎としんべヱが、すぐにこちらを向いた。

「おはようございます!」

「わあ、お手伝いしてるんですか?」

二人はぱっと表情を輝かせ、嬉しそうに挨拶を返してくれる。その反応に、少しだけ緊張が和らぐ。しかし、もう一人、きり丸は

彼は私の方を見ようともしなかった。

まるで私の存在なんてなかったかのように、無言のまま、味噌汁の椀を手に取る。視線は食卓に落としたまま、一言も発しない。

……わかっていたことなのに。それでも、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
そっけなく、遠い態度。
私の声が、彼には届かないかのように。

その様子を見ていたおばちゃんが、「あら」と気にしたように目を細めた。鍋をかき混ぜる手を止め、ちらりと私の方を見やる。

「何かあったの?」

問いかける目が、優しく、それでいて少し心配そうだった。
私は誤魔化すように苦笑する。

「ちょっと……いろいろありまして」

「そうなのねえ」

おばちゃんは深くは聞かず、ふんわりと微笑んだ。



「早く仲直りできればいいわね」

その言葉に、私は思わず唇を噛む。
仲直り、できるのだろうか。
私がここにいることで、彼はずっと嫌な気持ちになるのではないか。過去のことを、どう説明したところで、彼が許してくれるとは限らない。そんな不安が心の奥で渦を巻く。

「……できるでしょうか」

ぽつりと零すと、おばちゃんはすぐに「大丈夫よ」と言った。

「あの子は、今はちょっと頑固そうだけど、優しい目をしてるもの。時間がかかるかもしれないけど、大丈夫。焦らずいきなさいな」

焦らず。そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた気がした。乱太郎としんべヱも、私ときり丸の様子を心配そうに見ていた。きり丸は相変わらず私に目を向けようとしなかったが、二人が何かを囁きながら、そっと彼の方へと向かっていく。

席に座り、ひそひそと話している。
何を話しているのだろう。気になりつつも、私はそっと目を伏せた。
今は、焦らず。まずは、目の前の食事を、しっかり作ろう。そう思い直し、私は厨房へと戻っていった。


朝の食事時がようやく落ち着いた。
生徒たちは賑やかに食事を終え、それぞれの時間へと散っていく。空になった器を回収しながら、私はふと小さく息をつく。朝の忙しさに追われるうちに、きり丸のことを考えすぎずに済んだ。それはありがたかったけれど、やはり彼の冷たい態度が胸の奥でくすぶっている。

そんな気持ちを引きずったまま、厨房へ戻ると、おばちゃんが大きな鍋の蓋を開けていた。

「さあ、まかないを食べようかね」

 ふわりと、味噌と出汁の優しい香りが広がる。

「ほら、お椀出して」

促されるまま、私はお椀を差し出した。おばちゃんが味噌汁をよそい、ご飯とおかずを盛りつける。

「はい、今日のまかない。頑張ったんだから、しっかり食べなさいね」

その言葉に、思わず小さく笑った。

「はい、いただきます」

湯気の立つ味噌汁を一口すする。……ほっとする味だった。じんわりと体に染み込んでいく温かさ。喉を通るたびに、さっきまで張り詰めていた気持ちが少しずつ解けていく。

「……美味しい」
思わずそう呟くと、おばちゃんは嬉しそうに笑った。

「それはよかった」

その顔を見て、私は気づいた。朝、きり丸に冷たくされて落ち込んでいた私に、おばちゃんはずっと気を配ってくれていたのだ。私が少しでも元気になるようにと、こうしてまかないを用意してくれたのかもしれない。

感謝の気持ちがこみ上げる。
……そんなに優しくされたら、余計に涙が出そうだ。


「あなた、いい顔で笑うわね」

ふいにおばちゃんが言った。

「えっ?」

「今の顔、とてもいいわよ。さっきまでちょっと難しい顔してたけど、やっぱりご飯を美味しく食べられる人は、いい笑顔ができるのねえ」

そう言って、ふふっと微笑む。私は一瞬戸惑ったが、顔に手をやりぺたぺたとふれる。笑っていたのだろうか……?すぐに頬が熱くなった。

「……そ、そうですか?」

「そうよ。いい顔してる」


 照れくさくて、私は視線を落としながら味噌汁をもう一口飲んだ。
 相変わらずほっとする味。おばちゃんの言葉と、料理の温かさに、少しだけ救われた気がした。

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