そこは厨房とはまったく雰囲気の違う、静かな部屋だった。棚に整然と並べられた書類の束。机の上には硯と筆が置かれ、紙の束が整理されている。かすかに墨の香りが漂い、ここで日々記録が管理されているのだとすぐに分かった。
「こんにちは」
穏やかな声とともに、一人の男性が振り返る。
「私は吉野作造です。ここの事務を担当しています」
そう名乗った彼は、どこか冷静で落ち着いた雰囲気で髭が特徴的な人物だった。優しげな目元ながらも知的な鋭さがある。
「そして、こっちは小松田くんです」
紹介されるよりも先に、にこにこと笑顔の青年が一歩前に出た。
「よろしくおねがいしまぁす!」
明るい声と共に、ひらひらと手を振る。昨日もあった小松田さんだ。
年の頃は、生徒たちより少し上くらいだろうか。若さがあり、どこか茶目っ気を感じさせる表情。
「なんだか緊張してますか? 大丈夫、大丈夫! ここはそんなに難しいことはないですよぉ〜!」
「小松田くん……本当に言ってますか?」
「ふえ?」
朗らかで、人当たりがいい。
「はい、よろしくお願いします」
私が軽く会釈をすると、「うんうん!」と彼は満足そうに頷いた。
朗らかな人が多い。ここにきてから出会う人たちは、皆どこか温かい。忍者の学園という場所だから、もっと厳しい環境かと思っていたけれど、意外にも賑やかで、優しい人たちばかりだ。
そんなことを思いながら、吉野先生の説明を聞く。
「事務仕事は、主に書類の整理と管理です。名簿の更新や、必要な記録を取ることもあります。忍者の訓練に必要な道具の管理や、許可を取るための申請書類をまとめることも仕事のひとつですね」
話を聞きながら、私は背筋を伸ばす。
間違いがないようにしないと……さっきまでとは違い、筆と紙を使う繊細な仕事。これは別の意味でも気を引き締めなければならない。
書類の仕分けを頼まれた。それぞれをまとめるだけなので比較的できそうだ。そうして書類の束を整えようとしたその時だった。
「うわぁっ、しまった!」
バサァッ!!
と音が鳴ったと思うと次の瞬間、大量の紙が床に舞い散った。
小松田さんが手にしていた資料が、派手にぶちまけられてしまったのだ。
「あああぁぁ!!!!す、すみませーーん!! ちょっと手が滑っちゃって……!」
床一面に散らばる書類。
私が思わず吉野先生の方を見ると、彼もまた、困ったような、それでいてどこか諦めたような表情でこちらを見返した。
しばしの沈黙
「……」
「……」
二人して、苦笑するしかなかった。
「え、えへへ……」
当の小松田さんは、申し訳なさそうに頭をかいている。
「……では、拾いましょうか」
「……ほんとうにすみませぇ〜〜ん!」
事務の仕事は思った以上に大変そうだけれど、どうやら退屈はしなさそうだ。
そうしてしばらく時間がたつこと……
「小松田くん!!君って人は〜〜〜!!!」
ついに限界を超えたのか、怒りに震える吉野先生の声が、事務の静かな部屋に響き渡る。
先生は拳を握りしめ、今にも机を叩きそうな勢いで肩を震わせていた。
床一面に散らばる書類。この光景どこかで見たような……と思うが気のせいだと思いたい。申し訳なさそうに縮こまりながら、必死に紙を拾い集める小松田さん。
「すみません〜〜〜!」
彼は額に汗を滲ませながら、急いで書類をかき集めている。
私も手を伸ばし、一緒に拾い始めた。
「こうなるのは、これで何度目だと思っているんですか!?」
「え、えっと……五回目……?」
「違う!七回目です!!!」
「そ、そんなに……?」
呆れたように嘆息する吉野先生を尻目に、私はひたすら書類を拾い続ける。紙の束は多く、しかも順番がバラバラになってしまったため、整理しながら集めなければならなかった。
「まったく……どうして君はこうも不注意なのだ!」
「うぅ、気をつけてるつもりなんですけど……」
吉野先生が頭を抱える中、小松田さんは申し訳なさそうにしている。決してふてくされるわけでもなく、むしろ真剣な顔で紙を拾い集めているのだが、吉野先生も何度もとなるとさすがに苛立ってしまったらしい。
私はふと、その横顔を見つめた。
普通、これだけ怒られたら、嫌になったり落ち込んだりするものだろう。でも、小松田さんは違った。失敗を笑ってごまかすのではなく、かといって深く落ち込むのでもない。
「よし、これで全部かな?」
「いえ、まだ向こうに一枚落ちてるみたいですね」
「あ!ほんとだ!ありがとうございます〜!」
どこまでも前向きで、失敗を恐れない。吉野先生に何度怒られても、彼はめげることなく、その度にまた笑顔で立ち上がる。私はそんな姿を見ながら、少しだけ思った。
なんだか、素敵な人だな。
私も、こうして前を向けるだろうか。
落ち込んでばかりいないで、また一歩踏み出せるだろうか。
「……よし、これで整理できました」
拾い集めた書類を揃えながら、そっと自分に問いかける。
不安は尽きない。それでも、仕事があるだけまだきっといい方なのだ。迷う時間があれば働けばその迷いも消えるのだから。書類の束を整え、墨をつけた筆を握る。
事務仕事は、朝の厨房の仕事とはまったく違うものだった。賑やかに笑い声が飛び交う食堂とは異なり、ここは静かで、ただ紙をめくる音と筆が滑る音が響く空間だ。
「この書類に目を通して、こちらと見比べて間違いがないか確認してください」
吉野先生が差し出したのは、学園の記録簿だった。生徒の名前、授業の出欠、訓練に使われた道具の管理。さまざまな情報が細かく書き込まれている。
筆でなぞるように目を通す。名前の欄に抜けがないか、記録された数字に間違いはないか。
一つひとつ丁寧に確認しながら進めていく。慎重に、間違いのないように。
私はまだこの学園のことをよく知らない。けれど、この記録簿を読んでいると、生徒たちの動きが少しずつ見えてくる気がした。この日、誰が遅刻したのか、誰がどんな訓練を受けたのか。そこには、彼らの日常の一端が刻まれていた。
「この仕事は地味に見える仕事かもしれませんが、とても大事な役割を担っています」
吉野先生が静かに言う。
「忍者の世界は、すべてが実戦ではありません。裏方で支える者がいてこそ、うまく回るものですからね」
私は小さく頷く。確かに、戦いばかりが忍びのすべてではない。こうして記録を管理し、必要なものを手配し、準備を整える者がいるからこそ、表で動く者たちは安心して仕事ができるのだろう。
「……なるほど」
淡々とした作業のようでいて、重要な役割を担っているのだと実感する。
向かい側で小松田さんが、私の書類を覗き込みながらにこりと笑った。
「間違いがないかどうか、不安になったら遠慮なく聞いてくださいね〜。僕も結構間違えますから!」
「小松田君……それは、あまり頼もしくはないですね」
思わず、クスリと笑ってしまう。
「あははっ! !」
「笑い事じゃありません!」
おどけたように肩をすくめながら、小松田さんは手に持っていた書類をトントンと整えた。二人のやり取りは面白い。ふと、彼の机の上を見ると、整理途中の紙束が山のように積まれている。あれをすべて処理するのかと思うと、少し気が遠くなりそうだった。
「書類仕事って、意外と多いんですね……」
「そうなんですよ〜。学園にはたくさんの生徒がいるし、忍術の訓練には道具も必要だし、記録することが山ほどありますからね」
「忍者というより、まるで商家の帳簿のようですね」
思わずそう言うと、吉野先生が頷く。
「確かに、似ているところはあるかもしれませんね。道具の在庫を管理し、金銭の出入りを記録し、先生方と相談して必要なものを手配する。忍者であろうと、物を動かし、人を動かすためには、細かな管理が欠かせない」
「へえ……」
忍術学園という場が、思っていたよりもずっと複雑に運営されているのだと気づく。
私はもう一度、手元の書類に目を落とした。
目の前の記録は、ただの紙の束ではない。そこには、生徒たちの学びの証があり、忍びとしての訓練の痕跡があり、未来へとつながる足跡が刻まれているのだから。
この仕事は、ただの事務作業ではない。学園の営みを支える、大切な仕事なのだ。
私は再び筆を握る。ひとつひとつの作業を丁寧に、間違いがないように。
小さな積み重ねが、この学園の誰かの役に立つのだと思えば、不思議とやる気が湧いてきた。
「なまえさんは字がきれいですね」
吉野先生が、手元の書類を見ながら静かに言った。
「そうでしょうか……?」
筆を持つ手をそっと下ろしながら、思わず問い返す。昔、書を習ったことはあったが、褒められたのは初めてかもしれない。先生は書類を指でなぞるようにして、もう一度ゆっくりと頷く。
「うむ。線の流れが丁寧で、読みやすいです。書類仕事には向いていますよ」
「そう……ですか」
褒められたことが、なんとなく気恥ずかしい。
どう返せばいいのかわからず、俯きがちに筆を持ち直した。
「ほんとだ〜〜〜! きれいな字ですね!」
隣から、小松田さんがぱっと顔を上げ、にこにことした笑顔を向けてきた。その顔があまりにも眩しくて、思わずまばたきをする。
「後輩ができてうれしいです! 一緒に頑張っていきましょうね、えへへ!」
彼は得意げに胸を張りながら、さらに言葉を続ける。
「僕にできることなら、なんでも教えちゃいますよー!」
まるで兄貴分のような頼もしげな態度だったが、先ほど派手に書類をぶちまけた姿を思い出して、少し笑いそうになった。
「そうですね……」
人懐っこい笑顔を向けられながら、私はふと周囲を見渡す。吉野先生も、小松田さんも、私のことを気にかけてくれている。厨房のおばちゃんも、そうだった。
この学園には、こうしてさりげなく配慮してくれる人たちがいるのだと思う。
最初はただ逃げるようにここへ来たけれど、今は少し違う。こうして支えられることが、温かく感じられる。
「……早く仕事に慣れて、力になれたらいいのですが」
ぽつりとこぼした私の言葉に、小松田さんは「うんうん!」と嬉しそうに頷いた。
「きっとすぐ慣れますよ! 応援してます!」
「焦ることはありませんよ」
吉野先生も穏やかに言う。
「じっくりやればいいんです。大事なのは、間違えないことですから。間違えてもすぐに嘘をつかずに報告すること。丁寧に、それでいて誠実にしていれば問題ありません」
「はい」
筆を持つ手に、自然と力が入る。こうして支えられながら、私は少しずつ、この場所に馴染んでいくのかもしれない。書類を整理するだけが、事務の仕事ではないらしい。吉野先生の話によれば、学園の入出を管理したり、内部を見回ったりと、細かい仕事が山ほどあるという。
「小松田くんは、入出管理はしっかりしているんですけどねえ……」
吉野先生が苦笑しながら言ったのと同時に、バタバタと慌ただしい足音が響く。
見ると、小松田さんが勢いよく走っていくところだった。
「お客様かな?」
先ほどまで書類をぶちまけていた人物とは思えないほど、機敏な動きだ。
まっすぐな背筋、素早い動作。転びそうなそぶりもなく、学園の門へと向かっていく。
「彼は、ああ見えてこういう時はきっちりしているんです」
吉野先生が、感心したように腕を組む。
「普段のおっちょこちょいな姿からは想像がつかないですね」
思わず正直な感想が漏れると、先生は小さく笑った。
「人には得手不得手があるものですからね。あなたにも、きっと得意な仕事が見つかります。事務のお仕事も向いていると思いますよ」
励ますように言われて、私は少し考え込む。この学園に来てから、まだ右も左も分からない。今はただ与えられた仕事をこなすだけで精一杯だ。
「私も、応えられるようになりたいです」
はっきりと言葉にしてみると、吉野先生は静かに頷いた。
「そう思えるなら、大丈夫ですね」
その穏やかな声に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。焦ることはない。少しずつ、できることを増やしていこう。私にできることを、ここで。
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