小松田さんが胸を張りながら、木板の上に整然と並んだ帳簿を見せてくれた。
忍者というのは隠密な集団だ。学園の者がどこへ行き、いつ戻ったのか、徹底的に管理される必要があるのだろう。
「大変な役割ですね」
「でしょー! でも僕、これだけは得意なんです!」
得意げな笑顔を向ける小松田さん。その姿はとても頼もしく、さっきのドジっぷりが嘘のように見えた。しかし――――その印象は、次の瞬間で一変する。
「それでね、こういう時は……――あれ?」
突然、目の前から彼の姿が消えた。
「……え?」
まばたきをして、辺りを見回す。
確かにさっきまで目の前にいたはずの彼が、どこにもいない。
「小松田さん?」
呼びかけても返事はない。辺りを見回しながら、一歩踏み出そうとしたその時。
「たすけて〜〜〜〜!!」
地面の下から、情けない声が響いた。私はぎょっとして足を止める。
「……まさか」
恐る恐る足元を覗き込むと、案の定、穴の底でもがく小松田さんの姿があった。昨日、聞いた話を思い出す。“この学園には落とし穴がたくさんあるから、気をつけてね”
……これが、その落とし穴なのか。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて手を差し伸べると、小松田さんは必死にしがみついてきた。
「ううっ、ありがとうございます〜〜! いや〜、やっぱりうっかり落ちちゃいましたね〜!」
「いや、そんな軽いノリで済ませていいんですか……?」
額に汗を滲ませながら、なんとか彼を引き上げる。
かなり深い。こんな穴に落ちたら、自力で出るのは難しそうだ。
……私も落ちたらどうしよう。思わず想像して、背筋が寒くなる。
「よしっ、気を取り直して!」
そう言って歩き出した小松田さんのその足が、――――また空を切った。
「……えっ?」
次の瞬間、「わぁああああ!! また落ちた〜〜〜!!」
私は言葉を失った。
本当に、学園内にはこんなに落とし穴があるのか?
「も、もう……! だから気をつけないと!」
必死にもう一度引き上げながら、私は決意する。
絶対に落とし穴には落ちない。注意深く地面を見て歩こう。
そう固く誓ったのだった。
「……なんでこんなに穴が……?」
呆然と地面を見つめる私に、小松田さんが穴の中から顔を出して答える。
「これは四年い組の綾部喜八郎くんが掘った穴ですね〜〜〜」
「綾部くん?」
聞いたことのない名前に首を傾げる。
「四年生の生徒で、穴を掘るのが大好きなんですよ〜〜〜! だからよく学園内に穴が開いてるんです!」
「授業で掘ってるんですか?」
「いえ、完全に個人の趣味ですね〜〜〜!」
……個人の趣味!?
驚いて、もう一度穴を見つめた。
確かに、単なる落とし穴とは思えないほど綺麗に掘られている。 形も均一で、深さもある。こんな穴をいくつも掘るとなれば、相当な体力が必要だろう。
どんな人物なんだろう。脳内で、彼の姿を思い浮かべてみる。
大柄で、筋骨隆々の少年。
巨大な鍬を片手に、黙々と土を掘り続ける寡黙な職人……
そんな人物を想像した。
「綾部くんって、大きな体格なんですか?」
「えっ? いえ、むしろ小柄ですよ〜〜〜?」
「……え?」
脳内のイメージが、ガラガラと崩れた音がする。
「どちらかというと、ひょろっとしてるんですけどね〜〜〜」
「そんな体格で、この穴を……?」
余計に驚いた。
「好きこそものの上手なれ、ってやつですね〜〜〜!」
そう言って笑う小松田さんを見ながら、私は思う。
……一度、本人を見てみたい。この穴を掘り続ける少年は、どんな顔をしているのだろうか。
「おやまあ、小松田さん。また落ちちゃったんですか?」
悶々と考えていればのんびりとした声が聞こえてくる。
振り返ったそこには、紫の忍び装束を着て、鋤(すき)を肩に担いだ少年が立っていた。
「君は! 四年い組の綾部喜八郎くん!」
小松田さんが、私に彼の名前を教えてくれた。彼こそがこの数々の落とし穴を掘った張本人なのだろう。思わずじっと見つめてしまう。たしかに……細い。
脳内で想像していた、筋骨隆々の穴掘り職人とは似ても似つかない。まだ発達段階の子供らしさの残る少年だ。どちらかというと、しなやかで華奢な体つきだと思えた。
しかし、彼が肩に担いでいる鋤は使い込まれていて、柄の部分は手に馴染むように滑らかに磨かれている。
「落とし穴、こんなにたくさん掘らないでよ〜〜!」
嘆く小松田さんに対して、綾部くんはしれっとした顔で答えた。
「禁止されてませーん」
「いや、そうだけど〜〜!」
やりとりから察するに、彼が落とし穴を掘るのは日常茶飯事のようだ。
この学園では、これが普通の光景なのだろうか……?
いや、どう考えても普通じゃない気がする。
猫のようにくりっとした目が、じっと私を見つめている。
まるで、危険がないか判断するかのような視線だ。初めて顔を合わせたのでどんな人間か推し量っているのかもしれない。少しだけ緊張しながら、私は一歩前に出て会釈する。
「こんにちは」
すると綾部くんは、ゆるく首をかしげた。
「どなたですかー?」
彼は変に警戒する様子もなく、ただ純粋に興味を持ったといった表情で私を見つめていた。
穴掘りに夢中な彼のことだ。もしかしたら、ここに新しい人がいることすら、さっきまで気づいていなかったのかもしれない。
「学園でお世話になります、なまえです」
名乗ると、綾部くんは「ふうん」と、興味があるのかないのかわからない気の抜けた返事をした。
「どうも、綾部喜八郎です。こっちは踏鋤(ふみすき)の踏み子ちゃんです」
そう言って、彼は肩に担いでいた鋤を軽く掲げる。踏み子ちゃん、と名付けられた鋤は、柄の部分がすっかり手に馴染んでいるのがわかるほど使い込まれていた。
「大切に使っているんですね」
何気なくそう言うと、綾部くんはこくりとうなずく。その動作はどこか愛着がにじんでいて、彼にとってこの鋤が単なる道具以上の存在であることが伝わってくる。
「でもねえ、あんまりこれ以上穴を増やすと、また用具委員会の食満留三郎くんが怒るよ」
呆れたように、小松田さんが忠告する。
「……食満留三郎くん?」
聞き慣れない名前に、私は首をかしげた。
「六年生の人ですよ〜〜〜、道具や備品の管理をしている用具委員会の人なんです!」
「あー……確かにこの前も怒られましたねー」
綾部くんは、どこか他人事のような顔で言う。
「怒られたなら、もうちょっと反省してよ〜〜〜!」
小松田さんが嘆くが、当の本人は気にしているのかいないのか、あまり響いていない様子だった。私は心の中で、その「食満留三郎くん」という人物の名前を反芻する。たしかに、用具委員会の立場からすれば、学園のあちこちに落とし穴が開いているのは困るに違いない。どんな人なんだろう……?
名前を覚えようとしながら、まだ見ぬ彼の顔を思い浮かべようとした。ケマとはどんな字を書くのだろう……?頭の中でいくつかの漢字を思い浮かべてみるが、ぴったりと当てはまるものは思いつかなかった。また出会ったら、本人に聞いてみよう。そんなことを考えているうちに、綾部くんは鋤を担いでのんびりとした足取りで去っていった。
私は気を取り直し、小松田さんの案内に戻る。
――――その後も、案内の途中でいろいろと出来事はあった。
主に小松田さんが巻き起こした出来事だったのだけれど。それでも彼はずっとニコニコとしていて、落ち込む様子はまるでなかった。
すごいな、この人は。何度失敗しても、怒られても、彼の表情は明るいままだった。嫌味ではなく本当にすごいことだと思う。
そんな彼を見ていて自然と、ふと、疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「小松田さんは、誰かを怒らせちゃったとき……落ち込んだりしない?落ち込んだときどうやって気持ちを取り戻すの?」
自分でも意外な問いかけだった。でも、気になったのだ。
私は今、きり丸に拒絶されて、どうしたらいいのかわからずにいる。怒られたり拒絶されたら、しばらく立ち直れる気がしない。けれど、小松田さんは怒られても、長く落ち込んでいる様子を見せない。
彼はどうやって前を向いているのだろう?
「えー?」
問いかけに、小松田さんはちょっと首をかしげた。
「そうだなあ……失敗したり怒られたり、僕はいっぱい人を怒らせちゃうから、そりゃあ落ち込むけど」
朗らかに笑いながら、彼は言った。
「次は失敗しないように頑張るぞー! って思うかなあ」
明るく前向きな答えに、思わず「すごいね」と言いそうになった。でも、私が本当に聞きたかったのは、もっと別のことだ。だから、私はもう一歩、踏み込んでみる。
「……嫌われちゃったら、どうする?」
恐る恐る尋ねた。きり丸とのことを思い出すと胸がキュッとする。もう、自分は嫌われてしまったのだろうか。きり丸の冷たい目を思い出すと、胸の奥が締めつけられるかのようだ。
すると、小松田さんは少しだけ目を丸くしたあと考えるように腕を組んだ。
「うーん、もう一度好きになってもらえるように頑張るかな!」
そう言って、いつものように笑った。
その言葉に、虚を突かれた気がした。
「……もう一度好きになってもらえるように?」
そんなふうに考えたことはなかった。嫌われたなら、終わりだと思っていた。
でも、小松田さんは「終わり」だとは言わなかった。
「もう一度」という言葉が、私の胸の奥に響く。
それは希望のようにも思えたし、けれど、そんな簡単にいくはずがないとも思う。もう一度、好きになってもらうために。そう考える事もできるのか。
「うん!嫌われちゃっても諦めなかったらきっとまた好きになってもらえるんじゃないかな!それでもだめだったら、その時は仕方がなかったんだと思うなあ……やらないで後悔するより、ダメだったなって思って後悔する方がずっといい気がする」
小松田君は僕はよく人を怒らせちゃうから、と苦笑いをしていた。前向きなだけでは物事は好転しない。それでも、努力をすることもきっと無駄ではないのだろう。
そう考えるだけでも、少しだけ前を向ける気がした。
「……ありがとう」
「いえいえー!よくわかんないですけどきっと大丈夫ですよ!」
励ますように笑ってくれる、彼の太陽のような温かさが、とてもまぶしい。
夕暮れが差し始めると、風が少し冷たく感じられ、日が沈む前の静かな時間が広がっていた。仕事が終わったばかりの私の心も、ようやくほっとひと息ついていた。初めての仕事を無事に終え、少しずつ学んでいけたことに安堵していたけれど、心のどこかではまだ緊張が残っていることも確かだった。明日も、また新しいことが待っているのだろう。どうかうまくできるようにと、今日は早めに休むことにしよう。
歩きながら、夕焼けの空と、家々の灯りがだんだんとともる様子を眺めていると、遠くから子供たちの笑い声が聞こえてきた。聞き慣れた元気な声に、私は思わずその方向に視線を向ける。ふと、きり丸の姿が見えた。彼はは組の子供たちと一緒に遊んでいるようだった。元気に走り回ったり、みんなでかくれんぼをしているのかもしれない。しばらくその光景をぼんやりと眺めていると、ふと、誰かが私に声をかけてきた。
「あ!お姉さん!」
その声に振り向くと、子供たちがこちらに向かって手を振りながら走ってくるのが見えた。きり丸も、その中の一人のようだ。けれど、その瞬間、彼が私を見た後、すぐに顔をそらしてしまう。その姿に、胸が少し痛んだ。あからさまに避けるような仕草に、私は驚きとともに、何とも言えない感情が込み上げてくる。
心臓が急にどきりと鳴ったような気がして、しばらくその場に立ち尽くしてしまう。あんなに仲良くしていたのに。もしかして、きり丸は私をもう……。
その考えが頭を巡ると、胸が締め付けられるような痛みに変わった。何かを言いたかったけれど、声が出せなかった。子供たちはすぐに遊びに戻り、きり丸は一緒に駆け出していった。私一人だけが、ぽつんとその場に取り残されたような気がしてしまう。
目を閉じて深呼吸をすると、冷たい風が頬を撫で、少しだけ落ち着くことができたが、、心の中に広がる不安や疑問が消えることはなかった。
その後、きり丸が冷たく歩き去っていく姿を見つめながら、心の中で言葉を詰まらせているままだ。子供たちが心配そうに私を見つめ、しんべヱや乱太郎もきり丸を追いかけて呼び止めようとしている。でも、その姿勢や言葉は、私には届かないように感じていた。
「みんなと遊んでいたの?」
私が声をかけた瞬間、きり丸は一瞬立ち止まり、私を冷たい目で見つめ返した。それから「別に関係ないでしょ」と冷たく吐き捨てるように言って、すぐに歩き出してしまう。言葉の端々に感じるあまりにも素っ気ない態度に、胸が痛む。昔、彼が私を慕ってくれていた頃は、こんな風に避けられたり、冷たくされたりすることはなかった。あの頃のきり丸は、もうどこにもいないような気がして、深い悲しみが込み上げてきた。
「もう!きりちゃん、そんな言い方ないでしょ!」
乱太郎が急に声をあげ、きり丸を咎める様子が見えたが、きり丸はただ「俺先帰る」と一言だけ残して、さっさと走り去ってしまった。残された子供たちが、「きり丸ーーー!」と叫んで、必死に呼び止めようとしたけれど、彼は振り返ることなく、どんどんと遠くに行ってしまう。
その様子を見ていた私も、どうしていいか分からず、足を動かすことができなかった。それほどまでに彼を傷つけてしまって、顔ももう見たくないのだろうか……。
子供たちがきり丸を追いかけていく姿を見送りながら、彼への申し訳なさが募っていく。
「おねえさん……」
乱太郎の声がかかり、私はその言葉に振り向くと、彼の顔には心配そうな表情が浮かんでいた。それを見た私は、何とかして笑顔を作ろうとしたが、どうしても上手くいかず、つい「私が悪いから」と小さく笑ってしまった。
そして、気にしないでほしいと告げる。
「私が怒らせちゃったから、しょうがないの。あの子の反応はきっと間違ってないから、気にしないで」
そう言うことで、自分自身を納得させようとしていた。
でも、そう言っているうちに、心の中に膨らむ寂しさが、悲しみを呼んで来る。きり丸と過ごした日々が思い返されると、その思い出が胸に圧し掛かってきて、どうしても涙がこぼれそうになる。
「そんな悲しい顔しないでください!」
すると、突然喜三太の声が響いた。驚いて顔を上げると、喜三太がすぐに私の側に寄り添って、悲しそうに見つめてきた。彼の目には心配と優しさが混じっていて、その表情があまりにも可愛らしくて、悲し気で、思わず胸が熱くなった。
「きり丸はきっと言いたいことがあるけど、言葉が出て来なくって、気まずくって逃げてるだけなんです!」
しんべヱも優しく言って、私の隣に立っていた。彼の言葉に、少しだけ心が軽くなるような気がしたが、それでも私の胸に渦巻く思いは消えなかった。
二人の言葉に、私はもう一度ぐらぐらと揺らされるような気持ちになる。こんなにも私を気にかけてくれている子供たちがいることが、嬉しくて、また同時に申し訳なくも感じた。私は大人として、もっとしっかりしなければいけないのに、こんなに子供たちに頼りにされてしまっている。その思いが交錯し、胸がぎゅっと締め付けられるようだ。
「ありがとう……本当にありがとう」
思わず二人に声をかける。喜三太としんべヱは、黙って私を見つめ、笑顔を浮かべてくれた。それだけで、少し心が軽くなった気がした。でも、やっぱり、きり丸のことが気になって仕方がなかった。
「大丈夫だよ、そんな泣きそうな顔しないで」
安心させるように告げれば、乱太郎が悲しそうな声で続ける。
「泣きそうな顔をしているのはおねえさんのほうですよ……」
その言葉に、私は驚き、そして気づいた。自分が上手に笑えていないのだと。目の前で、私が気にしていることを、ちゃんと見透かされているような気がして、少し恥ずかしくなった。
「どうしたらいいかわからないの……でも、仲直りしたい」
私は自分の心から溢れ出る気持ちを口にした。きり丸と昔みたいに、笑い合いながら過ごせる日々が戻ってきてほしい。食堂のおばちゃんが励ましてくれたことを思い出し、小松田さんが言っていたように、あきらめずに向き合いたい、そう思った。きり丸にもう一度話しかけて、心が通じ合ったら、すぐにでもぎゅっと手を握り締めてあげたい。
その時、みんなが静かに私を見る。乱太郎は「みんな!」と呼んで、庄左エ門が頷き力強く言った。
「一年は組のみんなできり丸とおねえさんが仲直りできるように協力しよう!」
その言葉に驚くが、彼らの真剣な眼差しと、少しの勇気をくれるようなその言葉に、私は少し驚きながらも、温かい気持ちになった。
「みんな……」
私は思わずその温かな気持ちに包まれながら、言葉を紡ぐ。
「きっと仲直りできますよ!」
「そうそう!いつまでも気まずかったらやっぱり寂しいもん!」
「ナメクジさんも協力してくれますよ!」
みんな口々に慰めるような言葉をかけてくれる。
子供たちに気を遣わせていると申し訳なく思うと同時に、暖かなものが満ちていく気がした。
「ありがとう……本当に。みんなが協力してくれるなら、きり丸ともきっとまた向き合えるよ」
私は胸がいっぱいになり、目の前で頑張っているみんなを見ながら、もう一度深くうなずいた。
すると、彼らが一斉に「おー!」と声を合わせ、笑顔を見せてくれた。あたたかい応援を感じると、どこかで頑張らなければという気持ちが強く湧き上がってくる。子供の笑顔はすごい力をくれるのだな。そう思う。単純かもしれないがどんなに時間がかかっても、きり丸と仲直りできるように、みんなと一緒に進んでいける気がした。
それと同時に、きり丸との関係が少しでも良くなって、みんなと一緒に笑える日が来ることを信じて、今は一歩ずつ歩んでいこうと心に誓う。
「みんな、ありがとう。自分にできることを少しずつやっていくね。仲直りできなくても、許してもらえなくても、ちゃんと話してもらえるように向き合うよ」
そう告げると、子どもたちは一斉に頷き、「絶対仲直りできますよ!」と元気いっぱいに励ましてくれた。その声の明るさと力強さに、私は頷いていた。
なんて、優しい子たちなのだろう。 まだ出会って間もない私のために、こんなにも真剣に考えて、支えてくれようとしている。だけど、きっとそれだけじゃない。
彼らは、私のためだけではなく、きり丸のためにも動いてくれているのだろう。きり丸が、仲間として大切な存在だからこそ、彼の気持ちが少しでも軽くなるようにと手を差し伸べてくれているのだ。
――――きり丸は、私の知らない間に、たくさんの人との絆を築いたのだ。
そう思うと、胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。でも、それは決して悪い感情ではなかった。むしろ、ほっとしたのだ。あの子のそばには、支えてくれる人がたくさんいる。私がいなくなった後も、彼は決して一人ではなかったのだ。
それが、何よりもうれしかった。
自分勝手に去ってしまった私が言うことではないかもしれない。それでも、心のどこかでずっと気にしていたことが、ようやくほどけたような気がした。
「ありがとう」
心を込めてそう伝えると、みんながぱっと明るい笑顔を見せてくれた。
その笑顔を見ていると、また少しだけ勇気が湧いてくる気がした。
子供たちと別れ、しばらく雑務をしてから戻ろうとした時だった。
かくん。
足元が急に消えた。一瞬、何が起きたのかわからないまま、ふわりと体が浮き、その直後――――全身に衝撃が走った。
「いっ……た……!」
地面に叩きつけられるようにして落ち、反射的に目をぎゅっと閉じる。
ジンジンと痛む腕や背中をさすりながら、ゆっくりと目を開けた。
頭上には、茜色に染まる広い空。静かに広がる夕焼けが、ぼんやりとした光を投げかけている。自分が穴に落ちたのだと気づいたのは、しばらくしてからだった。
「……まさか、本当に落ちるとは」
呆然と穴の中でつぶやく。
昼間、小松田さんが何度も落ちていた穴――――きっとこれもその一つだろう。あんなに気を付けようと思っていたのに、考えごとをしているうちに足元がおろそかになってしまっていたらしい。
「……どうしようかな」
とりあえず、助けを呼んでみようと声を上げる。
「誰かいますかー!」
しばらく待ってみるが、反応はない。
ぽつんと、穴の中に取り残されてしまったらしい。
「うーん……」
腕を組んで考える。ここからどうにかして登るしかない。
指を土にひっかけて、壁をよじ登ろうと試みる。しかし、握った土がぽろぽろと崩れてしまい、上手くいかない。
「ぐっ……! 全然登れない……」
指先がじんじんと痛むだけで、まったく進まない。これでは埒が明かない。
「……仕方ない、ちょっと休もう」
穴の底にそっと腰を下ろす。ふと、何かに誘われるように仰向けになってみた。
土の感触が、どこか懐かしい。
まるでずっと前からこんな風に土の中にいた気がする。変な話だけれど。
そう思うと、不思議と落ち着くような気がした。
かつて、この身は土の中で静かに眠っていたかのように、地上の世界を知らず、ただひたすらに、幼い命を温めながら過ごしていたかのように思えるのはなぜだろう。
その感覚が、今のこの状況とどこか重なる。
穴の中は、静かで、心地よかった。
思わず、笑ってしまう。
落とし穴に落ちたというのに、こうして落ち着いてしまう自分が可笑しかった。
とはいえ、ずっとここにいるわけにもいかない。
どうにかして脱出しなければ。
「誰か……来るかな」
ぼんやりと空を見上げながら、もう一度、小さく呼びかけてみたが誰かが来る気配もない。
自然と目を閉じたまま、横たわっていた。
ふわふわとした気分の中で、知らない景色が見えた気がした。
淡く、にじむような光が揺れている。
――――どうして、こんなにも土の中が懐かしいと思うんだろう?
自分でもわからない。
けれど、心の奥底にじんわりと広がるこの感覚は、まるで故郷に帰ってきたような、そんな安心感があった。
「おやまあ」
ふと、声がする。ゆっくりと目を開けると、逆光で一瞬誰かわからなかったが、影の輪郭をよく見ると見覚えのある人物だった。
「――綾部くん?」
「穴に落ちて寝てる人は珍しいですね」
彼は穴のふちに立ち、意外なものを見るような目をしていた。
「……意外と居心地がよくて」
正直に答えると、綾部くんは「ふむ」と考え込む素振りを見せた。
何を思ったのか、次の瞬間――
ひょいっ
なんと、彼は穴の中に飛び込んできた。
「えっ!?」
驚く間もなく、土が舞い、綾部くんがすぐ隣に横たわる。
この穴は結構広かったはずだが、さすがに二人が寝転がるとなると少し窮屈だった。
「え、ええと……?」
戸惑っていると、綾部くんは静かに言う。
「あなたが褒めてくださったので、出来栄えを確かめてみました」
彼は瞬きをせずに、まっすぐこちらを見つめてくる。
そのまっすぐな視線に、なんとなく困惑してしまう。
「確かめてみたって……?」
「ほら、穴の中の居心地。さっき“意外といい”とおっしゃってましたよね?」
「あ、うん……そうだけど……落ち着くというか」
「だから、自分でも試してみたんです」
そう言って、綾部くんは静かに土の感触を確かめるように手を動かした。
「……なるほど。確かに、我ながらいい出来栄えですね」
感心したような口調でうなずく彼を見ていると、なんだか可笑しくなってしまう。
つい、くすっと笑ってしまった。
「綾部くん、変わってるね」
「よく言われます」
綾部くんは微笑むでもなく、淡々とそう言った。
ふと、穴の中に二人だけ。静かな時間が流れる。
頭上には、夕暮れの光。穴の中には、土の匂いとひんやりとした空気。
どこか、不思議と落ち着く時間だった。じっと見てくるのでどうしたの?と尋ねれば彼はじっと見つめたまま答える。
「穴に落ちて怒る人は何人も見てきましたが、落ち着くと、そう言われることはなかったので」
綾部くんは、淡々とした口調で言った。
彼の言葉に、思わず小さく笑ってしまう。確かに、普通は穴に落ちたら怒るものだろう。
けれど、私は――なぜだか妙に落ち着いてしまったのだ。
「……穴を掘るの、好きなの?」
そう尋ねると、彼は少しだけ表情を柔らかくし、静かにうなずいた。
「ええ、あなたは見どころがありますね」
彼はそう呟くように言うと、何かを考えるようにわずかに目を伏せる。
「……また穴に入りたくなったなら、入ってくれてもいいですよ」
そう言われ、一瞬、何のことかと考えてしまった。
彼の掘った穴に“入る”――つまり、わざわざ落ちるということ……?
「落ちない形なら、ね」
思わず念を押すと、綾部くんはうなずく。
「わかりやすくあらかじめ掘っておくと、埋められてしまいますから、入りたくなったら掘ってあげてもいいですよ」
真面目な口調で言う彼に、苦笑がこぼれた。
「……あはは、変な話」
食満留三郎くん。用具委員会の彼の苦労がなんとなく想像できる。
落とし穴が増え続けるのを防ぐために、学園側も相当対策をしているのだろう。
「埋められないように、こっそり掘るのもまた技術です」
そう言いながら、彼はそっと踏鋤を撫でた。
本当に、穴を掘るのが好きなんだな……。彼の手つきには愛着が感じられた。
踏鋤の踏み子ちゃん、という名前までつけるくらいだ。
「……まあでも、しばらくは気をつけて歩こうかな」
「それがいいと思います。小松田さんを見ていれば、よくわかるでしょう?」
確かに。今日一日で、小松田さんが何度穴に落ちたことか……。
思い出して、思わず小さく笑ってしまった。綾部くんも、ほんの少し口元をゆるめる。
穴の中での、ちょっと不思議なひととき。秘密基地のようだ。
土の匂いに包まれながら、しばらくすると彼は穴をよじ登りはじめた。慣れていることもあるのかさほど時間をかけずに彼は穴から出ていく。忍者ってすごいなあと感心しながら私も
穴からよじ登る途中で、ふいに視界の端に綾部くんの手が見えた。
じっとその手を見つめていると、「いらないんですか?」と静かな声がする。
わずかに手を引っ込めようとする気配を感じて、慌てて「そんなことないよ」と言った。
すると、彼は再び手を差し出してくれた。
しっかりとその手を握る。
まだ幼さの残る細い指――けれど、驚くほど力強かった。
ぐいっと引っ張られて、どうにか地上へと這い上がる。
途端に、目の前に広がる景色が一気に開けた。オレンジ色の夕陽が辺り一面を染め、長い影が地面に伸びている。先ほどまで土の中にいたので太陽の光が特別まぶしく思えた。
「……きれいな景色だね」
眩しさに目を細めながら、そうつぶやく。
「そうですね」
綾部くんは穏やかにうなずいた。なんとなく、そのまま二人で長屋の方へと歩く。
夕暮れの風が、土の匂いを運んできた。
「落とし穴の見分け方、教えてあげますよ」
ふいに綾部くんが言う。
「知らないところで落ちてたら、助けてあげられませんから」
どこか他人事のような口調だけれど、その言葉に優しさが滲んでいる気がした。
「そんなに何度も落ちるかなあ?」
冗談めかして言うと、彼は少し得意げな顔になって、「何個も掘ってますから」と、さらりと言う。その言葉に、思わず吹き出してしまった。きょとんとした表情のまま、綾部くんは少し目を見開いてこちらを見つめている。
「それ」
そう言って、指をさす。
視線を追うと、自分の腕のあたりが少し赤くなっていた。どうやら、落ちた衝撃で擦りむいてしまったらしい。
「ああ……ほんとだ」
自分ではあまり気にしていなかったが、綾部くんはすぐに察したようだ。
「そうか、受け身とれなかったんですね。すみません」
申し訳なさそうに言って頭を下げる。
「そんなに痛くないから大丈夫だよ」
そう言ったものの、彼はすぐに「保健室に行ってください」と、きっぱり告げる。
「いや、ほんとに大したことないし……」そう言いかけたが、綾部くんは淡々とした声で言いながら、すっと手を伸ばし、こちらの手を引いた。
「女性に傷が残ってしまっては、さすがに悪いですから」
強引というほどではないが、しっかりとした力強さだった。そのまま引かれるようにして歩きながら、ふと気づく。
この子は、誰かを傷つけたくて穴を掘っているわけじゃないんだ。
落とし穴に落ちた人を見て面白がるのではなく、ちゃんと責任を感じている。そして、傷ついた相手のことを気にかける優しさも持っている。それがなんとなく分かって、少しだけ頬が緩んだ。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、保健室までお願いしようかな」
そう言うと、綾部くんは「ええ」と相変わらず淡々とした声で言った。
けれど、その横顔はほんの少しだけ、安心したようにも見えた。
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