4

山の夜は冷え込む。疲れ果てたわたしは、木の根元にもたれかかるようにして眠っていた。どれほどの時間が経ったのか分からない。ただ、身体が石のように重く、まぶたを持ち上げる気力すらなかった。そんなときだ。

「うわっ!」

鋭い悲鳴が耳をつんざいた。驚いて目を開けると、わたしの前に小さな影があった。薄暗い月明かりに照らされたその子供は、腰を抜かしたように地面に尻もちをついて、目を見開いている。

「し、死んでるのかと思ったぞ……!」

わたしは自分の姿を見下ろした。衣は泥と血に塗れ、髪も乱れ放題だ。確かに、そんな姿で倒れていれば死体と勘違いされても無理はない。

「怖がらせてしまってごめんなさい」

そっと身体を起こしながらそう謝ると、子供はわたしを警戒するようにじっと見つめた。それでも、わたしが敵意のないことを察したのか、やがてふうっと息を吐いて立ち上がる。

「びっくりした……いや、お前に構ってる場合ではない!薬草探さないといけないんだ」

わたしはその言葉に首を傾げる。

「薬草?」

わたしの問いかけに子供は最初は何も答えなかったが、じっと見ていると息が詰まるといってあきらめたように語る。

「そうだ。父上が火事に巻き込まれたんだ。それで、父上の代わりに大きな火傷を負った人がいて……」

ぶっきらぼうな口調だったが、その声の端々には焦りが滲んでいた。どんどんと表情が険しくなり、彼は自らの手を強く握りしめている。

「薬師様が言ってた薬草を持って帰れば、少しは楽になるって話だったからな。探しに来たんだ」

月明かりの下、子供の小さな手は地面の草を掻き分けるようにして必死に動いていた。
火事。その言葉に、わたしの胸が痛んだ。

「……どこで火事があったの?」

子供は顔を上げ、少し不機嫌そうに言った。

「見ず知らずの人間にぶしつけだな」

「どんな人が怪我をしたの?」

「人の話を聞いてるのか!?」

ぷんぷんと怒り始めてしまった子供を見ながらもわたしの胸がざわついた。
——もしかして、若君……?わたしはぐっと拳を握りしめる。若君は……生きているのだろうか?

「もういい!邪魔するなよ!変な女だな!」

わたしは目の前で懸命に草を掻き分ける子供を見つめた。その小さな手は土を払い、葉をひっくり返し、時折ため息をつきながらも、ひたむきに探し続けていた。
この子も、きっと恩人に対して自分のできることをしたいのだろう。
その気持ちは痛いほどわかる。わたしも若君に助けられたからこそ、どんな苦難があろうともこうして探し続けているのだから。

「お前に構ってる暇はないんだ」と子供はぶっきらぼうに言い放つ。
しかし、その言葉とは裏腹に、その顔には焦りと不安が浮かんでいた。わたしはその小さな背中を見つめる。

「一緒に探すよ」

わたしの言葉に子供は一瞬、驚いたようにわたしを見上げたが、すぐに「邪魔をしないなら、好きにすればいい」とそっけなく返した。
それでも、探し続けるうちに、少しずつ言葉が減り、わたしの存在を気にしなくなっていった。

わたしは昔、山で過ごしていたときに僅かながら薬草の知識を得ていた。傷を癒す葉、火傷に効く茎、苦みのある根——それらを思い出しながら、手早く草むらの中から目当てのものを探し出す。

「これも使えるかもしれない」

そう言って差し出すと、子供はわたしの手の中をじっと見つめた後、やや渋々とした様子で「……まあ、悪くないな」と呟いた。
次第にわたしたちは無言のまま草を探し続け、わたしは若君のことを思い出していた。あの方も、もし今どこかで傷ついているのなら、誰かが助けようと必死になっているのだろうか。それとも、もう……胸の奥に湧き上がる不安を振り払いながら、わたしは小さな草を手に取る。若君ではなかったとしても、ひどいやけどを負った人物の事をなんだか放っておけないと、そんな気持ちが押し寄せてくるのだ。

「ねえ……あなたの帰る場所にわたしも一緒に行っていい?」

唐突な申し出に、子供は顔を上げる。

「……は?」

「心配だから。ついていきたい」

子供はしばらく無言だった。明らかに困惑しているようで、眉をひそめながらわたしをじっと見つめる。わたしを推し量り、見定めるような視線だ。出会ったばかりで身元もわからぬ女に対して警戒しているのだろう。

「……迷惑をかけないなら」

そう言うと、子供は大きくため息をついた。

「勝手にしろ。でも、邪魔をするなよ」

子供は少しめんどくさそうにするが、わたしはほっと息をつき、小さく微笑んだ。

「ありがとう」

「……礼なんかいらない、言っておくが迷惑をかけたら追い出すからな」

子供はそう言いながら、手にした薬草を乱暴に袋へと詰め込んだ。そして、ふと何かを思い出したように、わたしを見上げる。ええと、と彼は考えたような様子のあと名を名乗る。

「私は尊奈門だ」

「……尊奈門」

「そうだ。お前は?」

その問いに、わたしは一瞬迷った。わたしは……何と名乗ればいいのだろうか?若君のところにいたときは適当な名前で呼ばれていていつしかそれがわたしの名前のようなものになっていた。同じ名前でいいかと考えて、わたしはその名前を名乗る。

ふうん、とわたしの名前を聞いた尊奈門は「ま、別にどうでもいいけどな」と呟くと、また草を探し始めた。わたしはそんな子供の後ろ姿を見つめながら、そっと小さく息をつき、再び手を動かし始めた。薬草を取り終えた後わたしはそうして彼についていったのだ。



尊奈門に連れられ、わたしは村の奥へと進んだ。道の両脇には焼け落ちた家々が並び、炭の匂いが鼻をついた。わずかに残るすすけた柱が、かつてここに人々の営みがあったことを物語っている。

やがて、小さな小屋の前にたどり着くと、尊奈門はわたしを振り返ることなく、そのまま戸を開ける。部屋の中には、数人の大人たちが集まっていた。その中央に横たわる男の姿があった。彼の顔には深い皺が刻まれ、腕には布が巻かれていたが、その下に隠されたひどい火傷の跡がかすかに見える。痛みに耐えているのか、息は荒く、汗が額ににじんでいた。
これはきっとひどくつらかろう。
尊奈門が一歩踏み出した瞬間、大人の一人が険しい顔で彼を睨んだ。

「お前な……! こんな見ず知らずの者を勝手に連れてきてどうする!」

尊奈門はびくりと肩を震わせた。

「だって、手伝ってくれたから……!」

彼の声は震えていたが、それでも必死に言葉を続けた。

「薬草を取るのを手伝ってくれたし、薬の知識も少しあるみたいなんだ……! だから、少しでも昆奈門様の治療に役立てるんじゃないかって……!」

語るうちに、尊奈門の声はかすれ、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。必死に泣くまいと唇をかみしめたが、こらえきれずあふれ出てしまったようだった。

「……私は、っ……何もできない……! どんなに頑張っても、火傷を治せるわけじゃない……! だけど……それでも何かしたかったんだっ……!」

拳を握り締め、唇を噛み締めながら、彼は自分の想いを必死に伝えるその様子を、わたしは、その姿をじっと見つめた。恩人を助けたいと思う気持ち、それは痛いほどわかる。
わたしも、若君を探し続けているのは、同じ理由だった。助けられた命を無駄にしたくない、その人のためにできることをしたい——それがどんなに小さなことでも。

彼がこの火傷を負った人の事を案じ、力になりたいと思うのはきっとわたしと同じ気持ちなのだろう。それでいて、自分は何もできないのではないかと無力さを感じてしまい、それがどうしようもなく悔しいのだ。
彼の姿を見ていたわたしは静かに膝をつき、頭を下げた。

「どうか……力にならせてください」

大人たちは顔を見合わせた。わたしの言葉をどう受け止めるべきか決めかねているようだった。

「……お前は何者なのだ?」

問いかけるような視線を向けられる。確かに、彼らにとってわたしは突然現れた得体の知れない存在にすぎない。それでも引くわけにはいかなかった。
この子供の姿を、自分と重ねている。だからどうしても力になりたかった。ここでわたしがこの子供のことをあきらめたら、もう二度と若君と会えないような気がしたのだ。

「名乗れるものは何もありません。ただ、尊奈門殿の気持ちはよくわかるのです」

 再び深く頭を下げる。しばらく沈黙が落ちた。わたしはただ、待つしかなかった。
やがて、一人の年配の男がため息をつくように言った。

「……本当に何かできるのか?」

「はい」

短く答えると、男はじっとわたしを見た。そして尊奈門に確かめるように視線を向ければ、尊奈門も「医療の知識はわかりませんが、薬の知識は少しはあるようです……」消え入りそうな声でそのように口添えをしてくれる。
二人でじっと見つめ、そして、しばらくの間沈思した後、ようやく小さく頷いた。

「……そこまで言うなら、やってみるがいい」

尊奈門は驚いたようにわたしを見た。

「本当に……?」
「責任はお前が負うんだぞ尊奈門。その女のことはわからんが、少しでも助けになるなら、それに越したことはない」

大人たちはまだ警戒の色を隠さなかったが、それでも承諾してくれたのだ。尊奈門は袖で涙を拭い、わたしをまっすぐ見つめる。

「……頼む、力になってくれ」

その一言に、わたしはもちろんだと静かに頷いた。



わたしは医療の知識など持ち合わせていなかった。ただ、言われたことを必死に覚え、手を動かし、昆奈門と呼ばれた男の治療に関わった。
炎に焼かれた肌は赤黒く腫れあがり、痛みに震える姿は見ているだけで胸が締め付けられた。薬を塗るときも、包帯を巻くときも、昆奈門は苦しそうに顔を歪め、時折浅く眠っては、また痛みによって目を覚ました。終わることのない痛みは地獄だろう。起きていても眠っていてもきっと炎に焼かれているに違いない。

わたしも同じように火に焼かれた経験があるが、とてもではないがもう二度と体験はしたくないものだ。あの火の鳥の炎とは異なるもの。すべてを焼き尽くす炎は恐ろしい。けれど、あの鳥の火はどうしてあんなにも美しいのだろう。恐ろしくもありつつも暖かなものだ。本来は火は、命を与えるものなのに牙をむくときはひどく恐ろしいものだ。

治療を行っている時尊奈門もまた、辛そうにしていた。薬草をすりつぶしながらも、時折手を止めて昆奈門の顔を覗き込み、歯を食いしばるように黙り込む。

「大丈夫ですか……?きっとよくなりますから、わたしにできることは、なんだって、やりますから…………なんでもおっしゃってください……」

彼はそう呟くが、返事はない。ただ、荒い息遣いだけが暗い部屋に響く。
そんな中、うなされる昆奈門の手がわずかに宙を彷徨った。

わたしはその動きをじっと見つめた。不安なのかもしれない。痛みで意識が朦朧としながらも、何かを求めているのではないか。

わたしはそっと、その手を握った。

昆奈門は朦朧とした意識の中驚いたようにわたしを見た。ぼんやりと焦点の合わない目が、わたしの顔を探るように動く。

「大丈夫」

小さくそう囁くと、昆奈門の眉がかすかに動いた。次の瞬間、強い力で手を握り返される。
痛みが走るがわたしは手を離さなかった。

「大丈夫ですよ」

痛みに耐える彼の心が少しでも落ち着くように、何度もそう繰り返した。
彼の力は強く、指が痛みで痺れそうだったが、それでもわたしはその手を握り続けた。
やがて、昆奈門の瞼が重たげに閉じられると静かに、深く息を吐き、ついに意識を手放したのだ。

わたしはそっと、彼の手を包むように握りながら、その眠る姿を見つめた。
きっと彼はまだ生きたいのだ。生きる意志があるならば大丈夫。あの時、わたしも死に瀕して生きたいと願ってここにいるのだから、だから大丈夫だ。
根拠もなく大丈夫だと安心させるように男に何度も言い聞かせた。

「苦しいのですか?」

すこしでも、気分が和らぐものはないだろうか。そういえば、昔若君に歌を教えてもらったのだっけ。一度しか聞いていないからほとんど覚えていないが、気休め程度に歌でも歌ってあげた。きっと上手ではないだろう。人に聞かせたこともない。たどたどしい歌。人間の歌は難しい、それでもこんなものでもよければ。

施しのような歌を、わたしは必死に歌う。鈴虫か、蟋蟀(キリギリス)でもあればもっと歌がうまかっただろうか。それからも、同じような日々が続いた。
昆奈門の傷が少しでも癒えるように、尊奈門と共に薬を作り、手当てをし、夜通し様子を見守る。そんな日々が続き続けた

苦しみの中で、彼が手を伸ばせば、わたしはそっとその手を握った。
若君があの時、わたしを拾い上げたように。わたしは手を握る。そうして、わたしと尊奈門は昆奈門の回復を願いながら、夜を幾度も越えていったのだった。


数か月の時が流れるうちに、尊奈門との距離は少しずつ縮まっていった。
最初はぶっきらぼうで、何を話しても素っ気ない返事しか返ってこなかった彼だったが、今では時折、柔らかな表情を見せるようになったのはうれしい。若君とは彼は違う人間だが、笑ってもらえるというのはひどくうれしいものだ。心が、暖かくなる。
薬草を煎じながら彼の横顔を見つめていると、ふと若君のことを思い出す。彼もまた、最初はわたしのことなど気にも留めていなかったが、少しずつ心を開き、一緒に遊んでくれるようになった。

懐かしいな。そんな思いが胸に込み上げ、自然と微笑みがこぼれた。
尊奈門はそれに気づいたのか、わたしの顔をちらりと見て、なぜか少し顔を赤らめた。

「……そんな風に笑えるんだな」

彼の呟きに、わたしは不思議そうに首を傾げる。

「そんな風に?」

「……いや、別に」

尊奈門はそっぽを向き、いつものようにぶっきらぼうに返したが、その耳がほんのり赤いような気がした。

「もっと、そうしていたらいいのに」

「え?」

「〜〜〜……なんでもない!」

結局何でもないと言い切られてしまってそこでその話は終わった。



それから、昆奈門の治療を続けながら、尊奈門と世間話をすることが増えた。ある日、薬草を煎じながら彼が何気なく尋ねる。

「そういえば、お前はどこから来たんだ?」

その問いに、わたしは少し迷った。けれど、隠すことでもないと思い、これまでの生涯をありのままに語った。

——夏の終わりに命を落としかけた蝉だったこと。
——火の鳥に願いを叶えられ、人間になったこと。
——若君と再び出会うために、何度も命を落としながら彷徨い続けていること。

話しながら、尊奈門の表情がだんだん険しくなっていくのがわかった。彼は腕を組み、わたしをじっと睨みつけるように見たあと、呆れたように息を吐く。

「……子供だからって、冗談でごまかすなんてひどいぞ」

わたしは目を瞬かせた。

「本気で言ってるのだけれど……」

「ふんっ……そういうことにしといてやるよ」

尊奈門はつまらなそうに顔をそむけた。どうやらまったく信じてもらえなかったらしい。まあ、無理もないか。わたしは肩をすくめながら、まあいいかと思った。彼に信じてもらえなくても、わたしはわたしの道を行くだけだ。わたしは人の姿を得ただけのただの虫、それでもいい。



昆奈門の治療を続けながら、また次の夜が訪れた。


その夜、治療の合間にふと冷たい風が吹き込んだ。わたしたちが寝泊まりしている小さな部屋の隙間から、か細い音が聞こえてくる。

……チチチ

その音に気づいたのは尊奈門だった。彼は目を細めて、床の方をじっと見つめる。

「……なんだ?」

わたしも音のする方を見てみると、小さなコオロギが、畳の上で足を震わせながらじっとこちらを見上げていた。

「虫か。追い出すぞ」

尊奈門は手近なものを掴み、追い払おうとした。しかし、わたしは咄嗟に手を伸ばして彼の腕を止めた。

「かわいそうだから、そんなことしないで」

尊奈門は怪訝そうな顔をして、わたしをじっと見る。

「なんでだよ。ただの虫だぞ」

「だって……この子も迷い込んできただけで、何も悪いことをしていないもの」

わたしが優しく言うと、尊奈門は呆れたように息を吐いた。

「お前って、ほんと虫にひどくやさしいんだな」

わたしは小さく笑い、畳にそっと手を置いた。指先をゆっくりと近づけると、コオロギは一瞬身をすくめたが、すぐにぴょんと跳ねてわたしの手の上に乗った。その小さな感触に、わたしの胸がじんわりと温かくなる。

「自分に似ているから、かもしれない」

そう呟くと、尊奈門はわたしの顔をじっと見つめ、やがてくしゃっとした顔をして笑った。

「変な奴」

「そうかもしれないね」

わたしはコオロギを指先でそっと撫でながら、ふと昔聞いた話を思い出した。

「そういえば……昔、どこかの国では、コオロギは何千年も生きて、この世の流れを見てきたという言い伝えがあるらしいよ」

尊奈門は怪訝そうに眉をひそめた。

「何千年? そんなことあるわけないだろ」

「そうかもしれないね」

わたしは肩をすくめ、手のひらのコオロギを見つめる。

「でも、虫の一生と、人の一生……どちらが長いんだろうね?」

わたしが問いかけると、尊奈門は即座に言い切った。

「人間に決まってるだろ」

彼の言葉に、わたしは小さく微笑んだ。

「……そうだね」

でも、それは本当なのだろうか。
コオロギは短い命の中で、懸命に生きている。けれど、人の一生も、もしかしたら同じくらい短く、儚いものなのかもしれない——そう、わたしは思った。
わたしの手のひらの上で、コオロギは再び小さく鳴いていた。



夜は静かで、どこか遠くで虫の鳴く声がかすかに響いていた。ろうそくの炎が揺らめき、壁に映る影がぼんやりと揺れる。尊奈門は昼間の疲れからか、隣で静かに寝息を立てていた。彼は無防備な寝顔のまま、わずかに眉をひそめている。昼間、懸命に薬を煎じたり、包帯を巻いたりしていたことを思い出し、わたしは彼の手が傷だらけなのを知っていた。
わたしもうとうととしながら、火が揺れるのをぼんやりと眺めていたときだ。

「……ねえ」

不意に、ひどくがさがさとした声が聞こえた。わたしは思わず身を強張らせる。誰の声かすぐに分からなかった。しかし、目を凝らしてみると、そこには布団の上でわずかに頭を動かした昆奈門の姿があった。

「……あの話は……本当……?」

か細い声が、闇の中に消えそうに響く。昆奈門だった。
驚いてすぐに顔を覗き込む。これまでずっと意識を失っている時間が長く、まともに言葉を交わせることすらなかったのに、こうしてわずかでも声を出せるようになったのだ。彼の声は小さくて耳を凝らさなければ掻き消えてしまいそうだ。彼の口元に耳を近づけた。

「何の話でしょう?」

昆奈門の方にそっと身を寄せると、彼はかすかに瞬きをして、息を詰まらせながら答えた。

「……コオロギの…………」

その問いかけは、まるで今にも消えてしまいそうな儚さだった。わたしは少し微笑んで、静かに言葉を返す。

「そうですね……言い伝えなので、本当かどうかは分かりません。でも、本当だったらなんだか素敵ですね」

昆奈門は、かすかに笑った。それは、自嘲するような、どこか寂しげな笑みだった。

「……虫よりも……先に……自分が……死にそうだ…………」

わたしは彼の目を見た。薄暗い灯りの下で、彼の視線は自分の体をじっと見つめている。やせ細り、包帯に覆われた腕。深く刻まれた火傷の跡。痛みに耐え続けた身体は、彼の気力すらも削り取ろうとしているように見えた。
——彼は、自分がもう助からないと感じているのかもしれない。

けれど、わたしはどうしても諦めてほしくなかった。
わたしはそっと昆奈門の手に触れ、静かに語りかける。

「そんなことありません。あなたは生きる意志が強いのだから、きっと大丈夫です」

彼は少しだけ目を開き、わたしを見つめる。

「……生きる意志……」

「ええ。気持ちが人を強くするのだと、わたしは思います」

昆奈門の目がわずかに揺れる。

「……そうだったら……いいね……」

そう呟いた彼の表情が、ほんのわずかだけ和らいだ。やがて、彼は再び目を閉じる。眠りについたのか、それともまた気絶してしまったのか。それでも、わたしは彼の顔を見つめながら、小さく息を吐いた。
——きっと、生きられる。そう願いながら、わたしは彼の側で静かに座り続けた。
わたしに生きる意志を教えてくれたのは、あの若君だ。あの人に会いたい。その気持ちが突き動かされていた。

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