5

日が昇り、また沈む。そんな日々の中で、昆奈門は少しずつ回復していった。最初は息をするだけで痛みに顔を歪めていた彼だったが、今では支えさえあれば体を起こせるまでになった。まだ自由に動けるわけではないが、その変化は尊奈門にとっては何よりも嬉しいものだったらしい。

ある日、昆奈門が初めて自力で上体を起こせたとき、尊奈門はわたしの目の前で声を震わせながら叫んだ。そして、次の瞬間には勢いよくこちらに飛びついてきた。

「お前が一緒に手伝ってくれたおかげだ!」

尊奈門の腕がわたしの背中に回り、子供らしい力でしっかりと抱きしめられた。その温もりと、胸に響く鼓動に、彼がどれほどこの瞬間を待ち望んでいたのかが伝わってきた。

「……良かったですね」

わたしはそっと彼の背を撫でた。その頃には、わたしはすっかりと周囲の人々に信頼されていた。最初は得体の知れない者として警戒されていたが、尊奈門とともに治療を続けるうちに、誰もがわたしを仲間として認めるようになったようだ。人に疑われて生きるのは生きづらいため、何かを期待したわけではないが信頼を得られたのであればこれでよかったと思う。

そんなある日、ようやく彼らの正体を教えてもらうことができた。
世間知らずのわたしは何もわかっていなかったが、ここはタソガレドキという領地であり忍びの暮らす村だったらしい。そう聞かされたとき、わたしはこの地の名がどこか幻想的で、少し寂しげな響きを持っているように感じた。

そして、彼らが「忍者」だということも知った。

今まで意識したことはなかったが、彼らの静かな足音や、わずかな物音にも敏感に反応する様子、規律正しく動く姿に、確かに普通の村人とは異なる何かを感じていた。

「昆奈門様は……とても慕われているのですね」

忍びの者たちは皆、昆奈門を「小頭」と呼び、その回復を心から願っていた。その姿を見て、きっと彼はとても素敵な上司だったのだろうと思う。命を懸ける世界の中で、ただの上官としてではなく、仲間としても信頼される人物——そんな存在になれるのは、きっと彼自身が誰よりも彼らを大切にしてきたからに違いない。

わたしはやはり、若君のことを思い出した。彼は今、どこで何をしているのだろうか。若君を探しに行きたいと思う気持ちがありながらも、それでも、ここまで関わったのなら、途中で放っておくのはあまりにも無責任なように思えた。気がつけば、わたしは昆奈門の治療を続けることを選び、結局三年もの歳月が経っていた。

三年。その間に、尊奈門はすっかりとわたしに懐き、以前はむすっとした表情が多かったが柔らかな表情を浮かべてくれることが増え、わたしに花を摘んできてくれたり、いろんな話をしてくれた。そんなわたしたちの関係は姉と弟のように見えたらしい。

「まるで姉弟みたいだな」

そう周囲の者が微笑ましく言うと、尊奈門は急に顔を真っ赤にして、憮然とした表情でわたしを見た。

「兄弟じゃない!」

ふくれっ面で言い切る尊奈門の様子に、わたしは目を瞬かせる。

「……そう?」

わたしにとっては、家族のように思えることが嬉しかったのに、それを否定されてしまい、なんだか少しだけ寂しさが胸に残った。

「兄弟なんかじゃない、……わたしとこいつは……っ!」

尊奈門はさらに言葉を続けたが、わたしは微妙な気持ちのまま、彼の横顔を見つめていた。せっかく仲良くなれたと思ったんだけどな、わたしの勘違いだったのかな……——そんなことを考えながら、またひとつ、月が昇るのを眺めた。



夏の夜、ふと外に出ると、蛍の淡い光が闇の中を舞っていた。静かに瞬く光が、夜風に乗ってゆらゆらと揺れる。その幻想的な光景に、わたしは思わず立ち止まり、じっと見つめた。
——懐かしい。若君と一緒に蛍を見た、あの夜のことを思い出す。あの時、彼はどんな気持ちで蛍を眺めていたのだろう。手のひらにそっと光る命を乗せて、どんなことを考えていたのだろう。
思いに耽っていると、不意に後ろから声をかけられた。

「懐かしそうな顔をしているね」

振り向くと、昆奈門がそこに立っていた。彼の目は柔らかく、けれどどこか探るような光を帯びているように思う。

「……昔、大好きな人と一緒に蛍を見たことがあるんです」

わたしがそう告げると、昆奈門の表情がわずかに曇る。

「そうか」

短く返した彼の声は、どこか面白くなさそうだった。興味のない話をしてしまったのだろうか……しばらく沈黙が流れた後、昆奈門は少し考え込むように視線を落とし、ふと顔を上げた。

「……じゃあ、私とも蛍を一緒に見てくれる?」

その問いに、わたしは少し驚いたが、すぐに微笑んで答えた。

「もちろん、構いませんよ」

その言葉を聞くと、彼の表情がぱっと明るくなる。

「そうか」

彼は嬉しそうに微笑み、わたしたちは並んで蛍の光を見つめた。夜風がそよぎ、草木がかすかに揺れる音がする。蛍の淡い光が水面に映り、わずかに波紋を作る。静かな時間がゆっくりと流れる中、昆奈門がぽつりと口を開く。

「あの時——」

わたしは顔を上げ、彼の方を見た。

「火傷でひどく苦しかった時に……手を握ってくれただろう?」

わたしはしばし言葉を失った。彼の目は遠くを見つめるように細められ、懐かしむような表情を浮かべている。

「暖かくて……嬉しかった」

彼がその時のことを覚えていてくれたのだ。少しでも痛みを和らげることができたのなら、良かった——わたしはそう思い、微笑んだ。

「そう言ってもらえて嬉しいです」

そう告げると、昆奈門はまっすぐにわたしを見つめた。そして次の瞬間、突然腕を伸ばし、強く抱きしめてきた。驚いたが、彼の体から伝わる温もりに、わたしはふっと力を抜いた。

「本当に……嬉しかったんだ」

彼の声は、どこか切実だった。わたしはただ、喜んでもらえたのならそれでいいと思い、自然と抱きしめ返した。これは今思えば拒絶していればよかったのかもしれない。男女の仲など、虫であるため知る由もなく、だから、ただ純粋に、彼の気持ちに応えるように、そっと腕を回した。

蛍の光が、優しくわたしたちを包んでいた。


夜の風が静かに吹き抜ける。わたしは、遠くで鳴く虫の声を聞きながら、焚き火の淡い光の中で昆奈門と向き合っていた。
「若君も、この景色を見てるかなあ……」
蛍を見ると思い出す懐かしい記憶を思い出しながらぽつりとこぼすと、彼は何か考え込むようにそれを見つめ、ふと口を開く。

「……君の中にいる人物が、たまに憎らしく思える」

彼の言葉に、わたしは瞬きをした。
——若君のことを言っているのだろうか?
そう思ったが、確信が持てなかった。昆奈門の横顔は淡々としていたが、その声の奥にはどこか複雑な感情が滲んでいるように思えた。

「憎い……?」

自分の知らない感情を告げる彼に、戸惑いを覚える。

「君のいう若君ではなく、私を一番に見てほしい」

まっすぐに向けられた言葉に、わたしは戸惑いを覚えた。

「……わたしは、若君に命を救われたんです」

だからこそ、わたしは若君を一番に思っている——そう伝えると、昆奈門はほんの少し目を伏せた。

「そうか、残念だな」

その言葉は、まるで諦めたかのような、けれどどこか重苦しい響きを持っていた。わたしはこの機会に、ずっと考えていたことを話すことにした。

「あ、ええと……怪我もだいぶ落ち着いて歩けるようになってきてよかったですね!昆奈門様の火傷も落ち着いてきましたし……そろそろ若君を探しに外へ行こうと思っています」

その言葉を聞くと、昆奈門はほんのわずかに肩をこわばらせた。彼はしばらく沈黙し、そしてやんわりと言った。

「……行かないでほしい」

わたしは少し驚いたが、すぐに微笑んで首を横に振った。

「でも、わたしは若君に会いたいんです」

そう言うと、彼の顔に影が落ちたように見えた。

「……そうか」

今までの感謝を込めて、わたしは頭を下げる。

「今まで、本当にありがとうございました」

そう告げた時、昆奈門の目が薄暗い色を帯びていたことに、わたしはまだ気がついていなかった。





若君に会いに行こう。そう決めたわたしは胸の奥が躍るような気持ちで、屋敷のあちこちを巡り、世話になった者たちに挨拶をして回った。

「本当にお世話になりました」

 何度も繰り返し頭を下げるたびに、にこにこと嬉しそうな気持ちが込み上げてくる。やっと、やっと若君に会いに行けるのだ。これまで長い時間を過ごしたここを離れるのは寂しくもあるが、それでも、わたしには会わなければならない人がいる。

けれど周囲の人々の表情はどこか暗かった。

「今は……よした方がいい」

そう言われた。高坂さんも山本さんも、いつも笑ってくれるのになんだか表情が硬い。

「世間はまだ荒れている。もう少し準備をしてからにしてはどうか?」
「今のままでは危険すぎる」

みな、一様にわたしを引き止めようとする。その言葉は心配からくるものだと分かっているが、どうしても釈然としない。何か、わたしの知らない理由があるのではないかという疑念すら浮かんだ。そして、気がつけばわたしは門の前で足を止められていた。

門は固く閉じられ、誰一人としてそれを開けようとはしない。

「……どうしたらいいんだろう」

どうにもならない現状に困り果て、わたしは尊奈門に相談することにした。彼は真剣な表情でわたしを見つめ、そしてぽつりと呟いた。

「本当に、行ってしまうのか……?」

その言葉には、寂しさと不満が滲んでいた。わたしも、寂しくないわけではない。尊奈門と過ごした日々は、確かにわたしの心に根付いていた。それでも、わたしはもともと若君に会うために、恩を返すためにこの世に再び生まれてきたのだ。

「会いたい人がいるから、ごめんね」

そう伝えると、彼は押し黙ってしまった。迷っているような、葛藤しているような、そんな複雑な表情。わたしはどうすればいいのか分からず、そっと彼を抱きしめた。

「ここから出ても、きっと尊奈門と過ごした日々がなくなるわけではないよ」

ただ、わかってほしかった。わたしがこの決断をした理由を。尊奈門の身体がこわばるのが分かった。しかし、やがてゆっくりと、彼もわたしを抱きしめ返してくれた。

けれど彼の口から「いいよ」という言葉が出ることは、ついになかった。









その晩、わたしは昆奈門に呼び出された。

「夜に私は部屋で待っている……会いに来てほしい」

低く静かな声だった。彼の体はまだ完全には回復していない。すこし、緊張しているように思えた。どうしたのだろうか。痛みで不自由しているのかもしれない。そう思ったわたしは、迷うことなく彼のもとへ向かった。

夜の空気は少し湿り気を帯びていて、草の葉が夜露に濡れ、わずかに甘い香りが漂っていた。静かな屋敷の中を歩き、灯りのともる部屋へと足を踏み入れると、そこには昆奈門が待っていた。部屋の奥には、丁寧に敷かれた布団がある。

「もう寝るところだったのですか?」

そう尋ねると、彼はわずかに目を伏せ、ゆっくりと首を振った。

「……本当に、行ってしまうの?」

何度も聞かれた言葉だった。それでも、わたしの気持ちは変わらない。

「はい」

迷いのない声で答える。

「たとえ世間が戦でひどい状況だろうと、わたしは外に行きます。心配してくれる気持ちはとても嬉しいです。でも、この気持ちは止められません」

昆奈門は静かに目を閉じ、そして、ゆっくりと息を吐くように言った。

「そこまで言ってもらえる若君とやらが……うらやましい」

その言葉には、どこか切なさが滲んでいた。その声音を聞いた瞬間、わたしの胸が少し痛んだ。彼は、寂しがっているのだ。わたしがここにいる間、彼のそばで尽くしていた時間を、彼は大切に思ってくれていたのだろう。

「……また、若君に会えたら挨拶をしに戻ってきます」

その言葉が少しでも慰めになればと思って告げると、突然、昆奈門に抱きしめられた。
驚いた。
いつもの抱擁とは違う。昆奈門の腕は強く、どこか焦りにも似た力が込められていた。

「昆奈門様……?」

呼びかけると、彼の呼吸がわずかに乱れているのが分かった。
なだめようと、そっと背を撫でる。しかしその瞬間、抱きしめる力はより一層強くなった。まるで、わたしをこの場から離れさせまいとするかのように。

——なんだか、おかしい。
わたしは、不安を覚えた。このまま、この腕の中にいてはいけない、そんな本能的な違和感が、静かに警鐘を鳴らし始めている。


「ここに来なければ、引き返せたのに」

耳元で、静かに、けれどどこか恨めしげな声が囁かれた。初めて聞くような声で恐ろしく思える。なにか、いけないことをしてしまったのだろうか。そんな不安が押し寄せる。

「無垢すぎるお前が……憎い」

わたしは驚き、彼の顔を見た。けれど暗がりのせいで彼の顔は見えない。

「愛想を振りまき、いろんな奴に慈悲を、愛を振りまくお前が……」

かろうじて見えた昆奈門の目は、暗く沈んでいた。わたしはどう答えればいいのか分からず、ただ困惑して抱きしめられ続けている。次の瞬間視界が大きく揺れ、わたしは床に押し倒されていた。

「……っ!」

状況を理解する間もなく、わたしの身体は彼の重みで抑え込まれていた。なぜ?わたしは何か、彼を怒らせるようなことをしたのだろうか?考えを巡らせる間に、唇に柔らかく、それでいて強い感触が触れる。
口づけ?
それが何のために行われるものなのか、完全には分からない。けれど、意味は知っている。


人間が、恋をした相手にする愛の行為。


わたしは、戸惑いとともに息を飲み、わたしの混乱を見透かしたように、昆奈門は悲しげに笑った。

「……さすがに、口づけの意味は知っているんだろう?」

わたしは息を詰まらせながら、かすかに頷いた。

「じゃあ……若君に、それを許したのか?」

彼の問いに、わたしは即座に首を横に振る、顔が強張る、意味など知らないのに、尋ねてくる男がなぜか恐ろしく思えてしまう。

「いいえ、そんなことは……」

そう答えた途端、昆奈門の表情が変わった。

「……よかった」

その言葉とは裏腹に、彼の顔にはどこか狂気じみた笑みが浮かんでいた。ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。次の瞬間、再び唇を塞がれ、同時に床に強く羽交い締めにされた。

「……っ、ぁ!」

抵抗しようとするが、彼の腕はわたしよりもはるかに力強い。これは、良くないことなのではないか?直感的にそう思った。

「離して……」

わたしは必死に言葉を絞り出したが昆奈門は動じなかった。

「……離す機会はあげた」

低く、感情の読めない声で告げられる。もがこうとする手を彼は強い力で押さえつけ逃がす隙を与えてはくれない。

「それでも、お前は引き返さなかった」

彼の瞳には、もう優しさはなかった。月のない夜のような目だ。彼はこんな目をしていただろうか?

「……無知な自分を恨め」

そう言われた時、ようやくわたしは、目の前の彼が今までとは違う存在になってしまったことを悟った。



無知な虫は、そうして食べられてしまったのだ。

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