おばちゃんにお料理を教えてもらったこと。
吉野先生と小松田さんに事務の仕事を教わったこと。
落とし穴を掘るのが好きな不思議な生徒、綾部くんとの出会い。
保健委員の六年生、善法寺くんのやさしさや、ピクニックに行く約束をしたこと。
日記を読み返しながら、ふふ、と自然と笑みがこぼれる。
――素敵な一日だったな。
ページの隅に、夕暮れの空を少しだけ落書きする。オレンジ色に染まる学園の屋根、遠くで遊ぶ子供たちの影。そうして、日記をそっと閉じると、今日のことが頭の中で映像になってよみがえってくる。きっと明日も、良い日になる。
そう願いながら、静かに目を閉じる。
「いいことでもあったの?」
後ろから声をかけられてびっくりした。
「そんなに驚かないで」と苦笑され振り返ると土井がいる。当たり前のように彼は夜に私の部屋にやってきていた。
「……何も言わずに女性の部屋に入るのは、よくないと思いますが……」
勇気を出してそう告げると、土井はまるで聞いていないかのように「どれどれ」と言いながら、私の手元を覗き込んだ。
日記だ。
彼の指が伸びてくるのを見て、とっさに手を重ねて隠す。
「見せません」
ぴしゃりと、しっかりとした声で言うと、土井は少し面白くなさそうな表情をした。
「……別に、何かやましいことを書いているわけじゃないだろ?」
「それでも、私の日記です。私の個人的なことを見せたくありません」
私がそうきっぱりと言うと、彼は一瞬だけ目を細めた。どこか探るような、試すような、そんな視線だった。
「ふうん」
短く息を吐きながら、彼は布団の横に腰を下ろす。そして何か考えるように視線を落とし、やがてふっと微笑む。
「まあ、いいか。それより、今日も色々あったみたいだね」
「……はい」
日記の中身を知られずに済んだことに、ほっとしつつも、彼がまだ帰る気配を見せないことに内心戸惑う。
「何か、話したいことは?」
「……特には」
「そうか」
そう言いながらも、彼は帰る様子がない。どうして、そんなに当たり前のようにここにいるのだろう。私は、彼が夜にこうしてやってくることに、そろそろ慣れてしまいそうになっている。それが、少しだけ怖かった。土井の腕が、私の背に回る。慣れた手つきだ。
「君は日中はしばらく仕事で忙しいし、私も教員の仕事をおろそかにできないから……夜くらいしか逢瀬ができなくて寂しいんだよ」
そう言いながら、彼は私を抱き寄せた。
「……っ」
驚きと困惑で、言葉が詰まる。
「私は、あなたの恋人でもなんでもないんですから」
精一杯の抵抗を込めてそう告げると、土井はほんの少しだけ腕の力を緩めた。喉元でくぐもった笑い声がする。
「そう言うけどさ。私のことが嫌い?」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
嫌い……ではない。だけど、だからといってこの振る舞いを受け入れられるわけではない。
「……あまりにも振る舞いが悪ければ、嫌いになってしまいそうです」
私は、静かに息を整えてはっきりと、そう答えた。
すると、彼の腕がすっとほどける。私はそっと顔を上げればそこに見えた土井の表情は真顔だった。
「……そっか」
彼はそれだけ呟くと、少しだけ視線を落とし、そしてまた私をじっと見つめる。
「じゃあ、どうすれば嫌われずに済むのかな?」
「許可なく当たり前のように抱き着くのをまずは、やめていただければ……」
彼の声はどこか静かで、だけど少しだけ意地が悪い響きを含んでいた。
土井の腕がほどけたと思ったら、彼はじっと私を見下ろしている。
その目は先ほどとは違う色を帯びている。冷たいわけではない、だけど、どこか意地悪で、それでいて拗ねたような――少し、怖い。
「……昔は君のほうから抱きついてきたくせに」
低く、静かな声だった。
「え……?」
思わず息を飲む。
「……そ、そんなことしてません!」
慌てて否定すると、土井はまるで子どもみたいに「してたもん」と拗ねた声を出す。
「眠っている私に抱き着いていたくせに」
「……っ!?」
さらに追い打ちをかけるような言葉に、目を見開いた。
そんな記憶、ない。彼とは以前から知り合いだったと語られれてはいるが。でも、反応を見るに恋仲ではなかったはずだ。
なのに――私はそんなことをしていたの?
「そ……そんな記憶は、ございません」
何とか言葉を絞り出すと、土井はふんっとそっぽを向く。横顔にはどこか機嫌の悪さがにじんでいる。そんな彼を見ながら、胸の奥がざわついた。
――本当に?私は、そんなことをしていた?
過去の自分の振る舞いを思い出そうとするけれど、全く思い出せない。
なのに。土井の言葉が、胸の奥に深く刺さる。
私の知らない「私」。
私が覚えていない「私」と、土井が知っている「私」。
そのズレが、どこか怖かった。
「と、……とにかく、知らないことは知りません」
私はきっぱりとそう言い切った。それはそれ、これはこれ。過去のことはもう覚えていないし、思い出せないのだから仕方ない。
なのに、土井はあからさまに面白くなさそうな顔をする。
眉をほんの少ししかめ、唇をわずかにとがらせる。ふてくされたような、しかしどこか拗ねたような――そんな表情だった。そんな顔をされても……。
困ってしまう。
土井の記憶の中にある私は、今の私とは違うのかもしれない。
だが、私は私だ。覚えていないものは覚えていないし、覚えていないことを責められてもどうしようもない。
「私は記憶はありませんが……あなたの『藤壺』にも『紫の上』になる気もありませんよ」
淡々と告げると、土井は一瞬目を細め、それからくすっと笑った。
「まるで、それでは私は光源氏だと思われているようだね」
どこか楽しそうな声だった。
「かっこいいとは思いますが……彼ほどいろんな女性に心を移す人は、私の好みではありません」
そう付け足すと、土井の表情が変わった。
「……」
驚いたように、目をきょとんとさせている。
まるで、思いがけない言葉を聞いたかのように。
「かっこいい?……私が?」
食い気味に問い返されて、思わず肩をすくめた。
「……顔は、かっこいいと思いますが」
事実を言っただけなのに、土井はふうん、と低くつぶやいたかと思うと、ふっと笑みを浮かべる。最初は口元だけの微笑だったのに、徐々に目元まで緩み、ついにはにこにこと嬉しそうに笑っている。
「へえ……そうなんだ……」
機嫌が直ったらしい。あんなに拗ねた顔をしていたくせに、今ではすっかり機嫌よく笑っている。なんだか、子供みたい……。そう思わずにはいられなかった。
しっかりしていて、教師としての威厳もあって、周囲から頼りにされている。
けれど、こんなふうにちょっとした言葉でころころと表情を変えるところは、どこか無邪気で……。さっきまでの緊張感はどこへやら、私はため息混じりに土井の顔を見上げた。
「今日は一緒にここで寝ていい?」
土井はにこにこと笑いながら、そんなことを言い出した。
まるで当たり前のようにいうものだから、絶句する。
「いいわけありません」
ぴしゃりと拒絶すると、彼は「えー」と不満そうに唇を尖らせる。
まるで駄々をこねる子供のようだ。けれど、土井の場合、それだけでは済まない。
ふと、彼の顔がぐっと近づいてくる。その予兆に私は素早く動いた。
「……っ」
土井の口を手で押さえる。口づけを手で防いで見せる。間一髪だった。彼は押さえられたまま、目を細めて不満げな表情を見せているが、文句を言いたいのはこちらである。
「そんなに私の唇は安くありません」
そう言い放つと、彼は少し驚いたように瞬きをしてくすくすと笑う。
「いじらしいなあ」
まるで愛おしそうに呟きながら、「残念」と軽く息を吐く様子を見てどこまで本気なのか、どこまで冗談なのか。いや、冗談にしても、度が過ぎているのではないか。この人は、私のことを都合よく扱える女だと思っているのではないか――そんな考えがふとよぎり、私は少しむっとする。
だが、土井は私の表情の変化など気にも留めず、さらりと言った。
「君を紫の上にする気も、藤壺にする気もないよ」
そう言いながら、彼の指が私の髪をふわりと掬い上げる。
細く長い髪の一束を、するりと指に絡め、そして、ふっと唇を寄せて、吸う。
私はぎょっとして彼を睨んだ。けれど、土井は悪びれることもなく、微笑を浮かべたままだ。
「二人とも、悲しい最期だっただろう?」
彼の声が思ったよりも悲し気で、それで低い声だったせいだろうか。その言葉に、私は一瞬息をのんだ。
紫の上も、藤壺も。どちらも、愛されたがゆえに――愛されたがために、悲しい運命を辿った女性たち。彼は、それをわかって言っている。
「……そう、ですね」
私がそう答えると、土井はまたふっと微笑んだ。だが、その笑みの奥には、どこか別の色が潜んでいる気がする。
土井はそのまま、まるで何の前触れもなく、ふっと足払いをかけた。
私は一瞬、足元をすくわれてよろけるが、その体勢のまま腕の中に閉じ込められてしまう。
「ちょっと!」
思わず声を上げるも、もう遅い。土井は私をしっかりと抱きしめ、逃げられないようにぎゅっとその腕を強く巻きつけてくる。息が詰まりそうで、少し驚きながらも、何とか力を入れて反抗しようとするが、腕の中に押し込められた私はすぐに動けなくなってしまう。
「これでも逃げられる?」
土井の声は、耳元で低く響く。私はその重さに少し身をよじってみるものの、力を入れるほどにさらに強く抱きしめられ、もがいても無駄だと感じるものだ。体格差もあるだろうが、単純に彼の力が強い。やっとのことで息を吸い込んで、ちょっと、と小言を言おうとしたとき、土井は突然、ふっと、ぽつりと言った。
「私はあんな悲しい男のようにはならないよ」
その言葉に私は驚き、顔を見上げる。土井の顔は、あのいつもの表情を浮かべているが、その瞳の奥には、どこか寂しさが漂っているように思えた。
――光源氏。
美しく、そしてすべてを手に入れたように見える男。だが、その実、誰よりも寂しさを抱えていた。土井が言う「悲しい男」というのは、光源氏を指しているのだろう。彼もまた、寂しさを内に秘めているというのか。
光源氏が抱えていた孤独と同じように、土井にも何かしら孤独があるんだろうか。
その寂しさを、私はふと感じた。
周りに慕ってくれる生徒だっているし、学園の中で一人ではないはずなのに、土井はどうしてこんなにも孤独を感じるのだろう。
ふと、彼の腕の中に閉じ込められたままで、私は深いため息をつく。
今の私たちの関係は、きっと、どこか不健全だと感じてしまう。
「”土井先生”、私は……」
言葉を選びながら、少し考えてから、決意を込めて続けた。
「今の関係は、ちょっと不健全だと思うんです」
土井は、私の言葉に一瞬何も言わず、じっと私を見つめていた。
その目に、ほんの少しの動揺を見たような気がしたが、すぐにそれを隠すように笑って、私を放すことはなかった。私はしばらく、黙ったままで、彼の腕の中に身を委ねていたが、やがて静かに言葉を続ける。
「だから、私はあなたにもう少し距離を置いたほうがいいと思う」
土井の表情が、また一瞬変わったのを感じた。少し怖いが。だが、それでも私は自分の気持ちを正直に伝えようと心に決める。怖がっていても進まない。
「土井先生のことを私は何も知らない、だからあなたの事をどう思うかをまだ決めれる段階にはありません」
そう告げると、土井はふうん、と面白くなさそうな返事を返すだけだった。私の言葉が少しは響いたのだろうか、少なくとも反応はあった。しかし、その後も彼は無言で私を抱きしめ続けている。顔が見えないから、その表情を読み取ることはできないが、気配で何となく感じる不満と不安の入り混じった空気に、少し息苦しさを感じる。
「その話し方、他人行儀でやだなあ、前みたいに話してよ」
土井の声は少し駄々をこねるように、甘えているようにも聞こえる。
私は深いため息をつきながら答えた。
「土井先生が己の立ち振る舞いを考え直すなら、そうなるかもしれませんね」
返事をするには少し冷たすぎるかとも思うが、今の私はそのようにしか言えない。
土井は黙り込んだ。沈黙が長く続くと、少しだけ不安がこみ上げる。もしかしたらこの人は、何も言わずに自分の思い通りにすることで、私を束縛したいのだろうか。そんなことを考えながらも、私は静かに続ける。
「おかしいな、返事が返ってこない……」
都合の悪いことを無視する癖があるな、この人。その癖が、私をさらに困らせているとわかっているんだろうか。
「いつまでもこんなことを許すわけにもいきません。あなたも本当はわかっているんでしょ?」
私の言葉に対して、また何も返ってこない。その無言の中で、私は自分の言葉がどれだけ無駄なのかを感じ始めていた。
「あなたはどうすれば、なんて言葉を返せば満足できるんですか?」
問いかけても、やはり返事はない。何が欠けているのだろう。土井が本当に求めているものは何なのだろうか。彼が無意識に抱いているのは、孤独を埋める何かだと感じる。あの空に浮かぶ月を、まるで手の届かないものを、彼は手に入れようとしているような気がしてならない。けれど、私がその月を取ってきてあげることなど、到底できない。
どうすれば、この男の孤独を埋めることができるのだろうか。
私はただ、問い続けるしかない。
「いっしょにいて」
「…………」
私は結局、土井の抱擁の中で、彼の抱えている孤独と向き合わせられているように感じていた。されるがままになっていることに、少しだけ甘んじている自分に気がつく。彼の孤独に引き寄せられているのか、それともこの関係にどこかで絆されているのか。
わからないけれど、私はただそのまま、抱きしめられるがままでいた。
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