雨の匂いが強くなり、土が濡れて冷たさを増していく。そんな中、ふと思い出した。
まかされていた洗濯物を取り込んでいなかった。
布はとても貴重なものだ、なくしたら大変だと慌てて外へ駆け出す。風が吹き荒れ、視界を奪うような雨が降り注ぐ。夜の中に白い布がはためき、物干し竿から今にも飛ばされそうになっているのが見えた。
「……なんとかしないと」
袖をまくり、手を伸ばす。その時轟く風とともに、空から何かが飛んできた。
重い木材は嵐の勢いに巻き込まれ、宙を舞いながらこちらに向かってくる。
避けられない、咄嗟に目をつむり衝撃に備えたその瞬間、誰かが腕を掴んだ。
「危ない!」
強い力が私の身体を引き寄せ、背中が温かい何かに押し付けられる。次の瞬間、木材が地面に叩きつけられ、泥が跳ね上がった。
「こんな嵐の中で何をしている!」
鋭い声が耳を打つ。顔を上げると、そこには昆奈門がいた。
「洗濯物を……」
戸惑いながら答えると、彼の眉が深く寄せられた。
「そんなものはどうでもいいだろう」
そう言いながら、無理やり私の手を引く。抵抗する間もなく、強い腕に抱え上げられ、足が地面を離れた。
「え……?」
驚く間もなく、昆奈門は私を抱えたまま屋内へと駆け込んだ。戸が勢いよく閉められる。外の風の轟音が、少し遠ざかっていく。
「……君は本当に…………」
彼は息を切らしながら、私をそっと降ろす。雨に濡れた着物が肌に貼りつき、ひどく冷たかったため思わず小さく震えてしまった。
「ここで待ってるんだよ」
そう言うと、昆奈門はすぐに手ぬぐいを持ってきて、そっと水を拭ってくれた。濡れた髪が額に張りつく。彼はそれを丁寧にぬぐいながら、少し呆れたように言った。
「君よりは頑丈だからね」
「でも、あなたも濡れていますよ」
そう指摘すると、彼は少し笑った。
「病み上がりだが私は忍びだ。風呂に入って温まるといい。女が体を冷やすべきではないからね」
「……?女であることが関係あるのですか?体が冷えるのは、それはあなたもでは?」
私は首を傾げる。
「私は男だからね」
その言葉の意味が分からない。男女で寒さに耐えうる違いがあるのだろうか。不思議に思っていると、昆奈門が少し目を細めた。
「……なに?私と一緒に風呂に入りたいの?」
突然の問いかけに、私はきょとんとする。
「入るそぶりがないなら、一緒に入るよそれがいやだったら……」
彼がそのように告げるが特に恥ずかしさを感じる理由もない。彼が話している途中で私は素直に尋ねた。
「……一緒に入りますか?」
その瞬間、昆奈門が一瞬言葉を失ったように黙る。聞こえていなかったのだろうか?
「一緒に入りますか?」
「………………………………」
そう重ねて尋ねると、彼は突然頭を抱えた。変なことを言っただろうか……?私がわからずおろおろとしていると、はあ、と彼は溜息を吐く。
「……そういうことは、絶対に私以外には言わないように」
その言葉の意味が分からず、私はただ不思議そうに彼を見つめるだけだった。返事は、と促されててはい、と答えればよろしい。とうなずいた。
「四の五の言わず、入るんだよ」
しびれを切らした昆奈門はそう言うや否や、私の身体を再び軽々と抱え上げた。
「えっ——」
驚く間もなく、そのまま風呂場へと連れて行かれ、ぽんと湯船の前に下ろされた。
「 入 る ん だ よ ! 」
呆然としていると、彼はため息をつきながら続けた。
「あの、あなたは」
「私は今回は遠慮しておくよ、また今度、ね」
その言葉とともに、昆奈門はさっさと背を向けて出て行った。浴室の戸が閉まる。
湯気が立ちこめる中、私はじっと扉を見つめた。
もしかすると、まだ火傷が痛むのだろうか。
熱湯に近い湯船は、今の彼には厳しいのかもしれない。
「……配慮が足りなかったな」
自分の言葉を思い返し、後悔の念が湧いてくる。それでも、湯に浸かると全身がじんわりと温まり、冷え切った身体がほぐれていく。しばらくして、風呂を上がり、自分の部屋へ戻った。
湯冷めしないように厚手の布を羽織り、落ち着いたところで、ぼんやりと揺れる灯りを見つめていた。すると、静かに戸が開く音がする。
「……来たよ」
昆奈門だった。彼がこうして訪れるのは、もう何度目だろうか。
最初の頃は、ただ話をするだけだった。けれど、いつの間にか、彼と同じ布団に入るようになっていた。嵐の夜、外では風が唸り、雨が激しく降り注ぐ。
そんな中、隣から伝わる温もりは、不思議と心地よかった。彼の胸板に身を預けると体の大きさを感じる。聞こえてくる心音は一定の音を立てて彼の命が生きていることを感じさせた。
そうしてしばらく私を見つめていたかと思えば、彼が顔を近づけてくる。あ、と思い口づけをするのだと察した。口づけをしてくるのはちょっとなんだか恥ずかしいことのように思えて、恥ずかしいから……と断ろうとすると、もっと恥ずかしいことをしているはずなんだけどね、と口づけられて、肌をなでてくる。
その触れられ方はなんだかむず痒くも感じて苦手だ。彼に前に一緒に寝た時つけられた肌にある噛み痕をなぞられた。たまに戯れで噛みついてくるので、私の肌には彼の歯の後がいくつかついていた。なんでそんなことをするのかと聞くと愛おしいからだと言っていた。食べたくなるような何かがあるのだろうか?人間は不思議だ。
「君はほんとに、何にもわかっていないお馬鹿さんだねえ……そして私は、そんな君に付け入る卑怯者だ……意味が分かるようになったら、君は私を嫌いになるかもしれないな」
「? ……嫌いになんてならないですよ」
「ほら、なにもわかってない」
ちょっと馬鹿にした様子を見せる彼にむっとすれば、嘘嘘、今日も一緒に寝ようかといってそうして布団の中に入っていく。
夜の静寂が広がる。障子の向こうでは風がわずかに揺れていて、まだ嵐は去っていないのだろう。私は布団の中で、昆奈門の温もりを感じていた。彼の穏やかな呼吸が規則正しく聞こえる。
眠る気分になれずじっと彼を見ていると突然、彼が口を開いた。
「……もともと蝉だったって言ったのは本当?」
不意の問いかけに、私は少し驚いた。
「本当」
そう答えると、彼はしばらく黙っていた。暗がりの中で、彼の目が何を見つめているのかは分からない。
「……あなたも笑うの?」
私は思わず尋ねた。これまで、この話をして笑わなかった人はいなかった。みんな冗談だと思い、信じようとはしなかった。
しかし、昆奈門はすぐに「笑わないよ」と言ったため、その言葉に、私は戸惑った。
「詳しく聞きたい」
そう言われ、私はおずおずと語り始めた。
かつて蝉だったこと。土の中でずっと眠っていて、地中に出たらすぐに死にそうになり、若君が私を助けようと拾い上げてくれたこと。短い命を終えかけたとき、火の鳥という神秘的な鳥が現れ、もう一度命を与えてくれたこと。人間にしてもらえたことを。
「私は、若君に会うためにきっと選ばれたのだと思う」
自分の存在の意味を、ずっとそう信じていた。
「だから……外に行かせてほしい」
また同じ言葉を口にする。
しかしそれを聞くと落胆したような様子を見せた。
「そればっかりだね、君は。今、君といるのは私なのに」
昆奈門の声が低くなる。彼の表情が、少し苛立ちを帯びたものに変わる。私はその変化に気づきながらも、引き下がることはできなかった。自分にとっての生きる意味、生まれてきた意味を全部否定された気がして。
無邪気な、子供じみたものなのかもしれない。それでも私の願いをどうか否定しないで。目の奥が熱くなる。こんなの初めてだ。
「……でも、私は若君に会うために——」
「運命なんかじゃない」
彼はきっぱりと遮るように言った。その言葉が、胸に鋭く突き刺さる。
私はショックを受け、思わずムキになって言い返す。
「でも、私は——」
「……それが運命だっていうのなら、君の、その運命の人をを塗り替えられるなら、どんなに良かっただろうね…………」
彼はそう呟くと、強く私を抱きしめた。彼の腕の力が、いつもよりも強い。
まるで、私がどこかへ行ってしまうのを恐れるかのように。私は言葉を失い、ただその温もりの中に閉じ込められていた。
でもやっぱり、私は若君に会いたいんです。
それは自分勝手な願いでしょうか?
ここにいない火の鳥に問いかけた。
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