わたしは地面に落ちていた。翅はひしゃげ、呼吸も浅い。もはや飛ぶことも、木に登ることもできなかった。終わるのだと思ってあきらめようとして——けれど、温かな手がわたしを拾い上げた。
若君だ。
幼い顔が心配そうにわたしを覗き込んでいた。指先が優しくわたしを包み、そっと木の幹に戻してくれた。その時、わたしは知った。この人がわたしのすべてになるのだと。
また会いたい。ただ、それだけを願った。
強く、強く願った。
気がつけば、わたしは手足を持ち、走っていた。風が頬を打ち、地面を蹴る感覚が鮮やかだった。手があるって、足があるって、素敵。
そして、ついに若君に再び会うことができて、目の前には、あの日と変わらない笑顔があった。優しく微笑む若君。その瞳が、わたしを映しているその光景を、この笑顔を、ずっと見ていたい。
そう願った瞬間、景色が変わっていく。
燃え盛る炎。
若君の家が燃えている。空を裂くように火の粉が舞い、屋敷は赤く染まっていた。
炎がすべてを呑み込んでいく。黒煙が渦を巻き、人々の悲鳴が響いてすべてを奪う。
わたしはその光景を、ただ茫然と見つめている事しかできない。
——こんな場所を、若君に一秒でも見せたくない。
そう思った瞬間、手を伸ばしていた。若君の手を取る。
「行こう」
言葉にならない声が喉の奥から漏れる。わたしは若君の手を引いて走った。炎の熱が肌を刺す。燃え落ちる梁が軋み、床が崩れる音がした。しかし、足を止めることはできなかった。
「助けてくれ……」
誰かが炎の中で声を上げていた。視線を向けると、そこには燃え盛る火の中に立つ昆奈門の姿があった。火に包まれながら、彼はわたしを見つめていて、わたしは息を呑んだ。
若君の手を握りしめる手が強まり、昆奈門の片方の目を見つめる。
——どっちを選ぶの?
炎の向こうから、彼がそう問いかけた。答えられなかった。
どちらかを選ぶことができなかったとしたら?私は、私は…………?
答えられないまま炎が全てを覆い尽くし、視界が真っ赤に染まる——
そこで目が覚めた。
耳の奥で蝉の声が響く。うるさいくらいの鳴き声が、夏の空気を震わせている。
汗が額を伝い、喉がひどく渇いていた。
熱に浮かされながら、ゆっくりと身体を起こす、外から差し込む光が、容赦なくまぶしかった。
空気が重たく感じる。夏の暑さが続く中、尊奈門が夏風邪を引いた。
昼間から調子が悪そうだったが、無理をしていたのだろう。夕方になる頃には熱が上がり、ぐったりと横になっていた。
「しばらく安静にしていたほうがいい」
医者からそう言われても、彼はじっとしているのが苦手なのか、なかなか寝ようとしなかった。薬を飲ませ、水を口に運びながら様子を見る。額に手を当てると、まだ熱がある。
「眠ったほうがいいよ」
そう言うと、尊奈門は少し不安そうな顔をした。
「……寝ている間に、どこかに行ってしまわないか?」
消え入りそうな声だった。熱のせいか、普段の尊奈門らしくない弱々しさがにじんでいる。
私は少し微笑みながら、彼の手を握る。
「大丈夫。一緒にいるよ」
そう告げると、尊奈門はじっと私の顔を見て、ゆっくりと瞼を閉じた。どこかまだ疑うような表情だったが、それでも眠気には抗えなかったのだろう。寝息が静かに聞こえ始めた。
私はそっと、彼の額の汗を手ぬぐいで拭ってやる。何度か寝苦しそうに身じろぎするたび、少しずつ手を伸ばしては、乱れた布を直したり、水を飲ませたりした。薬が効いたのか、次第に熱が下がっていくのがわかった。
普段の尊奈門は、背伸びをして大人ぶることが多かった。けれど、こうしていると、やはりまだ子供なのだと感じる。
気丈に振る舞おうとしているのも、無理をしているのも分かる。
私は、もう一度彼の額に手を当てた。汗が引き、少し落ち着いた呼吸が聞こえてくる。
熱が引いてよかったと私は、小さく呟いてそっと布を掛け直しながら、彼を見守るように静かに夜の時間を過ごすことにした。
看病を続けていると、静かに戸が開く音がしたので振り向くと、そこには山本さんが立っていた。彼は中を覗き込み、尊奈門の寝顔を一瞥すると、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
「様子はどうだ」
低く落ち着いた声だった。私はそっと頷きながら、手にした手ぬぐいで尊奈門の額を拭う。
「熱は少し下がりました。まだ寝苦しそうですが、先ほどよりは落ち着いています」
山本さんは小さく頷き、腕を組んだ。よかったと安堵した様子を見せて顔を覗き込んでいる。
「ここしばらく疲れが溜まっていたのかもしれん、小頭の治療もあって気丈にふるまおうとしていたんだろう。父親のことで責任を感じていたからな……」
そう呟く声には、どこか気遣いが滲んでいる。彼の視線は尊奈門に向けられていた。山本さんには六人の子供がいると聞いたことがあった。そのせいか、こうして眠る尊奈門を見つめる目は、どこか父親のような優しさを含んでいるように思う。
「忍者を目指す以上、怪我をしたり、苦しむことも多いのでしょうか」
そう尋ねると、山本さんは静かに頷いた。
「そうだ」
簡潔な返答だったが、そこには多くの意味が込められているようだった。
「それでも、彼は小頭を守りたいと言って、自分の意思で忍者になることを願った」
山本さんの言葉に、私は思わず尊奈門の寝顔を見つめた。
普段は子供らしく無邪気な面も見せる彼だが、心の奥では強い決意を抱いていたのだろう。
「心配かもしれないが、どうか彼を見守ってやってくれ」
山本さんはそう言い残し、静かに立ち上がった。私はその言葉を噛み締めながら、再び尊奈門の額に手を当てた。熱は少しずつ引いている。彼の選んだ道を見守る——。それが、私にできることなのかもしれない。
「尊奈門、早く元気になって楽しい話をまた聞かせて」
眠っている彼に話しかけるが、返答はなかった。
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