「買い忘れないな?」
「おう、ないぞ」
メモに目を落としながら、空閑遊真はそう答えた。
それはあるよく晴れた日、二人で買い物に出かけた帰りのことだった。
「ねえ、ちょっと寄り道してもいい?」
「あぁ、今日はレイジさんもジンさんも遅くなるみたいだから、夕飯ゆっくりめにして皆で食べようって言ってたもんな。まだ時間あるよ」
涼宮梓がそう言うと、空閑は無言で頷く。そして、そっと彼女の手を握った。
「じゃ、ちょっと付き合ってくれ」
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そこは、廃ビルのような建物だった。そこまで古くはないようだが、あちこち壁が剥がれていたり、鉄鋼がむき出しになったりしている。
「なんでも、元々ホテルだったのを取り壊そうとして、中途半端なまま放ったらかしなんだと。」
「ふぅん…」
キョロキョロと見回すと、確かにベッドやらテーブルやら、ホテルらしいものが無いわけでもなかった。ただ汚れていたが。
「で、アズサにひとつ頼みがある」
「なあに?」
彼はくるりとこちらを向いた。外は明るいはずなのに、建物内はえらく暗かった。
「おれと結婚してほしい」
「…………は?」
涼宮の顔が引きつる。困惑するのも無理はない。何もかもが滅茶苦茶だ。
「ダメ?」
「えっ、いやそうじゃなくてさ、ん?なんで、今?」
涼宮の瞳が揺れた。相手の真意が掴めない。誰だって不安になるはずだ。
「ダメじゃないのか?」
「ダメなわけじゃないけど」
「いい?」
「…………うん」
答えてから、涼宮は途端に恥ずかしくなった。それを誤魔化すように、彼女は首を振る。
「って、いやいやそうじゃなくて、なんで今!?」
「結婚式しよう。今、ここで」
彼女は瞳を瞬いた。長いまつ毛が上下に揺れる。喉がカラカラに乾いていた。
「…なんで?」
「できるかわかんないだろ」
彼は笑っていた。その言葉が、仕草が、表情が、全てが何もかも受け入れたような、覚悟したような、そんな気がしてならなかった。
涼宮は再度気付かされる。
空閑遊真に、約束された死が付き纏っていることに。
「……いやだ」
ポツリと落ちたその言葉は、建物内に嫌という程大きく反響した。
「いや、絶対に嫌だ。…なんでそんなこと言うんだよ」
「証をつくっておきたいんだ、せめて、形だけでも」
息が詰まった。背中に氷水を浴びせられたようだった。それはあまりに残酷で、非情な頼みだった。
「……ばかじゃないの、そんなの、そんなの最低だよ……証だけ残ったって、そんなの全然うれしくない」
「うん、全部おれのせいにして」
涼宮は、腹の奥から熱いものが込み上げるのを感じた。叫びたいほど悲しかった。刺されたように痛かった。でもそれ以上に、彼の中の自分がそれほどに大きな存在だったことに、場違いな幸福感が胸を支配していた。
「ばか、ばか、絶対やだよ、許さないからな、ボクより先にいなくなったら、ほんとにほんとに怒るからね」
埃まみれの廃墟の床に、ポタリと雫が零れた。空閑が覗き込めば、涼宮は拳で何度も目元を拭っていた。空閑が唇を強く噛み締めたことに、涼宮は全く気が付かない。
「すまんアズサ、ごめん、ごめんな」
空閑はしゃがみ込んだ涼宮の目元を、優しく指でなぞった。熱い水滴が、温度のない彼の指を伝う。
「ゆるさない、ゆるさないよもう、ばかぁ」
「……嫌いになった?」
それならどれだけ楽になれるかと、互いが同時に考えた。しかしその考えには、二人とも心は揺れなかった。
「ばか、ばかじゃないの、大好きだよ」
「…うん、おれもだ」
まだグズグズと立ち上がれない涼宮の頭を、空閑は丁寧に撫でていた。
ふと、彼が涼宮の左手を取る。
「じゃあ、こうしよう」
彼女の左手の薬指に、空閑は軽く唇を落とした。
「予約」
彼女の真っ赤な顔を目視したと同時に、空閑は飛びついてきた彼女を抱きとめた。涼宮は肩を震わせていた。
「そろそろ帰んないと」
「……まだ、もうちょっと」
窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。
トリオン体でできているはずの空閑の手は、酷く暖かく感じられた。涼宮は、この日常が終わりませんようにと、信じてもいない神に、ただひたすら祈るしかなかった。