月明かりが闇夜を照らしていた。恐ろしく静かな夜更けだった。彼が手の中のカップにふぅっと息を吹きかけると、白い湯気がふわりと立ち上る。水面が穏やかに波打った。
「キミは温かいやつ飲むんだ?」
「うん。スズは冷たいのなんだな」
「さすがに暑いからねえ」
カフェオレを喉に流し込む。ヒヤリと口内が冷えて心地よかった。同時に湿気を多く含んだ風が肌を撫でる。髪が顔に張り付いて気持ち悪かった。
「おまえさ、あんまり笑わないよな」
「えっ?」
唐突すぎる一言に、思わず聞き返してしまう。ボクが、あまり、笑わない、と。彼は今そう言ったのか?一瞬今まで上手く笑えていなかったのかと不安になったが、恐らくそうではない。よく人に言われることはその真逆の「よく笑うね」だからだ。
「そうか?笑う方だと思うけど」
そこまで思考を巡らせて、ようやっとボクはそう返した。
グラスに付いた水滴が指先に触れる。
「おれにはいつも、泣いてるように見えるよ」
カラン、とグラスの中の氷が崩れた。胸を刃物で刺されたような心地がした。あれほど明るかった月も星も、全て感じ取れなくなった。耳の奥で重苦しい重低音が響いていた。
「…はは、よかったよ。ウソを見抜けるのがキミで。キミなら言いふらしたりしないだろう?」
「何を?」
「ボクがウソツキだってこと」
彼は目を伏せた。彼の儚げで苦しげで、何かを憐れむようなその瞳には、ボクは気付かないフリをした。
「なんでそんなウソつくんだ?」
予想出来ていた問いだった。けれども実際言われてみると、どうしようもなく苦しかった。下を向くと今にも全てを吐き出しそうだった。だからボクは上を向いた。月も星も、ちゃんと綺麗に輝いていた。
「さぁ、もう忘れちゃったな」
「それもウソだ」
カラン、とまた氷が崩れた。溶けていく氷のおかげで、カフェオレはもう薄かった。
「…じゃあ自己満足かな」
「ウソだ」
これには少し驚いた。完全に自己満足ではない、なんてこと、絶対ないと思っていたから。
ボクは大きく息を吐いた。それはボクにとって、自己を殺すおまじないだった。
「ボクが弱音なんか吐いたら、皆笑顔ではいられなくなるだろ」
彼が今初めてこちらを向いた。深紅の瞳が大きく揺れる。何度か瞬きを繰り返した。
「…わからん。支え合うのが仲間だってオサムが言ってたけど、それとはだいぶ違うみたいだな」
「わかんなくていいさ。そんなの、はなっから求めてない」
温くなっていたカフェオレを、ボクは一気に飲み干した。
「ボク一人が我慢すれば、他の誰かの負担が減る。だったらボクはいくらでも堪えるよ。だってボクは、みんなのことが大好きだから」
「それじゃあ、スズが―」
立ち上がると、コンクリートに映ったボクの影が大きく伸びをした。
「『あなたの為なら死ねる』なんてロマンチシズムには反吐が出るが、間違ってるとは言いきれん。
他人を優先するのは何もボクだけじゃないだろ。オサムだってチカちゃんだって、それに、キミも。」
これだけ星が綺麗なら、明日はきっと晴れるだろう。
「おやすみ空閑。また明日ね」
彼は何かを言いかけたが、その口は再び閉じてしまった。ボクが屋上の扉を閉めるまで、キミは何かを言いたげにずっとこちらを見ていた。けれどボクは引き返さなかった。
自分勝手に話しすぎてしまったかと後悔したが、ああする他になかったように思う。だって、きっとあれ以上は、彼を傷付けてしまっていたかもしれない。彼に苛立ちを覚えている自分に気づき、ボクは酷く嫌気がさした。キツく噛んだ唇に血が滲む。
――あぁ、嫌いだ。